社会契約論――政治的権利の諸原則 第二篇, ジャン・ジャック・ルソー

第七章 立法者


国民に最もよく適合した社会の規則を発見するためには、人間のあらゆる欲望を、自分では少しも経験しないで見抜くところの優れた理智を備えた人が必要である。この人は我々の性質と無関係であるにも拘らず、すっかりそれを知っている必要がある。この人の幸福は、我々の幸福とは無関係でありながら、しかもこの人は我々の幸福を十分に念慮する意志をもっている必要がある。最後にこの人は、志を遠き将来の名誉にはせ、現代に労苦して、次の時代に楽しむことのできる人である必要がある。〔註〕即ち人間に法律を与えるには神が必要である。

〔註〕ある国民が有名になるのは、その国民の立法が衰運に向いはじめた時である。リュクルゴスのこしらえた制度が、ギリシャの他の地方に知られるまでに、どれ程長い間スパルタに幸福を与えていたかは知られていない。

カリグラが事実についてしたのと同じ推論を、プラトンは「政治家論」du Régne という書物の中で、王者と市民とを定義するために当為についてなした。けれども、偉大なる帝王が稀な人であるというのが真実であるとするならば、偉大なる立法者はどうだろう? 帝王は、立法者がきめた模範に従ってゆけばよいのであるが、立法者はこの模範を示さねばならぬ。立法者は機械を発明する技師であるが、帝王はこの機械を組みたててそれを運転する職人に過ぎない。モンテスキューは『社会の生れるときには制度をつくるものは国家の元首であるが、後になると制度が元首をつくるようになる』(Montesquieu: Grandeur et décadence des Romains. ch. I.)と言った。

いやしくも国民に制度を与えようと企てるほどの人は、言わば人間の性質を変えることができるという確信のある人たるべきである。自ら、完全にして独立せる全体である各個人を、この個人にある意味においてその生命と存在とを与えるところのより大なる全体の一部分に変え、人間の組織を強固にするために人間の組織を変え、我々が自然から受けとったままの個々独立した肉体的存在に代うるに、全体の部分としての精神的な存在をもってすることができるという確信のある人たるべきである。一言にして言えば、かかる人は、人間からその本来の力を奪って、人間がこれまでもっていなかったところの力、他人の助力を借りなければ使用することのできない力を人間に与える人でなければならぬ。この自然のままの力が死滅すればする程、新たに得た力は大きくなり、永続的となり、それと同時にその制度は益々強固となり完全となるのである。そこで、各市民が、他の全市民の力をまたなければ何物でもなく、また何物にもなり得ず、かつ、全体が獲得した力が、各個人の自然のままにもっている力の総和と等しくなるか、あるいはそれ以上になれば、立法は、それが達し得る最高点の完全に達したと言うことができるのである。

立法者はあらゆる点において、国家内の非凡な人間である。もし立法者がその資性において非凡であるべきだとすれば、その職務においても同様に非凡でなければならぬ。立法者は行政官でもなければ主権者でもない。国家を組織するのが立法者の任務なのだから、立法という職務は国家を超越している。それは人間界とは少しも共通点のない、特別な、高貴な職務である。何となれば、もし人間を支配する者が法律を支配してはならぬとすれば、法律を支配する者もまた人間を支配してはならぬからである。そうでなかったならば、この法律は、立法者の欲望を実行する手段となり往々にして、立法者の不正を恒久的なものにするにすぎなくなるであろう。立法者の個人的意見が、彼のつくった立法の神聖を傷つけるのをどうしても避けることができないであろう。

リュクルゴスが、彼の国のために法律をつくった時には彼は先ずその王位を退いた。ギリシャの都市の大部分では、自国の法律の制定を外国人に依頼するのが習慣であった。イタリアの近代の諸共和国もしばしばこの風習を模倣した。ジュネーヴ共和国もそれを模倣して好結果を得た。〔註〕ローマの全盛時代に、その内部に虐政から生ずるあらゆる罪悪が起って、ローマを滅亡の淵にのぞませたのは、立法者と主権者とを同じ人が兼併していたからである。

〔註〕カルヴァン Calvin をただの神学者だとばかり考えている人々は、広大なる彼の天分をよく知らない人々である。彼は我が国の見事な法令の編纂に非常な貢献をしたのであるが、この事業は、彼の「アンスティチューション」の著述と同じくらい彼に名誉を与えたのである。これから先、我々の宗教にどんな革命が起るかも知れぬが、祖国を愛する心と自由とが我々の心から消えてしまわない間は、この偉人の記憶は、いつまでも我々の心から消え去らぬであろう。

とは言え、ローマの十人官(les décemvirs, ローマ第三〇四年に設けられた法典制定官)でさえも、決して彼等の専権によりて法律を公布する権利を僭したのではない。彼等は国民に向って『我々が諸君に提出するものは、諸君の協賛を得ない限りは法律にならぬのである。ローマ国民よ、諸君は自ら、諸君の幸福をつくるべき法律の制定者とならねばならぬ』と言ったのである。

それだから、法律の編纂者は、立法権をもってはいないし、またもつこともできないのである。そして、人民もまた、他人に伝えることのできないこの権利を、棄てようと思っても棄てることができないのである。何となれば、例の根本契約によると、一般意志以外には個人を強制するものはなく、個人の意志が一般意志と一致しているということは、それが人民の自由投票に付せられてしまってからでなければ確かめられないからである。このことは既に述べたことだけれども再び繰り返して言っても無益ではなかろう。

かくの如く、立法という事業には、一見両立し難いように思われる二つの物が同時に見出される。一は人力を超越した計画であり、他は、この計画を実行するための、単なる権威である。

もう一つ注意すべき別の困難がある。賢者は俗衆に向って、平易な言葉で語らないで、難かしい言葉で語るからその言葉は理解されない。ところが、平易な言葉になおすことのできない思想が沢山ある。あまりに一般的な意見や、あまりに高遠な事柄などは、等しく民衆にはわからないのである。各個人は自分一個の利益に関係のある政府の政策しか是認しないものであって、将来の利益のために、絶えず種々の不便を忍ばせるような法律は如何に立派なものでもその精神をば容易にみとめない。新たに生れた国民に、健全な政治の原則を是認せしめ、国是の根本原理に従わしめるためには結果を原因にする必要がある。立法制度によりてつくらるべき社会精神が、立法制度の設立にあずかる必要がある。人間は、法律の力によりてなるべき状態に、法律のない前からなっている必要がある。かくの如く、立法者は力をも理屈をも用いることはできないのであるから、全く別種の権威にたよって、暴力を用いないで強制し、論破することなしに説得し得ることが必要である。

あらゆる時代を通じて、国民の始祖達 les pères des nations が、天上の力にたより、彼等自らの叡智をもって神々の徳に帰し、もって、国民をして、自然の法則に従うと同様に国家の法律に従わしめたのはこのためである。国民をして都市をこしらえる力も人間をこしらえる力も同じであるということをみとめて、自ら進んで法律に従い、公共の安寧を確保するための拘束を従順に甘受せしめたのはこのためである。

この崇高なる道理、俗衆の理解し得ないこの道理こそ、人間の意志では、びくとも動かすことのできない人々を、神の権威によりて拘束するために、立法者が神々の口を借りて述べたものなのである。〔註〕けれども、神に語らせること、自分が神の代弁をしているのだということを信じさせることは、誰にでもできることではない。実に、立法者の偉大なる精神は、立法者の使命の偉大を証して余りある真の奇蹟である。石版に字を彫ったり、金を出して神託を言わせたり、ある神と秘密の通話をすると偽ったり、鳥を馴らして自分の耳のそばで物を言わせたり、あるいはその他のよい加減な方法を見出して人々を騙すことなら誰にでもできる(以上のことはルソーが、ヘブライや、ギリシャや、ローマの人々の神と通話する方法をさして言っているのである)。こんなことしかできない人でも、偶然に、愚昧な群衆を集めることはできるだろう。けれどもこんな人は決して一つの帝国を打ちたてはしない。こういう人の無法な事業は、たちまちその人と共に滅びてしまうだろう。くだらない妖術でつくられる綱紀は、その場かぎりのものである。これを恒久安定のものにするものは叡智のみである。今なお存続しているユダヤの律法や、十世紀以来世界の半ばを支配して来たイスマエル Ismael の子供(メッカの預言者マホメットのことである)の律法は、今日でもなおそれを書きしるした人々の偉大さを示している。そして、尊大な哲学や、盲目的な党派心は、彼等を運のよい山師としか考えていないが、真の政治学者は、彼等の打ちたてた制度に、それを強固なものたらしめた偉大にして力強い天才を見出して讃嘆これを久しうするのである。

〔註〕マキャヴェリは次の如く言った。『如何なる国にも、神の力にたよらずに、異常な法律を公布した立法者はなかったことは事実である。何となればそうしなければその法律は承認されなかったからである。実際それには色々都合のよいことがあったのである。賢者はこの都合のよい点を知っていたのである。がそれは他の人間を信ぜしめる程に自明なものではないのである』(Discorsi sopra Tito Livio, llb. I, cap. XI.)。

こう言ったからとて、ウォーバートン(Warburton, 有名なイギリスの神学者で、一七三六年「教会と国家との同盟」Alliance between Church and State という書物を著わし、国教制度と信教の自由とを調和する道は宣誓以外にないと主張した)と共に、政治と宗教とは今日でも同じ目的をもっていると結論する必要はない。ただ国民の誕生の時には、宗教が政治の道具に使われるというまでである。