本書は J. J. Rousseau の Contrat Social の全訳である。
題名は邦訳の伝統を重んじて「民約論」(編註:底本の書名)としたが、本文の中では Contrat Social を社会契約と訳した。
翻訳の台本にはガルニエ社古典叢書の Contrat Social 及び、アシエット版ルソー全集を用い、トオザー及びコールの英訳並びに市村博士、森口氏の邦訳を参照した。英訳は二つながら珍しい名訳であると思った。
本書は読みにくいルソーの書物のうちでもとりわけ難読のものであるが、特に私を苦しめたのは、今日の政治学では用いないテクニックの訳語であった。その二三については是非ここで解説しておく必要があると思う。
Corps politique という言葉を私は「政治体」と訳したが、この言葉は自然の人間の集団ではなくて、政治によりて統治されている人間の一体のことを指すのである。即ち多くの場合それは「国家」と同義語であると解して貰いたい。
次に droit という文字を私は「権利」と訳した場合と「法」と訳した場合とがあった。権利という日本語の表わす内容ではどうも意味が窮屈すぎる様に思った場合があったからである。その場合「当為」としようかとも思ったが、結局「法」とした。「法律」 loi という言葉と混同しないようにしてほしい。
それから本文中にも説明してあるが prince という言葉を著者が特別の意味に用いている個所があるのには随分閉口した。即ち、普通の帝王という意味の場合と、政府員を団体として総称する場合とに、この同じ prince という言葉が使われているのである。英訳者トオザーは、注意深くも、後者の場合には最初の文字を花文字で書くことによりて両者を区別しているが、原文にはこの区別がなく、ただこの文字の使ってある前後の文章の意味によりて両者を区別するより他に道がないのである。私は、それ故に、普通の場合には「帝王」と訳し、ルソーに特別の場合には「王府」と訳することにした。旧訳には後者の場合に「政府員」と訳したが、あまり意訳に過ぎると思って右のように改めたのである。
原文の註訳は、本文外に別行として全部収録した。本文中に括弧で囲ってある註は、すべて原文にはないものである。この註は少なからぬ部分をトオザーの英訳によった。
原文でイタリックの文字は訳文では圏点を付しておいた。
本書は大正十四年に、人文会から刊行したものである。今回岩波文庫の一冊として刊行するにあたって、全体にわたって改訂を試みた。
おわりに本書を岩波文庫の一冊として刊行することによりて本書が広く民衆に普及する機会を与えられた岩波書店、及びこの企てを快諾せられた旧発行所人文会書肆の好意に対して私は深き感謝の意をささぐるものである。
訳者