社会契約論――政治的権利の諸原則 第二篇, ジャン・ジャック・ルソー

第五章 生殺の権


自己の生命を意のままに処分する権利をもっておらぬ個々人が、自分のもっていないこの権利をどうして主権者に交付し得るかとたずねる人があるかも知れぬ(自殺は罪悪であって権利ではないのである)。この疑問を解くことが一見困難に見えるのは、この疑問の出し方がまずいからに過ぎない。人は皆自己の生命を維持するために、自己の生命を危険に曝す権利をもっているのである。火事を免れようと思って窓から飛び出す人を自殺の罪を犯したと言う者があるだろうか? 更にまた、嵐の危険に気付きながら船に乗った人が、嵐のために死んだとしても、この人をすら自殺の罪に問う人があるだろうか?

社会契約の目的は契約者の安全を維持することである。この目的を欲する者はその手段をも欲すべきである。しこうして、この手段には、若干の危険はつきものである。若干の損害さえもつきものである。他人の力によりて自己の生命の安全を望むものは必要な場合には、他人のためにも自己の生命を与えなければならぬ。ところで市民はもはや、法律によりて要求せられた危険を判断することはできないのだから、帝王が彼に向って「国家のために汝の死が必要である」と言った時には、彼は死なねばならぬ、何となれば、その時まで彼はそういう条件で生きて来たのだからである。彼の生命は、単に自然の賜物ではなくて、国家から条件付きで与えられたものだからである。

罪人に課せられる死刑も、ほとんどこれと同じ見地から考えることができる。刺客の手にかかってたおれるようなことがないために、刺客になった人が殺されることに我々は同意しているのである。我々は、この契約が我々の生命を奪うものだなどとは夢にも考えずに、ただ我々の生命を安全にするものだとのみ考えているのである。契約者の中には一人としてこの契約をする時に、やがて自分が絞殺されるのだと予想している者はないのである。

更に、社会的正義を攻撃する悪人は、その罪悪によりて、祖国の謀叛人になり、裏切り者になったのである。彼は祖国の法律を侵すことによりて、国家の一員ではなくなり、国家に対して戦端を開いたものとなるのである。そこで、国家の存続と彼の存続とは両立しないのである。どちらかがたおれなければならぬのである。罪人が殺されるのは、市民として殺されるのではなくて、敵として殺されるのである。罪人の審理及び判決は、この罪人が社会契約を破ったこと、従って、もはや国家の一員でなくなったことの証明並びに宣告である。ところが、この罪人は、少なくもその国に住んでいるというのでその国家の一員であると自認している。だから、社会契約の侵害者として追放によりてこの罪人を国家と絶縁させるか、あるいは公敵として死刑によりて国家と絶縁させるかする必要がある。何となれば、かかる敵は精神的人格ではなくて、一個の人間であり、かかる場合には戦争権によりて、敗者を殺すべきであるからである。

けれども、ある罪人を処刑することは個人的行為であると言える。私はそう思う。この処刑は断じて主権者の行為ではない。それは主権者が授けることはできるけれども、主権者が行使することはできぬ権利である。私の考えは終始一貫している。けれども私はそれを一度に説明することはできない。

ついでに言っておくが、処刑が頻々として行われるということは、常に、政府の薄弱あるいは怠慢の兆候である。何の役にも立てることのできないような悪人なんていうものはあるものでない。生かしておいては他人に危険であるような人は別として、それ以外の者を、たとえ見せしめのためにでも、殺す権利は誰にもないのである。

法律によりて課せられ、裁判官に宣告された刑罰から罪人を赦し、まぬかれしむる権利は、裁判官や法律以上の者、即ち主権者にのみ属する権利である。しかもこの点に関する主権者の権利はあまり明白ではないのであって、これを行使する機会は極めて稀である。統治宜しきを得た国家においては、刑罰の数は少ない。けれども、それは大赦がしばしば行われるからではなくて、罪人が少ないからである。国家が衰運に向う時には、罪人が増加して罪を犯しても処刑を免れるようになるのである。ローマ共和国においては、元老院も執政官も断じて大赦をしようとしなかった。国民もまた自ら下した判定を取り消したことは往々あったが大赦をしたことはない。大赦が頻々と行はれることは、やがて、罪を犯しても、大赦の必要がなくなる時が来ることを前触れしているのである。その赴くところがどこであるかは誰にもわかっていることである。けれども私は自分の心がひそひそと囁いて、筆をもつ手を押し留めるような気がする。だから、こういう問題は、これまでに罪を犯したことのない、そして自分に対しては大赦の必要のない正義の士の解決に委ねようと思う。