社会契約論――政治的権利の諸原則 第二篇, ジャン・ジャック・ルソー

第六章 法律


社会契約によりて、我々は政治体に生存と生命とを与えた。そこで今度は立法によりて、これに運動と意志とを与えなければならぬ。何となれば、この最初の行為(即ち社会契約)は、この団体を形成し、合一するだけであって、まだ、政治体が自己の存続のために何をなすべきかということを少しも限定するものでないからである。

およそ、善なるもの、秩序に合致せるものは、事物の本性からしかるのであって、その間に人間のこしらえた規約と関係はないのである。一切の正義は神より生ずるものであって、神のみが正義の源泉である。けれどももし我々が、かくも高い所から正義を受けることができるならば、我々には政治も法律も不必要になるだろう。疑いもなく理性から発する唯一の普遍的正義なるものがある。けれども、この正義は我々の間に認められるためには、相互的でなければならぬ。人間的にこれ等の事柄を考えると、正義の法は、自然の制裁がないために、人間には無効である。それは悪人には都合がよいが正しい人には都合が悪い。何となれば、正しい人は全ての人に対してこれを守るけれども、誰も正しい人に対してはこれを守ってくれないからである。だから、権利と義務とを結びつけ、法律を適用する対象に正義を与えるために、規約と法律とが必要になるのである。自然状態においては、全ての物が共有なのだから、私は何人にも約束をせず、従って何人にも義務を負わない。私は自分に不要なもののみを他人のものと認めるのである。社会的状態においてはそれと趣きを異にし、法律によりて一切の権利が定められているのである。

では、一体、法律とは何であるか? この言葉に、形而上学的の観念ばかりを付して満足している間は、いくら考えて見てもわかりはしない。自然法が何であるかはわかったところで、国家の法律が何であるかは一向わかりはしないのである。

私は既に、一般意志は特殊のものに向けられるものではないと言った。実際、この特殊のもの objet particulir は、国家の内にあるか国家の外にあるかである。もしこれが国家の外にあるならば、彼のものでない意志が彼に対して一般的であることはない。もしこれが国家の内にあるならば、それは国家の一部分である。その場合には、全体と部分との間に一つの関係がつくられる。そしてこの関係によりて二つの別々のものができてしまう。一つはこの部分であり、他の一つは全体からこの部分を引き去ったものである。ところが、全体から一部分が引ききられてしまえば、もはやそれは全体ではなくなる。だからこの関係が存続する限り、もはや全体というものはなくなり、ただ等しくない二つの部分になってしまう。そこで、一方の意志は、他方に対しては、もはや決して一般的でなくなるのである。

けれども、国民全体が国民全体に命令するときには、国民は自分自身のことしか考えておらぬのである。だから、たとえその間に関係ができても、それはただ異なった見地から見た同じ全体と全体との関係であって、決して別々のものの間の関係ではないのである。その場合には、命令されるものは、命令する意志と同じく一般的である。この行為を私は法律というのである。

私が、法律の適用される対象は、常に一般的なものであるというのは、法律は臣民を一体と見なし、行為を抽象的なものと見倣し、決して、個人としての人間や、特殊な行為を、眼中におかぬという意味なのである。そういうわけで、法律は特権を定めることはできるが、それを特定の個人に与えることはできないのである。法律は市民を色々な階級にわけ、これ等の階級に入ることのできる資格を定めることすらもできるけれども、誰々をどの階級に入れるということを指名することはできぬ。また法律は王政を樹立し、王位の世襲的継承を定めることはできるが、国王を選任したり、王家を指名したりすることはできぬ。一言にして言えば、個人に関する一切の機能は、断じて立法権に属しないのである。

こう考えて来ると、法律は一般意志の行為だから、法律は誰が作るべきものであるかという疑問はなくなり、帝王は国家の一員だから帝王が法律を超越しているか否かというような疑問もなくなり、自己に対して不正なものはないから法律が不正であり得るか否かというような疑問もなくなり、法律は我々の意志をしるした帳簿に外ならぬから我々が法律に従っていながらどうして自由であるのかなどという疑問もなくなることは一目瞭然である。

更にまた、法律は意志の一般性と意志の対象の一般性とを兼備しているものであるから、如何なる人にしろ、ある人が独断で命令するものは断じて法律ではないということも明かである。主権者がある特定の人に対して下す命令も、やはり法律ではなくて、命令である。主権者の行為ではなくて行政官の行為である。

故に、私は、如何なる政体をとっていてもその点は問わないで、およそ法律によりて統治されている国家は、ことごとくこれを共和国と呼ぶのである、何となれば、この場合にのみ公共の利益が第一位におかれ、公共の安寧が重んぜられるからである。合法的な政府はことごとく共和政府である。〔註〕政府とは何であるかは後に説明することにする。

〔註〕私が共和政府と言うのは、単に貴族政治とか民主政治とかを指すのではなくて、一般意志即ち法律によりて指導される政府を一般的に指すのである。合法的であるためには、政府と主権者とが混同されてはならぬ。政府は主権者の代理人でなくてはならぬ。そうなっておれば君主国でも共和国である。この事は次篇で明かにする。

法律は本来社会的団結の条件に外ならぬ。故に法律に従える国民は法律の作製者でなければならぬ。団結の条件を決定することは、団結している人々のみのなすべきことである。それでは彼等はどうしてそれをきめるだろうか? それは国民の一致によってだろうか、突然の霊感によってだろうか? 政治体は、その意志を表明する機関をもっているだろうか? 誰が政治体にその行為を規定して、予めそれを宣布するために必要な先見を与えるだろうか? 即ち政治体はどうして必要な時に応じてそれを公布するだろうか? 何が自分の為に利益かということを知っている場合は滅多にないものだから、自分が何を欲しているのかわからないことのしばしばある盲目的な群集が、どうして、立法組織というような至大至難な事業を独力で遂行するだろうか? 人民は常に自ら自己の利益をはかろうとする。けれども自己の利益が何であるかは、必ずしも自ら知っているのではない。一般意志は常に正しいけれども、この一般意志を指導する判断は常に間違っておらぬとは言えぬ。だから一般意志にその対象をありのままに見せてやる必要がある。時としてはその対象を一般意志に如何に見るべきであるかを見せてやらねばならぬ。一般意志の求めている正しい道を示してやらねばならぬ。個人的意志の誘惑に陥らぬように一般意志を保護してやらねばならぬ。時間と場所とに注意させてやらねばならぬ。眼前の眼に見える利益の誘惑と、ずっと先の眼に見えない損害の危険とを比較考量させてやらねばならぬ。個々人は、自分の利益がわかってもそれを排斥するし、公衆は、自己の利益を欲するけれどもそれが何であるかがわからないのである。だから個人にも公衆にも等しく指導の必要があるのである。即ち個々人には、その意志を理性と合致せしめるように強制する必要があり、国民には、自己の欲するものが何であるかを知らせる必要がある。その時にこそ、はじめて、国民的啓蒙の結果として、社会団体の中に、悟性と意志との一致が生ずるのである。しこうして、そこから各部分の正確な協力が生じ遂に全体の最大の力が発揮されるのである。ここに立法者の必要が生ずる理由があるのだ。