社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第五章 貴族政府


貴族政治には二つの極めて判然と区別された精神的人格、即ち、政府と主権者とがあり、従って二つの一般意志がある。即ち一は全市民にとっての一般意志であり、他は政府員のみにとっての一般意志である。それ故に、政府は、その意のままに内政を処理することはできるけれども、国民に対しては、主権者即ち国民そのものの名においてしか語ることはできないのである。このことを決して忘れてはならぬ。

最古の社会には貴族政治が行われた。各家族の家長が自分等同士の間で公共の事務を討議した。若年の者共は、何の苦情もなしに老練の人々の令に服した。祭司 prêtre 長老 anciens 元老院 sénat 老官 gérontes 等の名はそのために生じたのである(この四つの語のいずれにも老年という意味を含んでいるのである)。北アメリカの野蛮人の間には今なおかような政治が行われ、しかも大変よく治まっている。

けれども、制度の不平等が自然の不平等に打ち勝つにつれて、富あるいは権力が年齢にとって代った。〔註〕ここにおいて、貴族政治が選挙制度を採用するようになった。遂に、権力が財産と共に父から子に相続されるようになると、貴族の家柄 les familles patriciennes が生じ、世襲的政府ができ、二十歳の元老院議員ができるようになったのである。

〔註〕古代人の間においては、optimates という語は最善の人という意味ではなく最も権力のある人という意味であったことは明らかである。

それ故に、貴族政治には三通りの種類がある。自然的貴族政治と、選挙制貴族政治と、世製的貴族政治とがこれである。この中で、自然的貴族政治は素朴な国民にしか適しないし、世襲的貴族政治はあらゆる政治の中で最悪のものである。選挙制貴族政治が最善のものであって、本来の意味の貴族政治はこの選挙制貴族政治なのである。

貴族政治には、主権と執行権とが判然区別される利益の他に、政府員を選挙するという利益がある。何となれば、人民政治の場合では、全ての市民が生れながらにして行政官であるが、貴族政治の場合では、行政官を少数の人に限定し、しかも選挙されなければ行政官になれないからである。〔註〕しこうして、この選挙という方法によりて誠実、聡明、熟練及びその他一切の技量と衆人の尊敬とをかち得る理由が、善政の新たなる保障となるのである。

〔註〕行政官の選挙方法を法律で定めることが極めて大切である。何となれば、これを王公の意志にまかせておくと、ヴェニス共和国やベルン共和国のように世襲的貴族政治に堕することを避けることができない。この中でヴェニス共和国はずっと以前に瓦解してしまい、ベルン共和国は極めて賢明な元老院のおかげで維持されているが、これは甚だ光輝あると同時に甚だ危険な一つの例外である。

その上に、貴族政治の国においては、集会が一層便利であり、政務の討議は一層完全に行われ、一層秩序的に、敏活に進捗し、名もない、卑しい群集が政治をするよりも老練な行政官が政治をする方が遥かに外国に対して国家の信用が維持できる。

一言にして言えば、最も賢明な人々が、大衆を支配するのが、最善にしてかつ最も自然な制度である。但し、これは彼等が、彼等の私利のためではなくて大衆の利益のために政治をするに相違ないということが確かにわかっている時に限る。徒らに道具立てを増やす必要はない。選ばれた百人の人でずっと立派にやれる仕事を、二万人の人にやらせる必要はない。けれども、貴族的政治においては、政府団体の利益をはからねばならないから、一般意志に基づいて公共の力を使用する量が少なくなり、執行権の一部が法律から除外せられるという避けることのできぬ傾向があることを注意しなければならぬ。

貴族政治が特に適する国は如何なる国かというと、その国はあまりに小さ過ぎたり国民があまりに純朴正廉であって、立派な民主政治の場合のように、法律が直接公共意志によりて執行されたりしてはならない。だからといって、その国があまりに大き過ぎて国を治めるために各地に分散している行政官が、各地方毎に主権を切り離し、やがて主権者から独立して遂には首長となるようなことがあってはならぬ。

けれども、貴族政治は、民主政治に比べると徳の必要は少ないとは言え、貴族政治に独特の徳が必要である。それは富者の節制、貧者の満足である。何となれば、貴族政治には厳密な平等は当を得ていないように思われるからである。スパルタにおいてさえも厳密な平等は守られなかったのである。

加うるに、貴族政体が、ある程度の財産の不平等を認めているとしても、それは、一般に国家の行政事務を、これが処理に全生活をささげ得る人に委任したまでであって、アリストテレスが言ったように、富者が常に選ばれるわけではない。その反対に、富者ではないものが選ばれる時には、往々にして、人間の値打ちには、富以上に大切なものがあるということを人民に教えるものである。