社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十二章 主権は如何にして維持されるか


主権者は立法権以外には何の力ももたないのであるから、法律を通して以外には行動しない。しこうして、法律は一般意志の正真正銘の行為に他ならぬから、主権者は、国民が集会している時の外は行動することができない。国民が集会するなんてとんでもない空想だと言う人があるだろう! 左様、今日ではそれは空想だ。けれども一千年前には空想ではなかったのだ。一体人間の性質は変ってしまったのか?

我々の力で可能なる範囲は、精神的分野においては、我々が考えている程狭いものではない。ただ我々の弱さと、我々の欠点と、我々の偏見とがそれを狭くしているのである。卑屈な小人物は決して大人物を信じない。卑劣な奴隷は自由なんていう言葉をきいても鼻の先で笑っている。

これまでに実行されたことに基づいて、これから実行し得る事柄を考えてみよう。私は古代ギリシャの共和国のことは語るまい。けれども、ローマ共和国は大国であったように私は思う。ローマ市は大都市であったように思う。最後の国勢調査によると、ローマには武器をもった人間が四十万あった。最後のローマ帝国の人口調査によるとローマの市民は、属領民や、外国人や、婦女や、子供や、奴隷は勘定に入れないで四百万以上あった。

この首府とその付近の多数の人民がしばしば集合を催すなんていうことは、如何に困難であったろうと我々は想像するだろう。ところが、ローマの人民が集会せずにすました週はほとんどないのである。しかも一週に何回も集会したのである。彼等は単に主権者の権利を行使したばかりでなく政府の権利の一部分をも行使したのである。彼等は種々の事件を論議し、種々の争議を裁いた。そして彼等は公会場においては、ほとんど常に市民であると同時に官吏であった。

諸国民の往時に遡ると、古代政府の大部分は、マケドニアやフランクのような君主政府でさえも、この種の会議をもっていたことが見出される。それはいずれにしてもこの唯一の疑うべからざる事実だけでも一切の困難を解決する。実際あったことに基づいて可能なることを推論するのに間違いっこはないと私は思う。