ドレフュス・ブリザックという人は、ルソーの民約論(編註:社会契約論を指す)は最も多く語られ、最も少なく読まれる書物だと言っている。日本でもこのことはある程度まで真実である。西洋の思想史、政治史について、少しでも知っているもので、民約論の名を知らぬ人はあるまい。だが、この書物にどんなことが書いてあるかを知っている人はごく稀である。
民約論は今日の読者にとっては相当難解である。殊に、どんな書物でもそうであるが、民約論のような書物は、とりわけ、その当時の時代的環境から切り離して理解することは不可能といってもよい。ルソーがどれ程天才であったにしろ、彼もまた時代の児であったことは争われぬ。
この書物は、理論的には、中世の国家論から近世の国家論へうつる橋梁をなすものであって、その理論中には幾多の中世的遺物が認められると同時に近世的国家観の萌芽を少なからず蔵している。また実践的には、フランス大革命を誘発せしめた思想がその中に結晶している。学者間にどんなに異論があるにしても、この書物は、十八世紀のフランスの絶対君主制に対する批評と見ることができる。
とは言え、当時の峻厳な迫害の中にあって、彼が露骨に、具体的にフランスの王制を攻撃することのできなかったことは言うまでもない。この書物の内容が甚だしく抽象的、理論的であるのは、それが、政治の実際を論じたものではなくて、政治の原則を論じたものであるという理由にもよるけれども、上述のような事情にもよると見るのが至当であろう。しかし本書においては、専制政治に対する攻撃の鋭鋒が、時々匕首のように閃いているところがあるかと思うと、その次にはまた非常に穏健な思想が述べられている。ある個所はむしろ反動的ですらある。このことは、ルソーの思想が、中世的伝統から完全に脱却しきっていなかったためでもあると同時に、専制政府の圧迫が彼の筆を幾分控えめにさせたこともあずかって力があるであろう。
社会契約の説、即ち社会成立の基礎は、それを構成する個々人の契約であるとする説は、決してルソーの独創に出づるものではなくて、遠くギリシャのソフィストにその萌芽を見、中世時代の国家学説にも旧約聖書を典拠としてこれに類似の見解が支持され、十六世紀にはブキャナン、ジェームズ一世等の著書に見出され、十七世紀にはグロチウス、プッフェンドルフ等によりて唱えられたものである。ルソーはある点においてはこれらの人々の思想を継承し、ある点においてはこれを排撃して、彼自身の体系を打ちたてたのである。
ルソーの著書に検しても、社会契約の思想は、この書物にはじめて現れたのではなくて「経済学」「人間不平等論」等にこの思想は点綴されている。本書においては、それが、最も論理的な、かつ建設的な、そして最も円熟した表現をとっておるに過ぎないのである。
この書物においてルソーが明かにしようとした問題は、彼が巻頭において述べているように「社会組織の中に、正当にして確固たる何等かの政治の原則があり得るものか否かを、あるがままの人間をとり、あり得るままの法律をとりて研究」することである。この「あるがままの人間」と「あり得るままの法律」とを対照させている点に私たちは深く注意せねばならぬ。彼にとっては、社会は人間によりて成立する。従って人間をあるがままにとり、それを基礎として、如何なる法律が可能であり、正当であるかを彼はきわめようとしたのである。モンテスキューは既成の法律、既にあった法律を論じた。ルソーは法律はかくあるべきを論じた。前者の対象は事実であり、後者の対象は規範であり、当為である。
かくて彼は、人類を自然状態をはなれて社会状態に移行せしむる条件、即ち、社会あるいは国家を成立せしむる条件として、社会契約、人民即主権者、一般意志、一般意志の表現即法律等の根本的諸概念に到達したのである。
十八世紀のあらゆる政治的著書のうちで、この書物くらい影響の広汎なものもあるまい。その理論が非常に抽象的であるため、フランス革命の当時には、王党も革命党も、本書のうちに、自己の立脚地を見出したのである。実際、人民主権説を説く彼は一面において、君主制の利益を説き、独裁官の必要をも認めているのである。だが、主権は人民にあり、しかも主権は譲り渡すことも代表することもできぬという主張は、本書を、フランス革命の宝典と見倣さしめるに十分である。宜なるかな、革命政府は彼の遺骸をパンテオンに祭った。そして革命の大立物ロベスピエールは彼の霊前に荘重な式辞を述べたのである。
日本においても、本書の一部分は中江兆民によりて漢訳せられ、自由党の運動の経典とされた。だから、本書は、政治の学徒にとってのみならず、フランス革命史、明治の政治史に興味をもつ人々にとっても、少なからぬ感興を与えるであろう。
昭和二年九月三日
東京小石川の寓居にて
平林初之輔