社会契約論――政治的権利の諸原則 第二篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十章 人民(続き)


政治体の大きさを測るには二つの方法がある。即ち領土の広さによりて測る方法と国民の数によりて測る方法とである。しこうして、この両者の間に存する適度の関係こそ国家の真の偉大さを示すものである。国家をつくるものは人間であり、人間を養うものは土地である。故にこの適度の関係というのは、土地が住民を収容するに十分であり、土地が養い得るだけの住民が存するという事である。一定数の国民の最大限度の力は、この比例の中に見出される。何となれば、国土があまりに広きに過ぎると、それを守るのに骨が折れ、その耕作が行き届かなくなり、生産物が余分に生ずる。これはやがて防御戦を誘発する原因である。ところがもし十分の国土がないと、隣国にたよって足りない物を補って貰わねばならぬ。これはやがて攻撃戦争を引き起こす原因である。如何なる国民といえども、通商か戦争かどちらかを選ばねば立ちゆかないような地位にある国民は、本質的に弱い国民である。かかる国民は隣国にたより、事変にたよる。かかる国民の生命は不安定な短い生命にすぎぬ。かかる国民は他国を征服してこの境遇を変えるか、あるいは他国に征服されて滅亡するかどちらかである。取るに足らぬ小国になるかあるいは大国になるかによりてのみ、かかる国はその自由を保持することができるのである。

国土の面積と人口とが互いに釣り合いを保つ一定の関係を数字をもって表わすことはできない。何となれば、土地の性質、その豊穣の程度、土地の生産物の種類、気候の影響等にそれぞれ差異があるのと、住民の気質に差異があって、ある者は豊沃な土地に住みながら少なく消費し、ある者は不毛な土地に住みながら多く消費するようなことがあるからである。更にまた、婦女子の産児能力の多少、国土の人口の増加に対する適不適、並びに、立法者が自己の事業によりてどれだけの人口をやりくりし得るかという点等にも注意を払わなければならぬ。実に立法者たるものは、目前の事実を見て性急な判断を下さず、将来を洞見しておもむろに判断を下さねばならぬ。現在の人口によりも以上に将来自然の結果として達し得る人口に着目しなければならぬ。最後に、土地の特別の事情によりて、一見必要であると思われるより以上の土地を要求しあるいは許容する場合が無数にある。そういう次第で、勢い、山国の版図は広くなる。それは、山国では、森林、牧場等の天産物は労働力を要すること少なく、経験の教える所によると山国の女は平地の女よりも余計に子供を産み、また山国の傾斜した土地の面積は広くとも、耕地として数うべき唯一の平坦な地面は少ないからである。これに反して海岸地方にありては、たとえそれがほとんど不毛な岩石や砂浜であっても、狭い土地で間にあう。何となれば、海岸地方では、漁猟によりて土地の生産物の不足が少なからず補われるからであり、海賊を撃退するためには沢山の人間が密集している必要があるからであり、おまけに、植民によりて、その国から過剰の人口を海外に移すことが極めて容易だからである。

国家を建設するためには、以上の諸条件に今一つの条件を付加しなければならぬ。この条件は他の如何なる条件の代用にもならぬものであるけれども、もしこの条件が欠けていた日には、他の条件がすっかり無益なものになってしまうのである。それは即ち国民が富と平和を享楽しているという条件である。何となれば、国家が形成せられている時は、大隊が編成せられている時のように、その団体の抵抗力が最も弱く、外部からこれを打ち破ることの最も容易な時であるからである。各人が自分の順番のことばかりに心を奪われて危険に気のつかない整列の時よりも、むしろ全然無組織の時の方が抵抗力が強いのである。もし、かかる危急の時期に、戦争、飢饉、叛乱等が勃発したら、国家の覆滅は必定である。

かかる動乱の期間に樹立された政府が沢山なかったわけではない。けれども、この場合には、これ等の政府そのものが国家を亡ぼしているのである。簒奪者等は、常にこういう変時を醸成し、あるいは選んで、公衆の恐怖に乗じ、冷静な時になら決して国民が承認しないような破壊的な法律を通過させるのである。立法者の事業と暴君の事業とを区別する最も確実な特徴は、国家の建設に如何なる時期を選ぶかという点である。

しからば如何なる人民が立法に適するか? それは、既に、血縁、利益、あるいは契約等によりて、結合されてはいるが、まだ、法律という真の拘束を受けていない人民でなければならぬ。習慣や迷信がまだ十分に根を張っていない人民でなければならぬ。突然襲撃を受けることを恐れず、隣国の紛争には手出しをしないが、独力をもって隣国のいずれにでも抵抗することができ、あるいは一国を助けて他国を撃退し得る人民でなければならぬ。人民各自が互いに知り合うことができ、また、何人もその人が耐え得る以上の負担を強制されない人民でなければならぬ。他の国の人民の力を借りないでもすみ、他の国の人民もまたその国の力を借りないですむ人民でなければならぬ。〔註〕富みもせず、貧しくもなく、自給自足し得る人民でなければならぬ。最後に、旧国民の堅実と新国民の柔順とを兼具した人民でなければならぬ。立法の事業を困難ならしむるものは、建設しなければならぬものよりも破壊しなければならぬものに存する。しこうして、立法の事業が滅多に成功しないわけは、社会の必要と自然の単純とを結びつけることができないからである。まことに、これ等の諸条件を完備することは難事であり、従って、良く組織された国家が少ないのである。

〔註〕隣接せる二国民の中で、一国が他の助けを借りずにすませないとすれば、かかる状態は前者にとっては非常に苦しく、後者にとっては非常に危険である。かような場合には、賢明な国民は皆、一日も早く他国をかかる従属状態から救おうとする。メキシコ帝国に囲繞いじょうされていたトラスカラ共和国(la république Thlascala)はメキシコから塩を買うことを喜ばず、ただで貰うことすらも喜ばないで、むしろ塩無しですますことを喜んだ。賢明なトラスカラの国民はこの親切の裏に陥穽かんせいが蔵されているのを知ったのである。彼等は自由を保持していた。むべなるかなこの大帝国の中に包まれたこの小国は遂にメキシコ帝国滅亡の因となったのである。

ヨーロッパには、まだ立法を施し得る国が一つだけある。それはコルシカ島である(コルシカ島民はこの当時、パオリ Paoli に率いられてジェノヴァ人を破り全ヨーロッパの嘆称の的となっていたのである)。この勇敢な国民が、その自由を回復し、擁護した勇気と果敢とは、ある賢者が出現して、この国民に、その自由を如何にして保持すべきかを教える(即ち立法を与える)価値がある。私は他日この小さい島国がヨーロッパを驚倒させるだろうというような気がする。