社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十章 政治の弊竇とその衰退の傾向


個人的意志は絶えず一般意志に対抗するものであるから、政府は不断に主権者に対抗しようとする。この努力が増すにつれて国家の組織は弱くなる。しこうして、政府の団体意志に対抗してこれと平衡を保たしめ得るような団体意志は他にはないから、早晩、政府が主権者を圧伏して、社会的契約を破棄する時が来るに相違ない。これは、あたかも、老衰と死とが遂に人体を滅ぼすように、政治体の出生の当初から絶えずこれを滅ぼさんとしているところの、内在的不可避的の弱点である。

政府が衰退してゆく時には一般に二つの経路を辿るものである。即ち、政府が縮小する時と、国家が崩壊する時とである。

政府が縮小するのは、それが多数から少数に移ってゆく時、即ち、民主制から貴族制へ、並びに貴族制から君主制へ移ってゆく時である。これがその自然の傾向である。〔註〕もし、政府が少数から多数へ逆行してゆくときには、政府が弛むと言えるだろうが、かくの如き逆行は不可能である。

〔註〕ヴェニス共和国が、入江の島嶼とうしょの上に除々につくられ、進行していった経路はこの変遷の著しい一例である。しこうして千二百余年も経過しているのにヴェニス人が、今なお一一九八年にセラル・ヂ・コンシリオ(議会の集結)によりて始められた第二期に止まっているのは驚くべきことである。古代の国主ドオジュについては、兎角の批難もあったが、「ヴェニス自由史」(一六一二年匿名著者によりて公刊された)がそれについて何を言っているにもせよ、それはヴェニスの主権者でないことが証明された。

君主制から貴族制に移り、更に貴族制から民主制に移ったローマ共和国の変遷は、これと正反対であると言って私の説に抗議する人があるだろう。けれども私の見解は大分違っている。

ローマ建国の祖ロームルスがはじめて建てた大政府は混合政府であった。それがたちまちにして専制政府に変っていったのである。赤ん坊が大人にならぬ前に死んでしまうことがあるように、特殊の原因によりて国家が夭折したのである。タルクィニウスの追放された時が、ローマ共和国が誕生した真の時期である。けれどもローマははじめの中は、一定不変の政体をとらなかった。何となれば、貴族パトリシアンという階級を廃止しなかったので、事業がまだ中途半端だったからである。そのわけは、こんな風では、合法政治において最も忌むべき世襲貴族が民主政治と争闘し、政体は常に動揺不安を極めていて、マキャヴェリが指摘したように保民官が設けられるまできまらなかったのである。保民官が設けられるに及んで、はじめて真の政府ができ、真の民主政治が確定されたのである。実際、この時から人民は単に主権者たるに止まらず、同時に行政官であり司法官であった。元老院は政府を調節し統一するための下級の役所に過ぎなくなった。そして、執政官そのものすら、貴族であり、最高行政官であり、戦争の時には最高司令官であったけれども、ローマにおいては人民の長官に過ぎなかった。

ところが、その時から政府はその自然の傾向をとりはじめ、貴族政治に傾いて来ている。貴族パトリシアンはまるで自ら自滅してしまい、貴族政治はもはやヴェニス、ジェノヴァにおけるように貴族の仲間で行われずに、貴族パトリシアン平民プレペイアンとから成る元老院並びに、保民官が実権を僭奪しはじめてからは、保民官によりても行われるようになった。何となれば言葉だけ変わっても実際の物は変わらないから、人民が自己に代る統治者をもっている以上は、この統治者の名称がどうであろうとも、それは常に貴族政府だからである。

貴族政治の弊害から内乱が生じ、三頭政治が生れたのである。そしてスッラ、ジュリアス・シーザー、アウグストゥス等が事実上の君主となり、遂にティベリウスの専制政治の下に国家は崩壊したのである。故にローマの歴史は決して私の原則を破るものではなく、却ってこれを確証するものである。

実際において、政府がその政体を変更する場合は、その政府の力が消耗し衰弱して、従来の政体を維持することができなくなった場合に限るのである。ところで、この時に、もし、その政府が更にその規模を拡大して、その国力を放散したならばその国力はたちまち絶滅してしまい、政府の生命は益々縮まるだろう。だから、国力が衰退するにつれて、これを緊縮しなければならぬ。しからざれば、それによりて支えられている国家は滅亡の外はないであろう。

国家の崩壊する場合には二通りの道がある。第一の場合は、政府が法律に従って国家を治めなくなり、主権を僭奪する場合である。この時には顕著な変化が行われる。この時には政府が収縮するのではなくて国家が収縮する。という意味は、大国が崩壊すると、其中に別の国家がつくられる。この国家は単に政府員によりて構成されたものであって、この国家たるや、爾余じよの国民にとっては、支配者あるいは暴君以外の何物でもないのである。そこで、政府が主権を僭奪すると同時に、社会契約は破棄され、普通の市民がことごとく自然の自由に立ち返り、強制的に服従させられるけれども義務的には服従しなくなる。

また、政府員が、一団となって行使しなければならぬ筈の権力を各自別々に僭奪する時にも国家は崩壊する。この場合には、前の場合と同様に法律は破られ、前の場合以上の大混乱を来たす。この時には、言わば行政官と同数の政府ができ、国家と政府とが同様に分割されて、滅亡するかあるいは政体を変えるかいずれかに立ち至るのである。

国家が崩壊する時には、如何なる政府たるを問わず、その悪政は無政府 Anarchie という共通の名称で呼ばれる。これを区別すれば、民主政治の悪化したものは衆愚政治 Ochlocratie であり、君主政治の悪化したものは寡頭政治 Oligarchie である。私は王制の悪化したものは暴君政治 Tyrannie であるということを付言しようと思う、が、この言葉は曖昧だから説明しておく必要がある。

通俗の意味では、暴君というのは、正義や法律を無視して暴力をもって支配する国王であるけれども、正確な意味では、暴君というのは、国王になる権利のないのに王権を僭取している人のことである。ギリシャ人は、この暴君(僭王)という言葉をこういう風に解していた。彼等は、正当な権利のない王を、良い王でも悪い王でもかまわず暴君(僭王)と称していた。〔註〕かくの如く、暴君 tyran と僭奪者 usurpateur とは全く意味を同じくする二つの言葉なのである。

〔註〕「自由を享楽していた国家で恒久的の権力を行使する人々は皆暴君と考えられかつ呼ばれている」(Corn. Nep., In Miltiad, cap. VIII)アリストテレスが、暴君と国王とを区別して、前者を自己のために政治するものとし、後者を臣民のために政治するものとしたのは真実である(Mor. Nicom., lib. VIII cap. X)。けれども一般に、ギリシャの学者が暴君という言葉を別の意味に解したことは、特にクセノフォンのヒエロンの中に見られるが、そのことはしばらくおくとして、アリストテレスのような区別に従うと、世界の開闢以来まだ一人の王もなかったという事になる。

異なった物を別の名称で呼ぶために、私は王権の僭奪者を暴君と呼び、主権の僭奪者を専制君主 despote と呼ぶことにする。暴君とは、法律に従って政治をするために法律を冒すものであり、専制君主は法律そのものの上にたつものである。かくの如く暴君は専制君主にならずにすむこともあるが、専制君主は常に暴君である。