社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第六章 君主政府


これまで、我々は王公なるものを、法律の力によりて結合され、国家において執行権を委託された法人あるいは集合的人格として考えて来た。今や我々は、この行政が法律によりてこれを処理する権利をもった一人の自然人、実在の人間の手に集中された場合を考えねばならぬ。これが君主あるいは国王と称せられるものである。

集合体が一個人を代表している他の政体とは全く反対に、君主政治においては、一個人が集合体を代表している。それ故に王公を構成している精神的一体は同時に肉体的にも一体であって、その一体の中に、他の政体では法律によって、非常な努力をもって合一される一切の職能が、君主政治の場合には自然に合一されているのである。

そういうわけだから、人民の意志と政府の意志、国家の公共的な力と政府の個人的な力とが全て同一の動力によりて動かされて、国家機関のあらゆる動力機が同一人の手に握られ、全体が同一目的に動いてゆくのである。そこには互いに傷つけあうような相反する運動はない。それ故に我々は君主政治以上に、最少の努力をもって最大の活動を起させる制度を想像することはできないのである。自分は静かに河岸に坐していながら、何の苦もなく、大船を進水させたアルキメデス(Archimedes, シラクサの数学者、理学者)こそ私に、室内によりて大国を統御し、一見動かないようでありながら全てのものを動かしている名君の姿をしのばしめる。

けれども、君主政治程活気に満ちた政治はないと同時に、君主政治程個人意志が優勢を占めて、容易に他の意志を支配する政治もない。全てが同一目的に進んでゆくことは事実だが、この目的は公共の幸福ではなく、政府の力そのものが却って不断に国家を害するのである。

国王は、その権力が絶対的ならんことを欲している。人々は、それには人民に愛せられるのが一番よい方法だと遠くから叫んでいる。この言葉は甚だ立派である。そしてある点では真実でさえある。が不幸にして宮廷では必ず一笑に付せられるだろう。人民の愛から生ずる権力は疑いもなく最も大なる権力である。けれども、それは他人まかせの、条件付きの権利である。帝王たるものは決して左様な権力では満足せぬ。大抵の国王は、支配者たる地位は失わないで、自分の意志次第で、悪いこともできるような地位にあることを望んでいる。政治の説法者等が、人民の力はとりもなおさず国王の力なのだから、国王にとって最大の利益は、人民が富み栄え、人口が多く、強大であることだと言うだろうが、そんなことを言っても何にもならぬ。国王はそんなことは嘘だということを知っている。王の個人的利益は、先ず第一に、人民が弱くて、貧しくて、国王に反抗する力をもたぬことだ。もっとも、臣民がいつでも完全に服従していれば、その時こそは、人民の力は帝王の力になるから、それで隣国を威圧するために、国民の力の強いのが帝王の利益になる。けれども、この利益は、第二義的の、従属的のものであり、かつこの二つの仮定は両立しないものであるから、帝王は、直接自分により有利な方を選ぶのは自然である。これはサムエル Samuel がヘブライ人に強調したところであり(旧約聖書サムエル第一書八章十一節――十八節を見よ)マキャヴェリが証拠をあげて明かにしたところである。マキャヴェリは国王に教えると称しながら、その実人民に大教訓を与えているのである。マキャヴェリの「帝王論」は共和党の宝典である。〔註〕

〔註〕マキャヴェリは正直な人であり、善良な市民であったが、メディチ家に仕えたので、祖国の圧制の中にありて、自由を愛す念を隠すことを余儀なくされていたのである。彼のいとうべき英雄シーザー、ボルジアの選択だけでも、彼の秘密の意志を示してあまりがある。しこうして、彼の著書「帝王論」の主張と「ティトゥス・リウィウス論」並びに「フィレンツェ史」の主張とが矛盾しているのを見れば、この深遠な政治学者の説は、これまで、浅薄な、堕落した読者によりて誤られていたことがわかる。ローマの宮廷は、彼の著書を厳禁したということだが、私はそれはもっともだと思う。何故かならば彼が最も鮮明に描写したのはこの宮廷なのだから。

我々は、既に、一般的の理由から、君主政治は大国にしか適しないということを見出したが、今度は更に、君主政治そのものを検査して、このことを明かにしようと思う。国家行政にあたる人の数が増加するにつれて、王公の臣民に対する比は少なくなり、両者の比例は等式に近くなり、遂に民主政治になると、その比例は一になる。即ち等しくなるのである。この比例は政府が小さくなるにつれて大きくなり、政府が一人の手に帰するときにその最大限度に達する。この場合には、政府と国民との間には大なる距離が生じ、国家には連鎖がなくなってしまう。そこで、この連鎖をつくるために両者の中間に介在する階級が必要となる。この階級を満たすために王侯、大公、貴族等が必要となる。ところが小国には、こんなものは一切適しないのであって、これ等の階級が小国に生じると小国は亡びてしまうのである。

本来、大国を良く治めるということは困難であるが、この大国がただ一人の手で良く治められるということは更に更に困難である。国王が、自分の代りの者に政治をさせるとどんなことが起るかは周知のことである(これは当時フランスを治めていた三十人の知事をさしたものらしい)。

君主政治を、いつでも共和政治よりも劣ったものにする、本質的にして避くべからざる欠点は、共和政治においては、その地位に恥ずかしからぬような、賢明にして有能な人物以外の人を国家の高位にのぼせることは滅多に世論が許さないが、君主国において出世する人は、大抵の場合に、小ざかしい悪人、悪漢、陰謀家のたぐいであって、これ等の人々の小才は朝廷において要職をかち得るには役立つが、その要職についてしまえば、公衆に対してたちまちその無力を暴露するに過ぎないものであるという事である。この選択に関しては、人民は帝王よりも誤ることが遥かに少ない。しこうして、国王の閣臣に真に有能の士が少ないのは、共和政府の首脳に愚人が少ないのとほとんど似ている。だから、万が一運よくもかかる天成の王者が、これ等の歴々の閣臣共によってほとんど没落せんとしている王国の政務を鞅掌おうしょうする時には、この王者は驚天動地の手段をとり、その国の新時代を画するのである。

君主国の統治が宜しきを得るためには、その領土の大きさあるいは広さが、統治者の能力に相応していることが必要である。征服することは統治することに比べると遥かに容易である。十分に大きい槓杆こうかんがあれば一本の指で世界を動かすことができるが、これを支えるためにはヘラクレスの肩がいる(ヘラクレスはギリシャ神話中の強力無双の神である)。どんなに小さい国の場合でも、国王の力が有り余るというようなことはほとんどない。これに反して、滅多にないことではあるが、万一国王の力に比して国土が小さ過ぎるようなことが起るとその国の統治はなおさらうまくゆかない。何となれば、この国王は常に広大な野心を抱いて人民の利益を忘れ、有り余る才能を濫用するから、人民は才能のない凡庸な国王に統治される場合よりも決して幸福にはならないのである。だから、君主国の国土は、君主の能力に応じて、君主の代る毎に拡張したり収縮したりする必要があるとも言える。けれど元老院の能力は、国王の能力に比べると遥かに不変であるから、元老院が国を治める場合には、その国の国境を一定しておいても、統治がうまくゆかぬというようなことはないのである。

唯一人の政府の最も著しい不便は、他の二つの政体の場合には連綿として不断に継続している統治者が不断に継続しないという点である。一人の国王が亡くなれば、別の国王が必要になり、これを選挙するために危険極まる中間期が生じて来る。この中間期は物騒千万な期間であって、市民が公明正大でない限りは陰謀腐敗がくびすをついで起るのである。しかる君主政治において、市民の公明正大を望むのは木によって魚を求めんとする程難しいのである。国家が自らを売った当の相手が、今度は自分がそれを売り、強者にしぼりとられた金を弱いものからとって埋め合せないのは難しいことである。だから君主政治の治下においては、早晩すべての事柄が金銭づくになる。それ故に、国王の治下において享楽せられる平和は、空位の時の騒乱よりも更に悪いのである。

この害悪を防止するためにどんなことがなされたか? ある王室では王位が世襲的にされた。そして王位継承の掟を定めて国王の死に伴うて起る一切の紛議を防いだ。即ち国王選挙の弊を除いた代りに摂政の弊を設けたのである。善政を捨て、表面の静穏を選んだのである。賢明な国王を選挙する場合の紛争よりも、子供や、不具者や白痴を国王にいただくのを喜んだのである。そして、かくの加く、どちらかの危険を選ばねばならぬ時にあたって、ほとんど全部都合の悪い方を選んだのだということに気がつかなかったのである。ディオニュシオス(シラクサの僭王)がその息子の良くない行いを叱責して「お父さんがそんなことをして見せましたか」と言った時、息子のディオニュシオス(編註:ディオニュシオス二世)が「そうです、父上のお父さんは国王ではありませんでした」と答えた言葉は玩味すべき言葉である。

他人を支配するように育てられた人間には、何もかもが調子を合せてその人から正義と理性とを奪わせるようにしむけられているのである。若い王子に統御の術を教えこむのは非常に骨の折れる仕事だと言われている。ところがそんな教育は少しも彼等のためにはなっていないようである。先ず王子に対して服従する術から教えてかかった方がましなのである。史上に名を残した最も偉大な国王達は、決して支配をするように教育されたのではない。統治をするという学問はどれほど学んだところで熟達しない学問である。そして、支配をするよりも服従する方がよくその術がのみこめるのである。「善いことと悪いこととを区別する最も便利にして最も手っ取り速い方法は他の王の下にたった時そのことを汝が喜ぶかどうかを考えて見ることである」(タキトゥスの「歴史」第一篇第十六章にあるガルバの言葉である)

この国王の変更常なきことから生ずる一つの結果は王政の動揺ということである。即ち王政はこれが統治者たる帝王あるいは帝王に代って統治する人の性格次第によって政策を異にし、長く一定の計画を維持することもできず、施政方針が一貫しないのである。この政府の朝三暮四常なきことは、国家の政綱を絶えず動揺せしめ、転々としてその国策を変化させる。かかる現象は君主政治以外の政治では決しておこらぬことである。けだし他の政治においては、政府当局は常に同一であるからである。そこで、概言すれば、君主国の宮廷は策略に富み、共和国の元老院は叡智に富むということ、並びに、共和国は、その目的に向って確固たる遠大な見解によって進んでゆくが、君主国における内閣の更迭は国家の革命を招致するものであるということがわかる。それは、全ての閣臣並びにほとんど全ての国王は、先人の政治を徹頭徹尾逆にすることを主義としているからである。

この王政に持続性が欠如しているということから、君主政治を主張する政治家の非常に好んで用いる詭弁が解決される。この詭弁とは、ただに一国の政治を一家の政治に比較し、帝王を家父に比較することばかりではない。このことが誤りであることは既に論駁したが、更に、帝王に必要なるあらゆる徳を、無闇に実際帝王が兼備しているように思い、常に現実の帝王を理想の帝王だと思いこむことである。こんな仮定を許せば、君主政治は他の如何なる政治よりも望ましいものであることは明かである。何となれば、君主政府が最も強大な政府であることは疑いの余地がないから、ただ一般意志に最もよく合致した意志さえあれば、最上の政府となるわけだからである。

けれども、もし、プラトンの言うように、天成の国王が暁天の星のように稀であるとすれば、自然と運命とが協力してこの稀なる人物を王位に即かしめるような幸運が果して幾度びあるだろうか? また、宮廷教育がこれを受ける人を必然的に腐敗せしめるとすれば、王者として教育された人の登極から我々は何を期待すべきであるか? 観じ来れば、君主政治と明君の政治とを混同するのは、自己を欺かんとするものではないか。君主政治そのものの何たるかを知らんと欲せば、これを凡庸なあるいは悪い帝王の下において考察しなければならない。何となれば、こういう人々が王位に即くかあるいは王位がそれに即いた人をこんな風に堕落させるかいずれかであるからである。

これ等の難問を我が著述家諸氏は気がつかなかったわけではないが、彼等はそれにかかりあうことを避けたのである。彼等は、ぐずぐず言わずに黙って服従しているより外には仕方がないというのである。神が怒って悪王を与えたのであるから、我々は天罰としてこれに忍従しなければならぬというのである。こういう議論は成る程神々しい議論であるけれどもこういう議論は、政治の書物においてするよりも、説教台に上ってした方がよく似合いはしないだろうか。病人に向って、奇蹟を説き、ただ、じっと病気を忍んでいるようにすすめる外には何も知らない医師を我々は何と言うだろう? 悪い政府の下にある時にはそれを忍ばねばならぬくらいのことは誰でも百も承知している。問題は善い政府を見出すことなのだ。