社会契約論――政治的権利の諸原則 第二篇, ジャン・ジャック・ルソー

第二章 主権は分割できぬ


主権は、譲り渡すことができぬと同じ理由によりて分割することもできぬ。何となれば、意志は一般的であるか〔註〕あるいはそうでないかどちらかである。国民総体の意志であるか、あるいは一部分の意思に過ぎないかどちらかである。前者の場合には、この意志の表明は主権の行為であり、法律となるものである。ところが後者の場合には、それは個人の意志、あるいは行政官の行為に過ぎない。せいぜいのところで、それは法令 décret たるにすぎぬ。

〔註〕ある意志が一般的であるためには必ずしもそれが全員一致である必要はないが、全員の投票が計算されるということは必要である。いやしくも正式の除外が行われる時は直ちに一般性は破れてしまう。

しかるに我が政治学者連は、原則においては、主権を分割することができないものだから、その対象においてこれを分割している。即ち彼等はこれを力と意志とに分割し、立法権と執行権とに分割し、課税権、司法権、宣戦権に分割し、国内行政と外国との条約締結権とに分割している。しこうして、時にはこれ等の部分を全く混交し、時にはこれを別々にしている。彼等は、主権者を色々な部分を寄せ集めてつくった架空物としている。それは、まるで沢山の身体、眼ばかりの身体や、腕ばかりの身体や脚ばかりの身体を寄せ集めて一人の人間をつくるようなものである。日本の大道手品師共が見物人の眼の前で子供の手足をばらばらに切り離して、それを一つずつ空中に投げると、それがすっかり一緒にくっついてもとの通りの生きた子供になって落ちてくるということである。我が政治学者共の手品もこれにそっくりである。彼等は、社会という身体を、見世物へ出しても恥ずかしくないような妖術を使って、ばらばらに切り離して、再びその細片をどうしてするのかわからぬが、一つに寄せ集めてしまうのである。

この誤謬は、主権に関する正確な観念がつくられていないこと、並びに主権の発動に過ぎぬものを主権の一部であると思い違えるところから生ずるのである。たとえば宣戦、講和等の行為は主権の行為と見倣されていた。けれどもそうではないのである。何故かというと、これ等の行為は法律でなくて単に法律の適用に過ぎぬからである。法律の適用される事件を決定する特殊の行為だからである。このことは法律 loi という言葉の観念が限定されれば明瞭にわかるだろう。

更に、主権が分割されている他の例を調べて見れば、我々が主権が分割されているように信ずる場合には常に我々が誤っていることがわかるだろう。我々が主権の一部分であると考えている色々な権利は、ことごとく主権に従属しているものであり、最高意志を前提としているものであり、ただ主権の執行に止まるものであることがわかるだろう

政治的権利に関する著述家共が、彼等が打ちたてた原則に基づいて、国王と国民とのそれぞれの権利を判断しようとしたときに、この点に関する不正確が、彼等の断定をどれ程曖昧不明瞭にしたかは数えきれない。グロチウスの著書の第一篇第三章及び第四章を見ると、この碩学並びにその翻訳者のバルベラック Barbeyrac が、彼等の考えより言い過ぎたり、言い足りなかったりしはしないかとびくびくし、彼等がうまく折り合いをつけねばならぬ色々な利益を傷つけはしないかと心配して、彼等自身の詭弁に自縄自縛されているのを見ることができる。自国に不平を抱き、フランスに亡命して、ルイ十三世にとり入ろうとし、自著を同王に捧呈したグロチウスは、あらゆる巧言の限りを尽くして国民の権利を奪い、その権利を国王の権利にしようと腐心している。同書の翻訳をイギリス王ジョージ一世に捧呈したバルベラックの心事もまたこれと同じであったのである。ところが不幸にして、彼が譲位と呼んでいるところのジェームズ二世の追放は、彼をしてウィリアム王を簒奪者にしまいために、言いたいこととも言わずに筆をそらし、まわりくどい言い方をしなければならぬようにした。もしこの二人の著述家が、真の原理を採用していたならば、そんな困難はすっかり除去されてしまい、終始辻棲のあった議論ができただろう。けれどもその代りに、彼等は悲痛な心持ちで真理を語り、そして人民以外の者には媚びなかっただろう。だが、真理は幸運へ導くものではなく、人民は、彼等を大使にも、教授にも、とりたててくれないし、年金もくれはしないのだ。