社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第一章 政府総論


一言読者にことわっておくがこの章はよく注意して熟読していただきたい。私は不注意な読者にもわかるように書くすべを知らないのだから。

あらゆる自由な行為は、二つの原因の協力によりて起される。一は精神的原因、即ちその行為をなさんと決定する意志であり、他は肉体的原因、即ちこの行為を実行する力である。私がある目的物の方へ歩いてゆく時には、第一に私がそこへ行こうと欲する必要があり、第二に私の足が、私をそこへつれてゆく必要がある。中風患者が走ろうと欲する場合や、活発な人が走ろうと欲しない場合は、いずれも、もとの場所にじっとしているだろう。政治体にもこれと同様の原動力がある。それは同様に力と意志とに区別されている。国家の意志とは即ち立法権 puissance législative であり、国家の力とは執行権 puissance exécutive である。この二つの協力なくしては何等もできずまた何事もしてはならぬのである。

我々は立法権が人民に属すること、しこうして人民以外のものに属し得ないことを既に知った。これに反して、今述べた原則によりて、執行権は、立法者もしくは主権者としての人民一般 la généralite には属し得ないものであることは容易にわかる。何となれば、執行権は、私的行為のみよりなるものであるからである。しこうしてこの私的行為は法律の権限外のものであり、従って、主権者の権限外のものである。けだし、主権者の行為はことごとく法律とならざるを得ないからである。

故に公共力 la force publique はこれを一つに集めて、一般意志の指導の下に働かせ、国家と主権者との連絡の任にあたり、精神と肉体との結合が人体においてなすのと似たような役割を公人においてなすところの、適当な代理者を必要とする。これ国家の中に政府の存する所以である。この政府なるものは不当にも主権者と混同されているけれども、これは主権者の代理にすぎないのである。

しからば政府とは何であるか? それは、臣民と主権者との間の連絡にあたるために両者の間に設けられて法律の執行と民事上並びに政治上の自由の維持とに任ずる仲介団体である。

この団体の構成員は、行政官 magistrats あるいは rois 即ち支配者 gouverneurs と称せられ、団体を総称して王公 prince という。〔註〕故に、国民を元首に服従せしめる行為は契約ではないという説は極めて正当である(ホッブズはこの説を主張している)。これは、絶対に、委任もしくは雇用に過ぎないのであって、彼等は、主権者の単なる吏員として、主権者から委任された権力を、主権者の名によりて行使しているのである。しこうして主権者は、この権力を勝手に制限し、変更し、取り上げることができるのである。かような権利を譲り渡すことは、社会体の性質と両立しないから、連合 l'association の目的に反するものである。

〔註〕ヴェニスにおいて、国主 doge の列席していない時でも、その元老院 collège が王公殿下 sérénissime prince と呼ばれたのはこのためである。

それ故に、私は、執行権の合法的行使を政治または最高行政と名づけ、この行政を委ねられた個人または団体を王公もしくは行政官と名づけるのである。

中間の力は政府の中に見出されるのである。しこうしてこの力の関係が、全体と全体との関係であり、主権者と国家との関係である。主権者と国家との関係を連比例の外項をもって表わすことができる。政府はその比例中項にあたる。政府は主権者から命令を受けてそれを国民に与えるのである。しこうして、国家が平衡を保つためには、すべてを清算した上で、政府そのものの平方もしくは二乗と、一方においては主権者であり、他方においては臣民であるところの市民の平方もしくは二乗とが等しくなる必要がある。

更にまた、この三つの項のいずれか一つを変えるとたちまちに比例全体が壊れてしまう。もし主権者が政治をしようとしたり、行政官が法律をつくろうとしたり、あるいは臣民が服従を拒んだりしたら、秩序は破れて無秩序に陥ってしまい、力と意志との一致は失われ、国家は専制に陥るかあるいは無政府状態に陥って瓦解してしまうのである。最後に、比例中項は各比例に一つしかないから、ある国家には善良な政府は一つしかあり得ないということになる。けれども、無数の事件が人民の比例を変えることができるから、各国民にそれぞれ適当な政府があり得るのみならず、同一国民においても、時代を異にするにつれて、それに適当せる政府も異なり得るのである。

この二つの比例外項間に現れる種々の関係を証明するために、私は、最も証明の容易な、人民の数を例にとろう。

国家が一万人の市民から成り立っていると仮定しよう。主権者は集団として、即ち全体としてしか考えることができぬが、各個人は、市民としては、一私人として考えられる。かくて、主権者と臣民との比は一万に対する一である。換言すれば、国家を構成する各員は、全く主権に服従しているが、その主権の一万分の一の分前しかもたぬことになる。ところが、十万人の人間から成り立っている国家の場合では、臣民としての地位には何等の変化もなく、全く法律の支配を受けるのであるが、各臣民の投票権は十万分の一に減少し、法律の作製にあずかる力は前の場合の十分の一に減少する。そこで、臣民は常に一つであるが、主権者の比例は、市民の数と共に大きくなる。従って、国家が膨大するにつれて、自由は益々減少するのである。

私が比例が大きくなると言ったのは、比が等式から遠ざかるという意味なのである。そこで、比例が幾何学的意味において大きくなれば大きくなる程、普通の意味においては小さくなるのである。前者においては比例は量によって考えられ、指数によりて計られるが、後者においては比例は方程式に従って考えられ、対比によりて計られるのである。

ところで、個人意志の一般意志に対する関係が、換言すれば、習俗の法律に対する関係が小さくなれば小さくなる程、抑圧力を大きくしなければならぬ。そこで、善良な政府たらんがためには、政府は国民の数が多くなるに比例して益々その力を強くしなければならぬ。

他の方面から考えると、国家の膨大は、公権を委託された人々に、その職権を濫用する誘惑と手段とを益々多く与えるものであるから、政府は人民を抑圧する力をより強くすべきであり、主権者または政府を抑制する力をより強くしなければならぬ。私が今言っているのは、絶対的の力のことではなくて、国家の種々な部分の相対的な力のことである。

この二通りの関係から、主権者と政府と人民との間に、連比例が成立するという考えは、出鱈目な考えではなくて、政治体の本性から必然的に生ずる結果であるということがわかる。更にまた外項の中の一つ、即ち人民は、臣民としては不変であり、一をもってあらわされるから、複比が増減すればその度びに単比も同じように増減し、従って比例中項は変化するのである。これによりてこれを見れば、政府の種類は唯一絶対のものではなくて、国家に大小の別があるだけ、政府にも性質の別があり得るということになるのである。

この説を一笑に付して、かかる比例中項を発見して政府をつくるためには、ただ人民の数の平方根を出せばよいではないかという人があるかも知れぬ。私はそれに対して答える。私がここで人口数をとったのは、ほんの一例としてとったまでであって私の言う比例は、単に人口数のみによりて計られるのではなくて、一般的に、無数の原因の結合せる活動の分量によりて計られるものであり、しかも、簡単に説明するために、私は仮に数学上の言葉を借りたのであるが、精神的の分量は、数字で正確に表わすことはできないということを知らぬわけではないと。

政府は大規模な政治体の中に含まれている、小規模な政治体である。それは、若干の機能を賦与された精神的人格であり、能動的には主権者の如く、受動的には国家の如きものであり、それと類似の関係に分解することのできるものである。その結果として、一つの新たな比例が生じ、更にその内部に新しい比例が生じ、次々に、行政の等級に応じて遡ってゆけば、遂に分割すべからざる比例中項、即ち唯一人の元首あるいは最高行政官に達する。この元首あるいは最高行政官は、この級数の中央に位し、分数級数と正数級数との間にある一なる数をもってあらわされる。

けれども、こんなに煩わしく項を増してゆかないで、我々は、政府を、国民及び主権者と異なり、両者の中間に位する国家内の新団体と考えて満足しておこう。

しかし国家と政府との間には根本的の相違がある。それは国家は自分自身で存在するに反し、政府は主権者をまってはじめて存在するということである。だから政府の支配意志は、一般意志あるいは法律以外のものでなく、またそれ以外のものであってはならぬのである。政府の力は国家の力が政府に集中したものに外ならぬのである。だから、政府が自ら、専制独断の行為をとろうとするや否や、全体の連結が弛壊しはじめる。最後に、政府が、主権者の意志よりも強い私人的意志をもち、この私人的意志に服従するために、その手中に握っている公共の力を使用し、言わば法律上の主権者と事実上の主権者との二つの主権者が生ずるようなことになると、たちまちにして社会的結合は夢消し、政治体は解体してしまうであろう。

また、政府という団体がその存在を保ち、国家という団体と異なった真の生命を維持するためには、しこうして政府の全員が一致の行動をとり、政府設立の目的に添うようにするためには、政府に特別の自我 moi が必要である。政府の全員に共通の感情が必要である。政府の維持をはからんとする政府自らの力及び意志が必要である。この個人的存在を保つには、議会、評議会、討議及び決議権、権利、称号、特権等の如き、王公に専属し、かつ行政官の地位をその骨の折れる程度に応じて名誉なものにするところのものを前提として必要とする。ただ国家という全体の中にある政府という従属的全体が、自己の存在を強固にする為に一般的制度を毀損しないように、また、政府が常に政府自身の存続をはかるための特別の力と、国家の持続をはかるための公共の力とを截然せつぜん 区別するように、一言にして言えば、政府が常に、政府のために人民を犠牲とするようなことなく、人民のために政府を犠牲にすることができるように按配することが困離なのである。

加うるに、政府という人為的団体は、国家という他の人為的団体のつくったものであって、ある点では、借用的、従属的の存在しかもたないものであるけれども、これがために、政府が有力な敏活な活動ができないわけではなく、言わば多少の強壮な健康を享受できぬわけでもない。最後に、政府は、その設立の目的から全くはなれることはできぬが、その組織の如何に従って、いくらかその目的から遠ざかることはできるのである。

かくの如き相違から、国家そのものを変更するところの偶然的、特殊的関係に従って、政府が国家に対してもつべき様々な比例が生れるのである。何となれば、最良の政府といえども、もしこの比例が、その政府の属する国家の欠陥に従って変更されなかったならば、最悪の政府となるであろう。


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