気を失う直前、グラハムの頭に最後に残った印象はベルの鳴る音だった。後に教えられたところによると、彼は一時間近くの間、意識を失って生死の境をさまよっていたのだった。意識を取り戻した時、彼は半透明の長椅子に仰向けに横たわっていて心臓と喉は燃えるように熱かった。自分の腕からあの黒い装置が取り外され、そこに絆創膏が貼られているのに彼は気づいた。周囲にはまだ白いフレームがあったが、その間に張られていた緑がかった透明の物質は完全に消え失せている。深いすみれ色のローブを着た一人の男、あのバルコニーにいた者の一人が鋭い目つきで彼の顔を見つめていた。
遠く、しかし強烈な、ベルの騒がしい音と騒然とした物音が聞こえ、それは一緒になって叫んでいる膨大な数の人々の姿を彼に思い起こさせた。そこで何かがこの騒ぎに幕を下ろしたように思えた。扉が突然、閉じられたのだ。
グラハムは頭を動かした。「いったいこれはどうしたわけなのですか?」彼はゆっくりと言った。「ここはどこです?」
最初に目にとまった赤毛の男の方に彼は目をやった。彼が何と言ったのか尋ねているらしい声がして、それから不意に静かになった。
すみれ色の服の男は柔らかな声で答えた。言葉は少し外国訛りのある英語、少なくとも眠っていた者の耳にはそう聞こえる英語だった。「あなたの身はまったく安全です。あなたは眠りに落ちた場所からここへ運ばれてきたのですよ。大丈夫、安全です。あなたはここでずいぶん――眠っていました。昏睡状態だったのです」
男はさらに何かを言ったがグラハムには聞き取れず、それから男は小ビンを手に取った。何か冷たいものが吹きかけられるのをグラハムは感じた。一瞬、わずかな噴霧が額にかかり、意識の回復がさらに増した。満足気に彼は目を閉じた。
「気分は良くなりましたか?」すみれ色の服の男が尋ね、グラハムの目が再び開かれる。男は三十代といったところで親切そうな顔をしていて、亜麻色の尖ったあごひげを生やし、すみれ色のローブの首元には金の留め具を付けていた。
「ええ」グラハムは答えた。
「あなたはずいぶん長い間、眠っていました。強硬症の昏睡状態だったのです。耳にしたことはありますか? 強硬症について? 最初は慣れないでしょうが、全てうまくいくと保証します」
グラハムは返事をしなかったが、その言葉は彼を安心させた。彼の目は自分の周囲にいる三人の人間の顔から顔へと移っていった。自分はコーンウォールのどこかにいるに違いないと思ったが、その印象と周囲にあるものの折り合いをつけることができなかった。
ボスキャッスルで目覚めていた最後の瞬間に頭にあった問題が思い出された。一部は解決し、いくらかはそのままだった。彼は咳払いをした。
「私のいとこに電報してくれましたか?」彼は尋ねた。「チャンセリー・レーン、二十七番地のE・ワルミングに?」
相手は皆、辛抱強く耳を傾けた。しかし彼は言葉を繰り返さなければならなかった。「彼のアクセントは何と奇妙ではっきりしないんだろう!」赤髪の男がささやいた。「電報とは、閣下?」亜麻色のあごひげを生やした若い男が、明らかに困惑した様子で言った。
「電子通信を送ったかと言っているのでしょう」三番目の人物が助け舟を出した。歳は十九か二十といったところの親切そうな顔の若者だ。亜麻色のあごひげの男は納得したという風に叫び声をあげた。「どうも私はどんくさくて! 君は何でもこなせるのだな」男はグラハムに答えて言った。「申し訳ありませんが少々難しいのです――あなたのいとこへ電報するのは。彼は今、ロンドンにはいません。ですが相談事についてはまだ気になさらないでください。とても長い間、眠っていたのですし、大事なのは回復することです、閣下」(グラハムはその言葉が閣下であると結論したが、この男の発音は「サイア」だった)
「ああ!」グラハムは言って、静かになった。
まったくもってひどく困惑させられたが、見慣れぬ服を着たこの人々はどうやら状況をわかっているようだ。しかし彼らもこの部屋も奇妙だった。何か新しく設立された場所に自分がいるように思えた。突然の疑念のひらめきが彼に宿った! 間違いなくここは一般に公開されていない建物なのだ! 仮にそうならワルミングに文句を言ってやらなければなるまい。だがそうしたことを示す特徴はほとんど無かった。とはいえ一般に公開されている場所であれば裸で気を取り戻すことなど無いだろう。
それから突然、まったく不意に、彼は何が起きているのかを悟った。疑念の宿る間も、だんだんと理解していく兆しも無かった。不意に、自分の昏睡がとてつもない期間に渡っていたことを彼は理解したのだった。あたかも何か読心術のような過程を経て、彼は、自分を見つめる顔に浮かぶ畏怖からそれを読み取ったのだ。張りつめた感情に襲われながら、彼は異様な目つきで彼らを見つめた。彼らが自分の目つきを読み取ったように思えた。言葉を発しようと口を開いたが、何もしゃべれなかった。事態を理解するやいなや、思考をさえぎる奇妙な衝動が彼の頭に到来したのだ。彼は自分のむき出しの足に目をやり、静かにそれを見つめ続けた。何かしゃべろうという衝動は止んでいた。彼はひどく身を震わせていた。
彼らは緑色の蛍光を発する肉に似た味のピンク色の液体を彼に与えて、これで体力が戻ると断言した。
「ああ――だいぶ気分が良くなりました」かすれ声で彼が言うと丁寧な同意のつぶやきが起きた。今や彼は明瞭に理解していた。彼は再び口を開いたが、またもや声は出なかった。
彼は喉を押さえ、三度試みた。「どれくらいですか?」感情の無い声で彼は尋ねた。「どれくらいの間、私は眠っていたんですか?」
「かなりの間ですよ」亜麻色のあごひげの男が答え、すばやく他の者たちの方を見た。
「どれくらいですか?」
「非常に長い間です」
「ええ――ええ」グラハムは突然怒ったようになって言った。「ですが、私は知りたいのです――それは――それは――何年間ですか? 何年も? 何かあったのでしょう――何なのかは忘れてしまったが。どうも――頭が回らない。しかしあなた方は――」彼はすすり泣いた。「はぐらかす必要などありません。どれくらいなのです――?」
彼は言葉を止めて、不規則に息継ぎをした。こぶしで自分の目を押さえ、座ったまま答えを待った。
彼らは低い声で相談していた。
「五年、いや六年ですか?」彼はか細い声で尋ねた。「もっとですか?」
「それよりもっとずっと長いですね」
「もっとですか!」
「もっとです」
彼は男たちに目をやった。まるで悪霊が彼の顔の筋肉をひきつらせているようだった。問うように彼は見つめた。
「長い年月です」赤いあごひげを生やした男が言った。
グラハムは身をよじらせて座り直した。痩せた手で彼は顔の涙をぬぐった。「長い年月!」彼は繰り返した。目をきつく閉じ、それから開き、座ったまま見知らぬ人の顔から顔へと目を移していった。
「いったい何年の間ですか?」彼は尋ねた。
「気をしっかり持って、驚かないでください」
「それで?」
「一グロス以上です」
彼は奇妙な言葉にいらだった。「何以上ですって?」
彼らのうちの二人が相談するように言葉を交わした。すばやく交わされる言葉は何か「十進法」についてのものだったが、彼には聞き取れなかった。
「どれくらいの間と言ったのですか?」グラハムは尋ねた。「どれくらいの間です? そんな風に見ないで。教えてください」
低い声で交わされる言葉の中から彼の耳がいくつかの言葉を捉えた。「数世紀以上です」
「なんですって?」彼は叫んで、その言葉を言ったように思った若者の方を向いた。「言ったのは誰です――? 何と言ったのですか? 数世紀ですって!」
「ええ」赤いあごひげを生やした男が言った。「二百年間ですな」
その言葉をグラハムは繰り返した。とても長い間、眠っていたと聞く覚悟はしていたが、具体的に数世紀と聞くと打ちのめされた。
「二百年間」彼は繰り返した。頭の中ではとてもゆっくりと開く巨大な深穴の姿が浮かんでいた。それから続けた。「ああ、しかし――!」
彼らは何も言わなかった。
「あなた方は――つまりあなた方が言いたいのは――?」
「二百年間です。二世紀ですな」赤いあごひげを生やした男が言った。
しばしの沈黙があった。グラハムは彼らの顔を見つめ、自分が耳にしたことが確かな真実であると悟った。
「しかし、ありえない」彼は理解しがたいという風に言った。「私は夢を見ていた。昏睡――昏睡は続かない。そんなはずはない――私をからかうために冗談を言っているのでしょう! 言ってください――たしか数日前のことだ。私はコーンウォールの海岸に沿って歩いていた――そうでしょう?」
自分の言葉に彼は落ち込んだ。
亜麻色のあごひげの男がためらうように言った。「私はあまり歴史には詳しくないのです、閣下」弱々しく言うと他の者たちに目をやった。
「その通りです、閣下」若者が言った。「ボスキャッスルです。昔のコーンウォール公領――酪農場の芝地の向こうの南西地方にあった。まだ屋敷が建っていますよ。行ったことがあります」
「ボスキャッスル!」グラハムは若者の方に目を向けた。「そうだ――ボスキャッスルだ。こじんまりしたボスキャッスル。私が眠りに落ちたのは――そのどこかだった。確かなところは思い出せない。確かなところは思い出せないですが」
眉を押さえて彼はささやいた。「二百年以上だと!」
顔をひきつらせながら彼は口早に話し始めたが、心臓が冷えていくようだった。「しかし、もし二百年も経っているなら、私の知る人全員が、眠り込む前に会って話ししたことのある全ての人が死に絶えてしまったに違いない」
男たちは何も答えなかった。
「女王や王室の人々、大臣たち、教会や政府。身分の高い者も低い者も、金持ちも貧乏人も、あれやこれも……。イングランドはまだあるのですか?」
「安心した! ロンドンはどうです?」
「ここがロンドンですって? そしてあなた方が私の補助管財人。補助管財人か。それからこちらは――? え? あなたも補助管財人!」
顔にやつれた目つきを浮かべて彼は座っていた。「しかしなぜ私はここに? いや! 言わないで。静かに。しばらく私を――」
彼は静かに座り、目をこすり、それからピンク色の液体の入った小さなグラスをもう一杯、彼に差し出す彼らに気づいた。彼はそれを飲み干した。飲むとすぐに、自然と涙が流れはじめ、気分が良くなった。
しばらくすると彼は男たちの顔を見て、突然、涙を流したまま少し馬鹿になったように笑いだした。「しかし――二――百――年!」彼は言った。ヒステリックに顔をゆがめ、再び彼は顔を覆った。
ややあって彼はだんだんと落ち着いてきた。座ったまま手を膝からだらりと下げたが、その様子はペンタゲンの断崖でイズビスターが彼を見つけた時の姿勢とほとんど同じだった。彼の注意が、こちらに向かってくる人物の低く偉そうな声と足音に引き寄せられた。「君らは何をやっているんだ? なぜ私に報せない? 君らはそうできたはずだろう? 誰がこの事態の責任を取るのかな。あの男は安静にしておかなければならんのだ。出入り口は閉じられているか? 全ての出入り口だぞ? 彼は完全な安静状態にしておかなければならないんだ。何も教えてはいかん。何か教えたのか?」
豊かなあごひげを生やした男が何か聞き取れない言葉を発し、その肩越しにグラハムの目に背の低い太ってずんぐりとしたひげの無い男が近づいてくるのが見えた。鷲のような鼻とがっちりとした首と顎をしている。鼻の上でほとんど繋がっているとても濃くて黒い少しつり上がった眉毛、そして突き出た深い灰色の両目が、男の顔を奇妙に恐ろしい顔つきにさせていた。男は一瞬だけグラハムをにらみ、それから亜麻色のあごひげを生やした男に視線を戻した。「他の者は」彼はひどくいらだった声で言った。「出て行っていただこう」
「出ていく?」赤いあごひげの男が言った。
「そうだ――今すぐ出て行くのだ。出て行く時に出入り口が閉まっていることを確認するように」
気乗りしない様子でグラハムへちらりと目をやった後、二人の男は素直に向きを変えたが、彼の予測に反してアーチ状の廊下を通らずに、アーチ状の廊下の反対側にある部屋の突き当りの壁までまっすぐ歩いて行った。一見したところ一枚壁に見えたその長い一画が軽い音とともに巻き上がり、退出する二人の頭上まで上がって再び下りた。そうするとすぐにグラハムは新しく現れた男と亜麻色のあごひげを生やした紫のローブの男とともに取り残されたのだった。
しばらくの間、ずんぐりとした男はグラハムに少しも関心を向けずに、もう一人の人物――明らかに男の部下――に彼らの責任の処遇に関する詰問を繰り返した。男ははっきりとしゃべっていたが、グラハムにはその一部しか理解できなかった。彼が目覚めたことは驚きだけでなく、恐怖と不安を男に与えているように思えた。男は明らかにひどく興奮していた。
「あれこれ教えて彼の頭を混乱させるべきではない」男は何度も繰り返した。「彼の頭を混乱させるべきではない」
詰問が終わると、男はすばやく振り向いて、なんとも言えない表情を浮かべながら目覚めた眠れる者に目を向けた。
「おかしな気分ではないですか?」男が尋ねた。
「とても」
「この世界、あなたが目にしたものは奇妙に思えますか?」
「たぶんここで生きていかなければならないのでしょうが、奇妙に思えます」
「そうなるでしょうな、今のところは」
「さしあたっては、何か服を着た方がいいでしょうね?」
「それなら――」ずんぐりとした男は言って口をつぐみ、亜麻色のあごひげの男は彼と目を合わせると去っていった。「すぐに服を用意します」ずんぐりとした男が言った。
「それで確かに本当なのですか、私が二百年間、眠っていたというのは――?」グラハムは尋ねた。
「彼らがそう教えたのですね? 二百と三年ですね、正確に言えば」
今度はグラハムも議論の余地無く受け入れ、眉があがり、口元が歪んだ。しばらく彼は座って黙り込んでいたが、それから一つの質問をした。「近くに研磨機か発電機でもあるんですか?」答えを待たずに彼は続けた。「何もかもがとてつもなく変わったのでしょうね、たぶん?」彼は言った。
「あの叫び声は何なのです?」唐突に彼は尋ねた。
「なんでもありません」ずんぐりとした男がいらだったように答えた。「群衆です。後でもっと詳しく知れますよ――たぶんね。あなたの言う通り、何もかもが変わりました」眉をひそめながら短く答えると、まるで急いで結論を出そうとする者のような目つきで彼を一瞥した。「いずれにせよ、あなたに服やなんやを用意しなければならない。製造が終わるまでここで待つのがいいでしょう。誰もあなたには寄ってきません。ひげを剃りたいでしょうな」
グラハムは自分のあご先をなでた。
亜麻色のあごひげを生やした男が二人に向かって戻ってくると、突然向きを変え、しばらく耳をすまして年長の男に眉を持ち上げて見せてから急いでバルコニーへと続くアーチ状の廊下へと消えていった。騒々しい叫び声は次第に大きくなり、ずんぐりとした男も向きを変えて耳をすました。突然、男が小声で悪態をついて、あまり友好的とは言えない目つきでグラハムの方へ視線を移した。たくさんの声がわき上がっていた。高く低く、叫びと金切り声。そして殴りつけるような音と鋭い叫び声があがったかと思うと、まるで乾いた小枝を折ったような音が聞こえた。グラハムは耳に神経を集中して織りなされる騒々しい音から一筋の音を聞き分けようと試みた。
次に彼が気づいたのは何度も何度も繰り返される一つの決まった文句だった。しばらくの間、彼は自分の耳を疑った。しかし確かにそれは次のような文句だった。「眠れる者に会わせろ! 眠れる者に会わせろ!」
ずんぐりとした男が突然、アーチ状の廊下へと走り出した。
「ワイルド!」男が叫んだ。「やつら、どうやって知ったのだ? やつらは知っているのか? それとも当て推量しているだけか?」
どうやら返事があったようだ。
「そっちには行けない」ずんぐりとした男が言った。「彼と面会中なんだ。だがバルコニーからの叫びが聞こえている」
よく聞き取れない返答があった。
「目覚めていないと言うんだ。とにかくだ! そっちは君に任せる」
彼は足早にグラハムのところまで戻ってきた。「すぐに服を着ていただかなくては」男が言った。「ここに留まっているわけにはいかない――まったく不可能でしょう――」
男は走り去り、グラハムはその背中に問いを叫んだが返事はなかった。少しすると男は戻ってきた。
「何が起きているのかは教えられません。説明するには事情が複雑過ぎる。もう少しであなたの服ができあがるはずです。ええ――もう少しです。そうしたらあなたを連れてここから出られる。私たちが抱える面倒事についてはすぐにちゃんとわかるようになります」
「しかしあの声は。彼らが叫んでいるのは――?」
「眠れる者について何か言っているのです――つまりあなたです。やつらは少々ねじくれた考えを抱いているのです。それがどんなものか、私は知りません。さっぱりわからないのです」
判然としない遠くの騒音にまぎれて、けたたましいベルの音が鋭く響くと、この無愛想な人物は部屋の片隅にある装置の小さな一群へと飛びついた。しばらくの間、何かに耳を傾けながらクリスタルの玉を見つめつつ頷き、それから聞き取れない言葉を二言三言しゃべった。そうした後、男はあの二人の男が通って消えた壁へと歩いていった。壁が再び舞台幕のように巻き上がり、男は立ったまま待った。
グラハムは自分の腕を持ち上げて、そこであの回復薬がもたらした力の大きさに気づいてとても驚いた。片足を長椅子の横に突き出し、それからもう片方の足もそうした。もう頭はふらふらしなかった。この急速な回復に彼はほとんど気づいていなかった。四肢の力を感じながら彼は座った。
亜麻色のあごひげを生やした男がアーチ状の廊下から再び入ってきて、それと同時にずんぐりとした男の前にエレベーターのケージが滑り降りてきた。そこからやせた灰色のあごひげの男が現れた。巻物を手にし、暗緑色のぴったりとした服を着ている。
「仕立て屋です」紹介するような身振りでずんぐりとした男が言った。「その黒い服はまったく感心せんね。どうしてそんなものを着てきたのか理解に苦しむよ。しかししょうがない。しょうがなかろう。できるだけ早く取りかかってくれるか?」男は仕立て屋に言った。
緑の服の男はおじぎをすると前へ進み、寝台の上のグラハムの横に座った。所作は穏やかだったが、その目には好奇心がありありと見て取れた。「ファッションがかなり変わったことにはおそらくお気づきでしょうね、閣下」彼は言った。眉の下からずんぐりとした男の方にちらりと目をやる。
彼がすばやい動作で巻物を広げると、あざやかな布地の奔流が膝の上にあふれた。「閣下が暮らしていたのは円筒状衣を基本とする時代――ヴィクトリア朝時代ですね。帽子は半球型が流行り。使用されるのは常に円曲線。さて――」彼は鍵無し懐中時計くらいの大きさと外観の装置を取り出し、そのつまみを回した。するとどうだろう――白い服の小さな人物が映写機のように文字盤の上に現れ、歩き、振り向いてみせたのだ。仕立て屋は青みがかった白のサテン地を持ちあげてみせた。「すぐにご用意できるのはこれですな」彼は言った。
ずんぐりとした男がやって来てグラハムの肩のそばに立った。
「私たちには時間がほとんどないのだ」彼が言った。
「ご心配なく」仕立て屋が答える。「私のマシンにお任せください。さてこれでどうでしょうか?」
「これは何です?」十九世紀から来た男は尋ねた。
「あなた様の時代ではスタイル画をご覧になったはずです」仕立て屋は言った。「これは現代の発明品です。ここをご覧ください」小さな人物が決まった動きを繰り返しているが、その着ている服はさまざまに変わっていっていた。「こちらはどうでしょう」かちりという音とともに、さらにたっぷりとしたタイプのローブを着たもう一人の小さな人物が文字盤の上に進み出た。仕立て屋の動作は実にすばやかったが、そうしながらも彼はエレベーターの方に二度ほど目をやった。
エレベーターが再び音をたて、ごわごわした薄青色のキャンバス地の服をまとった、中国系の顔立ちの丸刈りにした貧相な若い男が、複雑な機械と一緒に現れた。機械は彼が押す小さな台車に乗せられて音も無く部屋へ運び込まれた。小さな映写機はぞんざいに放り出され、グラハムは機械の前に立つよう促された。仕立て屋が丸刈りの若い男に何か指示をつぶやくと、相手はしわがれた声でグラハムにはわからない言葉を使って返事をした。それからその少年は隅の方で理解できない言葉で独り言を始め、仕立て屋はたくさんの小さな円盤につながるスロット・アームをいくつか引き出し、円盤がグラハムの体にぴったり合うまで引っ張り続けた。一つは肩甲骨、一つは肘、一つは首といった具合だ。最後には体と手足で約四十ほどにまでなった。それと同時にグラハムの背後で誰か別の人間がエレベーターで部屋にやって来た。仕立て屋が機械を作動させると機械の中で部品がかすかな音とともにリズミカルに動き始める。次の瞬間、彼はレバーを強く引き上げ、それでグラハムは解放された。仕立て屋は自分の黒いコートを整え、亜麻色のあごひげを生やした男がグラハムに気分の良くなる液体の入った小さなグラスを差し出した。グラスのふち越しにグラハムは奇妙な目つきで自分を凝視する青白い顔の若者に目をやった。
ずんぐりとした男はいらだった様子で部屋の中を行ったり来たりしていたが、それから向きを変え、アーチ状の廊下を通ってバルコニーへと向かった。バルコニーからはいまだにあの遠く離れた群衆のたてる、時に激しく、時にうねるような騒音が聞こえてきた。丸刈りの若い男が仕立て屋に青みがかったサテン地の一巻きを手渡し、二人はそれを十九世紀の印刷機に取り付けられた紙の一巻きを思わせるやり方で機械に取り付けた。それから彼らはそれら全てをスムーズに音もなく進む台車の上に乗せたまま部屋を横切り、壁から伸びるねじれたケーブルが実に優雅に巻かれて置かれた遠くの隅まで運んだ。二人が何か接続をおこなうと機械は活発にすばやく動き始めた。
「あれは何をやっているんですか」忙しく動き回る人々を空のグラスで指しながらグラハムは尋ねた。新しく現れた人物の凝視はあえて無視しようと努めた。「あれは――何か動力が――引かれているのですか?」
「その通りです」亜麻色のあごひげを生やした男が言った。
「あれは誰なのですか?」彼は背後のアーチ状の廊下を指し示した。
紫の服の男は短いあごひげをなで、ためらってから低い声で答えた。「彼はハワード、あなたの主任後見人です。ご理解いただけると思いますが、閣下――説明するには少し複雑なのです。評議会は後見人と補佐官を任命します。このホールは一定の制限下で公開されているのです。人々が自身を満足させられるように。私たちが出入り口を封鎖したのは初めてのことなんです。ですが思うに――もしよろしければ彼に説明させましょう」
「まったくおかしな話だ!」グラハムは言った。「後見人ですって? 評議会ですって?」それからあの新しく現れた人物に背を向けて彼は低い声で尋ねた。「なぜあの男は私をにらむのです? 催眠術師なのですか?」
「催眠術師! 彼は毛細切除師ですよ」
「毛細切除師!」
「そうです――大物の一人です。年収六ドーズ・ライオンのね」
まったく意味不明に聞こえた。頭をくらくらさせながらグラハムは最後の言葉をとっさに繰り返した。「六ドーズ・ライオンですって?」彼は言った。
「ライオンはわかりませんか? そうだった。あなたはいにしえのポンドを使ってたのでしたね? 私たちの使う通貨単位です」
「しかし何と言ったのですか――六ドーズ?」
「ええ、六ドーズです、閣下。もちろん物事は、こんなささいな物事さえも変わっているんです。あなたが暮らしていたのは十進法の時代でしたね。アラビア体系――何十、何百、何千といった具合の。私たちは今では十一個の数字を持っているのです。十と十一はそれぞれ一文字で、十二は二文字で表します。ダースがダース集まってグロス、つまりグレート・ハンドレッドになり、ダースがグロス集まってドーザンド、ドーザンドがドーザンド集まってミリアッドになる。実にシンプルでしょう?」
「ええ、そう思いますが」グラハムは言った。「しかしあのキャピなんとかについては――何のことなのですか?」
亜麻色のあごひげを生やした男は肩越しにちらりと目をやった。
「あなたの服ができましたよ!」男は言った。グラハムがすばやく振り向くと、肘をついたあの仕立て屋が微笑みながら、見るからに新しい下着を腕にかけているのが見えた。丸刈りの少年は呼び鈴の音を聞いて、あの複雑な機械を自分が乗って来たエレベーターに向かって押して行っているところだった。グラハムはできあがった服を見つめた。「まさかあなたが言いたいのは――!」
「ちょうどできあがりました」仕立て屋が言った。彼はその下着をグラハムの足元に落とすと、さっきまでグラハムが横たわっていたベッドの方へ歩いていき、半透明のマットレスをひっくり返して、鏡を取り出した。そうしている間にベルがけたたましく鳴ってあのずんぐりとした男を部屋の隅に呼び出した。亜麻色のあごひげを生やした男は彼の元に駆けつけ、それからアーチ状の廊下から急いで出ていった。
仕立て屋はグラハムが暗い紫色の上下がつながった下着を着るのを手伝っていた。靴下、肌着、ズボン下まで一つになっている。そうしている間に、バルコニーから帰ってきた亜麻色のあごひげを生やした男と相談するためにずんぐりとした男が戻って来た。二人は低い声で口早に言葉を交わしていたが、その態度には間違いなく不安の兆候が見て取れた。紫色の下着の上に青みがかった白色の複雑な形をした衣服を着ると、再び流行りの服に身を包んだ自分の姿がグラハムの目に映った。顔色は悪く、まだひげ面でむさ苦しかったが、少なくとももう裸ではない。それは言葉で説明することが難しい、これまで見たことのないものだったが、優雅だと言えた。
「ひげを剃らなければ」鏡に映った自分を見つめながら彼は言った。
「すぐに」ハワードが答えた。
しつこい視線が止んだ。あの若い男は目を閉じ、再び開くと、細い手を伸ばしながらグラハムの方へと進み出た。それからゆっくりと手で何かを表現するようにしながら立ち止まって彼を見つめた。
「椅子を」待ちきれずにハワードが言うと、すぐに亜麻色のあごひげの男がグラハムの背後に椅子を置いた。「どうぞ座ってください」ハワードが言った。
グラハムはためらった。目を見開いた男の片手に輝く刃が見えた。
「聞こえましたか、閣下?」亜麻色のあごひげの男が丁寧ながら急くような調子で叫んだ。「彼はあなたの髪を切ろうとしているのです」
「ああ!」グラハムは理解して声をあげた。「しかしあなたは彼のことを――」
「毛細切除師です――正確には! 彼は世界で最高峰の芸術家の一人です」
グラハムはすとんと腰を下ろした。亜麻色のあごひげの男は姿を消した。毛細切除師は前へ進み出るとグラハムの耳を観察し、入念に彼を調べた。後頭部に触れ、もしハワードが待ちきれずにたてる物音が無ければ、彼を観察するために再び座り込んだことだろう。すぐさますばやい動きで巧みに操られる一揃いの道具を使って男はグラハムのあごを剃り、口ひげを切りそろえ、髪を切って整えた。これら全てをおこなっている間も彼は一言もしゃべらず、どこか着想を得た詩人のような恍惚とした雰囲気を漂わせていた。仕事が終わるとすぐにグラハムは一足の靴を手渡された。
突然、大きな叫び声が響いた――どうやら隅に置かれた機械の一つからあがっているようだった――「緊急――緊急。都市中の人々が知った。労働が停止させられつつある。労働が停止させられつつある。今すぐ来てください」
この叫び声はハワードをひどく動揺させたようだった。その身振りから、彼が二つの岐路の間で迷っているようにグラハムには思えた。唐突に彼は部屋の片隅の、小さなクリスタルの玉の周りに色々な装置が置かれた所へ向かって進んでいった。彼がそうしている間にも、アーチ状の廊下の向こうから聞こえてくるこれまでずっと続いてきた低く騒々しい叫び声はとてつもない大きさに変わり、まるで近づいてくるかのように咆哮し、またすばやく引いていくかのように低くなった。それは抗いがたい引力でグラハムを引きつけた。彼はずんぐりとした男に目をやり、それから自らの衝動に従った。大また二歩で彼は階段を下りて廊下に立ち、さらに二十歩ほどであの三人が立っていたバルコニーへと出た。