社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第九章 良政府の特徴


こういうわけだから、どんな政府が絶対的に最良の政府であるかという問題は意味が不確かであって、かつ決し難い問題である。あるいは、この問題の正しい解答は、各国民の絶対的位置と相対的位置とのありとあらゆる結合の数と同じだけあると言えるのである。

けれども、ある特定の国民が良く統治されているかあるいは悪しく統治されているかは如何なる特徴によりて知ることができるかという問題は、自ら別個の問題であって、かくの如き事実の問題には答えることができるのである。

けれども、各人がめいめい思い思いにこの問題を解決しようとするものだから、この問題は解決されてはいない。臣民は国家の平穏無事を謳歌するが、市民は個人の自由を謳歌する。前者は所有の安全を欲するが、後者は人格の安全を欲する。前者は善良な政府は最も厳重な政府であることを望むが、後者は善良な政府は寛大な政府であることを望む。ある者は犯罪の罰せられることを欲し、ある者は犯罪を防ぐことを欲する。ある者は隣邦に畏怖されることを喜ぶが、他の者は隣邦に無視されることを喜ぶ。ある者は貨幣が流通しておれば満足するが、ある者はパンを要求する。しかも以上の諸点並びにこれに類似する諸点において意見が一致したとしても、それによって事態が果して良くなるだろうか? 無形の性質には判然たる尺度がないのだから、外部的特徴について意見が一致しても、どうしてその評価について一致が望まれようか?

私は、常に、こんなにわかりきった特徴にどうして世人が気がつかないのか、あるいは一致してこれを認めない程どうして世人が不真面目なのかをあやしんでいる。一体政治的結合の目的は何であるか? それは団員の保全と繁栄とではないか。しからば彼らの保全と繁栄とを示す最も確実な徴侯は何であるか? それは彼等の数である。人口である。だから、このかれこれ論議された特徴を探すために、それ以外の方面へ行くには及ばない。他の全ての条件が等しいとすれば、ある政府の下に、外国の援助なしに、即ち帰化や植民なしに住民が増殖してゆく政府こそ、まぎれもなく最良の政府ではないか。しこうして最悪の政府とは、その政府の治下で人口が滅少し、滅亡してゆく政府ではないか。統計家諸君、これは諸君の領分だ、算定し、計量し、比較して見なさい。〔註〕

〔註〕人類の繁栄に最も望ましい時代は如何なる時代であるかを判断するにも、これと同じ原則によらなければならぬ。世人は文学や芸術の栄えた時代を、それを盛ならしめた秘密の目的をきわめず、その呪うべき結果を考えずに、無闇に讃美した。『無智な人々はこれを文明と呼んだが、その実これは彼等の奴隷状態の一部だったのだ』(Tacitus, Agricola XXI)。我々は多くの書物の名文句の中に、著者をしてかかる言をなさしめた卑しむべき利己心を見ないだろうか? 否、彼等がどんなことを言っているにせよ、国家が如何に栄えていても、その人ロが減少している時には、万事がうまく行っているというのは嘘である。そして、ある詩人が、彼の時代があらゆる時代を通じて最良の時代だと言ったために十万リーヴルの年金をせしめただけでは、その時代が実際最良だとは言えないのだ。国家の首脳連の外見的平和と静穏とよりも国民全体の幸福を重視しなければならない。特に、人口の最も多い国においてはそうである。あられは小区域の土地を荒らすけれどあられによって飢饉が生ずるようなことは滅多にない。暴動や内乱は国家の首脳連を少なからず悩ますけれども国民の真の不幸を醸すものではない。それどころか、国民は自己の圧制者に対して争いが起っているのだから寧ろ骨休めにさえなる。国民の恒久的の状態こそ、彼等の真の繁栄あるいは不幸を生むのである。即ち全てのものが専制の下に屏息へいそくされている時こそ全てのものが衰亡する時である。その時こそ国家の首脳連が、思うままに国民を蹂躙し『国民を幽閉してこれを平和と呼んでいるのである』(Tacitus, ib. XXX)。大官連の紛擾ふんじょうがフランス国内を騒がし、パリの補佐司教が短刀を懐にして高等法院に出頭しても、フランス国民が、公正と自由の安楽の中に、幸福に栄えてゆくことを妨げはしなかった。 昔ギリシャは最も惨虐なる戦争の真只中に繁栄した。血が流れて河をなしていたに拘わらず、国内には人間が満ち満ちていたのである。「虐殺と追放と内乱の最中に我が共和国(フィレンツェ)は最も強大になった観がある。この国の内訌ないこうが国を弱めたより以上に、市民の徳と、その風習と、その独立心とはこの国を強めるに力があった」とマキャヴェリは言った。少しくらいの動乱は却って人心を鼓舞する。真に人類を繁栄せしめるものは平和ではなくて自由である。