眠れる者の目覚め, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

動く道


バルコニーの手すりまでたどり着くと彼は上を見つめた。彼の出現に驚きの叫びがあがり、下の広い空間では無数の人々が動き回っていた。

最初に胸を打ったのは圧倒的な建築様式についてだった。彼がのぞき込んだ場所は、それぞれの方向に大きく湾曲した、巨人のようにそびえるビルが並ぶ通りだった。頭上では巨大な片持ち梁が広大な空間を横切るように飛び出し、半透明の素材でできた網目模様が空を遮っていた。白い光を放つ巨大な球体が大梁とワイヤーの間から差し込む淡い太陽光を恥じ入らせている。あちらこちらに蜘蛛の糸のように吊り橋がかかり、深い裂け目を渡る徒歩の人々が黒い点となってその上を動き回っていた。空中には細いケーブルが張り巡らされている。見上げると大建造物の断崖が頭上にそびえ立っているのが見えた。向かいの建物の様子はぼんやりとしてはっきりしなかったが、巨大なアーチ、丸い貫通孔、バルコニー、飛び出た支持壁、突き出た小塔、無数の大きな窓、そして複雑な様式の建築レリーフが目についた。それを横切るように見慣れぬ字体で縦横に文字の列が走っている。あちらこちらの屋根の近くには妙に頑丈そうなケーブルが張られ、空間の反対側にある丸い開口に急峻な曲線を描いて引き込まれていた。そうしたものにグラハムは気を取られていたのだが、それでもなお、薄青色の服を着た遠くの小さな一人の人影が彼の注意を引きつけた。この小さな人影は空間のはるか高いところに張られたそうした飾り綱の一本のそばにいて、建物の小さな張り出しからぶら下がるように進み出し、そのケーブルから伸びるほとんど見えない綱を操っていた。突然のことにグラハムは口から心臓が飛び出しそうになった。男は曲線を描いてすばやく駆け下り、道のこちら側にある丸い開口へと姿を消した。グラハムは上の方に目をやりながらバルコニーへ歩み出ていたので、上方と正面のものがまず彼の注意を奪って他のものは何も目に入っていなかった。それから突然、彼は道路に気づいた! それはグラハムが知るものとはまったく異なっていた。十九世紀においては幹線道路や街路は不動の地面に踏み固められた通り道、狭い歩道の間の車がひしめく小川に過ぎなかった。しかしこの道路は幅三百フィートはあって、しかも動いていた。中央の一番低くなった部分を除けば全てが動いている。しばらくの間、その動きが彼の頭をくらくらとさせ、それから彼は理解した。バルコニーの下を、このとてつもない道路がグラハムの右方向へすばやく走り、十九世紀の急行列車と同じくらい速く途切れることのない流れが駆け下っていた。無限に延びるプラットフォームは、わずかな間隔で重なり合うように横方向に並べられた細い薄板からできていて、それによってゆるく曲がる街路に沿って動けるようになっている。その上には座席が備え付けられ、さらにあちらこちらに小さな売店があったが、あまりに速く流れ去るので彼にはそこに何が置かれているのかはわからなかった。この最も近くて最も速いプラットフォームから、他のプラットフォームが連なるようにして空間の中心へ降りていく。どれも右へと進んでいて、それぞれ一つ上のものよりはそれとわかるほど遅くなっているが、速度の差は誰でもプラットフォームから隣のプラットフォームへ乗り換えられるほど十分に小さく、最も速いプラットフォームから中央の動かない道へ途切れること無く歩いていける。この中央の道の向こうでは別の無限に延びるプラットフォームの連なりがさまざまな速度でグラハムの左方向へ駆け下っていた。そして、この二つの最も広く最も速いプラットフォームの上に群がるように座ったり、プラットフォームからプラットフォームへ渡ったり、中央の空間で行ったり来たりしているのは、数え切れないほどの、驚くほど多様な人々の群れだった。

「こんな所にいてはいけません」突然、横からハワードが叫んだ。「すぐに離れなければ」

グラハムは返事をしなかった。彼には聞こえもしていなかった。プラットフォームはうなり声をたてて走り、人々は叫んでいた。彼は女性と少女たちに気づいた。髪をたなびかせ、美しいローブを着て、胸の間に帯が交差している。全てが最初は混乱の中にあった。それから彼はこの衣服の織りなす万華鏡の中でとりわけ多いのが薄青色であることに気づいた。あの仕立て屋の少年が着ていたものと同じだ。やがて彼は「眠れる者だ。眠れる者に何が起きたんだ?」という叫びを聞き取った。それとともにまるで目の前の疾走するプラットフォームに薄い淡黄色の人間の顔が撒き散らされたように見え、しかもそれはさらに密になっていった。たくさんの指さす手が見える。バルコニーのちょうど正面に延びるこの巨大なアーケード街の動かない中央のエリアが青い服の人々で密にごった返していることに彼は気づいた。何か争いらしきものも激しく起きているようだ。どうやら人々は一方の側の走るプラットフォームの上に押し出されて、意に反して運び去られているようだった。密集した混乱状態から抜け出すやいなや人々は飛び出して、また争いに向かって駆け戻るのだった。

「あれは眠れる者だ。本当にあれは眠れる者だ」叫び声があがる。「眠れる者であるはずがない」別の叫び声があがる。彼の方へ向けられる顔はますます増えていった。この中央のエリアに沿って間隔をおいて開口とも穴ともつかないものがあって、そこから頭をのぞかせる階段から人々が吐き出されたり飲み込まれたりしていることにグラハムは気づいた。争いはそれらのうちで彼に最も近いものの一つを取り巻くようにして起きているようだった。人々はそこに向かって動くプラットフォームを駆け下り、プラットフォームからプラットフォームへ器用に飛び跳ねていった。高い方のプラットフォームに集まっている人々はこの地点とバルコニーに注意を二分されているようだった。明るい赤色の制服を身にまとったがっしりとした小柄な人々の一群が、隊列を組んで整然と動き回り、この下る階段へ近づくのを妨げようとしているようだ。その周りに群衆がすばやく集まっていく。彼らのきらめくような色がそれに対抗する者たちの白みがかった青とあざやかなコントラストをなし、争いは疑う余地のないものだった。

彼がこうしたものを見ている間にもハワードが彼の耳元で叫び、彼の腕を揺さぶっていた。それから突然、ハワードは姿を消し、彼は一人でそこに立ち尽くした。

「眠れる者だ!」という叫びが次第に大きくなり、近い方のプラットフォーム上の人々が立ち上がっていることに彼は気づいた。その近い方のプラットフォームは無人になって右へ消えていき、空間のはるか向こう、反対方向に走るプラットフォームは人を満載してやって来て通り過ぎる時にはほとんど人が乗っていない状態になっていた。信じがたい速さで目の前の中央スペースにとてつもない群衆が集まって来ていた。大勢の人々が密に揺れ動き、叫び声は間欠的な叫びから絶え間なく続く大騒ぎへと成長していった。「眠れる者だ! 眠れる者だ!」怒鳴り声と歓声があがり、服の波が起き、「道を止めろ!」という叫びが起きた。同時に人々はグラハムには聞き慣れない別の名前も叫んでいた。「オストログ」そういう風に聞こえた。遅い方のプラットフォームはすぐに動き回る人々でいっぱいになり、人々は彼と相対し続けるためにプラットフォームの動きと反対向きに走った。

「道を止めろ!」人々は叫んだ。いくつかの機敏な人影が中央から彼に最も近い高速の道路へと駆け上がり、猛スピードで彼の前を通り過ぎながら奇妙な判然としない言葉を叫んでは、中央の道へ斜めに駆け戻っていった。聞き取れた唯一の言葉は「確かに眠れる者だ。確かに眠れる者だ」というものだった。彼らは証言していたのだった。

しばらくの間、グラハムはじっと立っていた。それからはっきりと気づいた。これは全て自分に向けられたものなのだ。自分のすばらしい人気ぶりに彼は有頂天になって、頭を下げ、遠くからでもわかる身振りを探してから腕を大きく振った。それによって引き起こされたわめき叫ぶ声の激しさに彼は驚かされた。下る階段の周囲の騒乱は猛烈な激しさにまで盛り上がった。人の群れ集まったたくさんのバルコニー、ロープに沿って滑り降りる人々、空中ブランコのようなものに座って空を横切っていく人々に彼は気づいた。背後から複数の声が聞こえ、アーチ状の廊下を通ってたくさんの人々が階段を下りてきた。気がつくと彼の後見人であるハワードが戻ってきて、彼の腕を痛くなるほどの力でつかみ、耳元で何と言っているのかわからない叫び声をあげていた。

振り向くとハワードの顔は真っ白だった。「戻って」そう聞こえた。「やつらは道を止めるつもりだ。都市全体が混乱状態になる」

ハワードの背後のあの青い柱のある廊下からたくさんの男が急いでやって来るのが見て取れた。あの赤毛の男、亜麻色のあごひげを生やした男、あざやかな朱色の服を着た背の高い男。他にもこん棒を持った赤い服の一群がいて、人々は皆一様に気が気でないという顔をしていた。

「彼を連れて行け」ハワードが叫んだ。

「いったいなぜ?」グラハムは言った。「私にはわからないが――」

「来なさい!」赤い服の男が毅然とした声で言った。その顔と目も毅然としたものだった。グラハムは顔から顔へと視線を移し、そこで突然、人生で最も不愉快な雰囲気に気づいた。これは強制なのだ。誰かが彼の腕をつかんだ……。

彼は引きずられるようにして連れ去られた。あたかも騒ぎが突然、二つになったかのようだった。このすばらしい道路から飛び込んでくる叫び声の半分が背後の巨大なビルの廊下へと飛び込んだようだった。驚嘆と混乱、抵抗したいという無力な欲求を感じながら、グラハムは半ば導かれるように、半ば押されるようにして青い柱の廊下に沿って進み、気がつくと彼は高速で上へと動くエレベーターの中でハワードと二人きりになっていた。


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