社会契約論――政治的権利の諸原則 第二篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十一章 各種の立法組織


各種の立法組織の目的たるべき最善のものは正確に言えば何であるかをたずねるならば、それは自由平等との二つの主要なものに帰することは明白だ。個人が少しでも国家に従属すればそれだけ国家団体の力が殺がれるから自由の必要があり、自由は平等なくしては存続しないから平等の必要があるのである。

市民の自由とは何であるかということは既に述べた。平等については、この言葉は権力と富とが全く同じであることを意味するのではなくて、権力はあらゆる暴力の上に立ち、地位と法律に従ってのみ行使され、富は、如何なる市民も他人を買うことができる程には裕福でなく、如何なる市民も自己を売らねばならぬほどには貧しくないという意味なのである。〔註〕このことたるや富者の財産と権勢とがあまり甚だしくなく、貧者の貪欲と吝嗇りんしょくとがあまり甚だしくないことを前提とする。

〔註〕だから国家を堅実ならしめんと欲するならば、両極端をできるだけ接近させねばならぬ。富者と乞食との存在を許してはならぬ。富者と乞食とは畢竟ひっきょう離すことのできぬものであって、等しく公安に有害なものである。一は暴政の擁護者を生み、他は暴君を生む。公的自由の売買が行われるのは常に両者の間においてである。即ち一はこれを買い、他はこれを売るのである。

そんな平等は、実際には存在し得ない思弁的夢想であると言う人もある。けれども弊害が避くべからざるものであれば、せめてそれを取り締まることすらもならぬことになるだろうか? 四囲の情勢が平等を破らんとしているからこそ立法の力をもってこれが維持につとむべきであることは明白ではないか。

けれども、このあらゆる善良な立法制度を通じての一般的な目的は、地方の事情と住民の特性とから生ずる関係によりて、各国によりてそれぞれ修正されねばならぬ。しこうしてこの関係にもとづいて、各国民に、それぞれ最善の立法制度をあてがわねばならぬ。この場合最善というのは必ずしもそれ自身において最善なのではなくて、それを適用する国家に対して最善という意味なのである。例えば、土地が不毛荒蕪であるか、あるいは、人口に比して国土が狭過ぎるような国家は、工業及び技芸の方面に向いて、その生産物を、その国に欠乏している食料品と交換するがよい。これに反してその国が豊沃な平野及び豊穣な丘陵を占め、国土が肥沃であるのに人口が少ないとしたら、農業に全力を注いで人口を増やすがよい。そして工芸を追い払うがよい。工芸は現在その国にある僅かばかりの住民を若干の地点に集中せしめて、その国の人口を減少させるに過ぎないのだ。〔註〕また、広い、便利な海岸を国土とするならば、船舶をもって海を覆い、商業と航海とにはげめばよい。そうすれば、その国は短いけれども光輝ある存在をもつだろう。海岸がほとんど近付くことのできぬ岩である場合には、野蛮な魚食民の域に留まっていればよい。そうすれば遥かに平和な、恐らく前者に優った、そして確かにもっと幸福な生涯が送れる。一言にして言えば、全体に共通の原則の他に、各国民は、それぞれその国民に特別の生活を与え、その国民の立法をその国に特有のものたらしめる原因をもっているのである。そういうわけで、古くはヘブライ人、近くはアラビア人は宗教を重んじ、アテネ人は文学を重んじ、カルタゴ人及びテュロス人は商業を重んじ、ロードス人は航海を重んじ、スパルタ人は戦争を重んじ、ローマ人は徳を重んじたのである。法の精神 l'Esprit des lois の著者(モンテスキューのこと)は、沢山の例をあげて、立法者が如何に巧妙なる手段をとって、これ等の各目的にかなうような立法をしくかを示している(「法の精神」第十一篇第五章等参照)。

〔註〕ダルジャンソン氏は「如何なる外国貿易でも、王国全体にとっては、ただ外観上の利益しか与えるものでない。それはある個人、及びある都市をも富ますことはあるが、国民全体はそれによりて何の利する所もない、国民には何のためにもならない」と言った。

国家の組織を真に確実安定ならしむるには自然の関係と法律とを常に符合せしめ、法律は、言わば、ただ自然の関係を確保し、これに追従し、これを是正するに留めるよう注意することである。ところが、もし立法者がその目的を誤り、事物の自然から生ずる原則と異なった原則をとり自由を欲する国民を従属せしめんとし、人口の増加を願う国民に富を与えようとし、征服を欲する国民に平和を与えんとするならば、法律の権威はいつのまにか弱まり、制度は弛壊し、国家には動乱の絶えるひまがなく遂には滅亡しあるいは一変して、自然は滔々とうとうとしてその支配を回復するに至るであろう。