社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十三章 主権は如何にして維持されるか(続き)


人民が集会して、一団の法律を承認して国家の組織を一度決定するだけでは十分でない。人民が永続的の政府をうちたてるだけでは十分でない。即ち人民が一度だけ行政官の選挙をするだけでは十分でない。不時の出来事のために必要になる特別の会議の外に、どんなことがあっても廃止したり、延期したりすることのできない、常例の定期の集会が必要である。そして、一定の日を期して、人民が、別段正式の召集令を受けなくても、法律によりて、当然召集されることにしなければならぬ。

けれども、期日だけによって既に合法なるこの集会以外には、一定の法律に従って、所定の行政官によって召集せられたものの外は、一切の国民の集会は不法とされ、その集会でなされた決議は全て無効とされねばならぬ。何となれば、集会の命令そのものが法律から出たものでなければならぬからである。

合法的集会の開かれる度数の多少は、多くの理由によって定まるのであるから、この点に関して明確な規則を定めることはできない。ただ、一般に、政府の力が強ければ強い程、主権者もしばしば自己の意志を表示すべきである。

たった一つの都会の場合ならそれでよかろうが、国の中に沢山の都会が含まれている場合はどうするのか? 主権が分割されるのか? それとも、これを一都会に集中して、爾余じよの都会をことごとくこれに従属さすべきであるか? と問う人があるだろう。

私は、それはどちらもいけないと答える。第一に、主権は単一なものであるから、これを分割すれば滅びてしまう。第二に、一つの都会は、国家と同様に他の都会に従属することは合法的であり得ない。何となれば、政治体の本質は、服従と自由との調和に存するものだからである。しこうして、臣民という言葉と主権者という言葉とは、楯の両面であってこの二つの言葉の概念は、市民という一語に合一するのである。

更にまた私は、多くの都会 ville を結合して一都市 cité つくるのは常に悪いことであり、ここのような結合をしようと思うなら、それから生ずる自然の弊害が避けられるなどと気休めな考えを起してはならぬと答える。小国論者に対する抗議として大国の弊害をもち出すわけにはゆかぬ。けれども、大国に抵抗するに足る力を如何にして小国に与えるのであるか? それは昔ギリシャの小都会が大王(ペルシャ王のことである)に抵抗した如く、また最近にオランダとスイスとがオーストリア王家に抵抗した如くにすればよいのだ。

けれども、国家を適当な大きさに縮小することができない時には、もう一つの手段がある。それは首府を定めないで、政庁を代るがわる各都会へもってゆき、その地で順番に会議を開く方法である。

国内各地方の人口に厚薄なからしめ、各地方の権利を同等にし、国内到る所に富と生命とを充実せしむれば、その国はこの上なく強くなり、この上なく立派に統治されるだろう。都会の城壁は、村落の民家の廃材をもってつくられるものに他ならぬことを銘記しなければならぬ。首府にそびえる宮殿を見る毎に、私は地方の落莫たる荒廃を目のあたりに見るような気がする。