社会契約論――政治的権利の諸原則 第四篇, ジャン・ジャック・ルソー

第七章 都察官


一般意志の宣告が法律によりてなされるように、公衆の判断の宣告は都察官によりてなされる。世論は、都察官が執行する一種の法律であって、都察官は王府にならって、特殊の場合にのみこれを適用するのである。

故に、都察官の法廷は、決して国民の世論の審判機関ではなくて、その宣告機関に過ぎないものであり、人民の世論とはなれるや否や、その判決は、空虚な、無効なものになってしまう。

一国民の道徳ムールを、その国民が尊敬している事物から、区別するのは無益である。何となればこの両者は、同一の原則から出たものであり、必然的に相混同しているものだからである。世界の全国民は、自然ではなく、世論によりて、彼等の快楽を選定する。人間の世論さえ正しくすれば、その道徳はひとりでに純化して来る。我々は常に、いもの、あるいはいと思うものを愛する。ところが、我々は、この判断において誤るのである。だから、この判断を正しくしなければならない。道徳の何たるかを判断するものは、名誉の何たるかを判断するものであり、名誉の何たるかを判断するものは、その規準を世論に求める。

ある国民の世論は、その国の組織から生れる。法律は、道徳を支配するものではないけれども、道徳を生じさせるものは立法である。立法が微弱になれば、道徳は頽廃する。けれども、その時になっては、都察官の裁判は、法律の強制力が如何ともなし得なかったことを、どうすることもできはしない。

ここにおいてか、都察官は、道徳を保持するには役に立つが、一旦失われた道徳を回復するには、決して役に立たぬということになる。都察官は法律の力が盛んな時に、設置すべきである。法律が力を失ってしまえば、もう絶望である。法律が強制力を失ってしまえば、如何なる合法的なものも、強制力を失ってしまうのである。

都察官は、世論の腐敗をふせぎ、賢明な適用によりて、世論の正しさを保持し、時には、世論がまだ不定である時に、これを固定せしめることさえも、敢えてすることによりて、道徳を維持する。フランス国内において、極度に猛烈に行われた決闘において、介添人スゴンドを用いることは『介添人の助けに依頼するが如き卑劣漢は』という、簡単な勅令によりて廃止された。この判決は、公衆の判断に先行したものであったから、たちまちに、これを決定してしまったのである。ところが、この同じ勅令が、決闘をすることもまた卑劣な行為であると宣言しようとすると、実際、決闘は卑劣な行為であるにも拘らず、それは公衆の世論に反した判断であったから、公衆は、自己の判断が既に前もってきまっていた点に関するこの判決を嘲笑した。

私は、公衆の世論は、決して強制力に屈服するものではないから、世論を代表するために設けられた法廷においては、少しも強制力を用いてはならぬということを、他で述べたことがある。〔註〕我々近代人が、すっかり失ってしまっているこの強制力によらざる手段を、ローマ人、特にギリシャ人が、如何に巧みに駆使したかは、どんなに讃嘆しても、讃嘆しすぎる気遣いはない程である。

〔註〕私は、この章においては、私が「ダランベールに与うる書」Lettre à M. d'Alembert において詳細に述べた事柄をざっと説明したに過ぎないのである。

ある不道徳な人が、スパルタの議会コンセイユにおいて、立派な意見を開陳した時、監察官エフオールは、それには少しも耳を傾けないで、それと同じ意見を、徳行の正しい別の市民に開陳させた。いずれを賞めもせず、いずれを責めもしないで、一方にこれほどの名誉を与え他方にこれほどの不名誉を与えた手際は讃嘆に余りがあるではないか! また、サモス Samos 〔註〕の泥酔者が、監察官の法廷を汚したことがあった。するとその翌日になって、監察官は、サモス人は賤民ヴィジンに編入すべき旨を公示した。こんな風にして罰せられずに許されたのは、本当に罰せられたよりも、どれ程つらかっただろう。スパルタがこれは正しいとか、あるいはこれは正しくないとか宣告すると、ギリシャはその判断を少しも争わなかったのである。

〔註〕これは他の島から来たのであるが、この場合我が国の言葉はデリケートだから私にはどうしてもこの島の名を言うことができない(本当の島の名はシオ(chio)というのであるが、多分この言葉の語呂が厭な言葉を連想させるから、ルソーはこれを使わなかったのだろう。またある人は、件の泥酔者は監察官の法廷を煤(シユイ)で汚したのであるから、シオとシユイとの音が似かよっているからだと言っておる。いずれにしても、この島がシオ島であることは、プルタルコスによりて明かであるが、ルソーがこれを言わなかった理由ははっきりしない。――訳者付記)。