宇宙戦争 第一部 火星人の到来, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

ロンドンからの脱出


月曜の夜明けとともに世界最大の都市に押し寄せた渦巻く恐怖の波については理解いただけただろう――避難する人々の流れはすぐさま濁流へと変わると混乱の泡沫を上げながら鉄道の駅の周りへと押し寄せ、さらにテムズ川に停まった船の周りに殺到して恐ろしい争いを引き起こし、利用できるあらゆる手段で北や東へと急いだ。十時には警察組織が、正午には鉄道組織さえもが秩序を失ってその形と能力を喪失し、揺動し、融解し、ついにはその社会的体裁を失って急激に液状化して流れ去った。

テムズ川より北の全ての鉄道とキャノン・ストリートにいるサウス・イースタン鉄道の人々には日曜の深夜までに警告が与えられていて、列車には満員になるまで人が詰め込まれた。二時にはすでに人々は旅客車に立錐の余地もなく立ったまま避難していた。三時になるとリバプール・ストリート駅から数百ヤード離れたビショップスゲートにさえも人々があふれ返った。リボルバー拳銃が撃ち鳴らされ、ナイフでの切りつけ合いが起きる。交通整理のために派遣された警官たちは疲れ果てて怒りやすくなっていて彼らが守るべき人々を怯えさせていた。

一日が終わる頃には機関士と火夫はロンドンに戻ることを拒否するようになり、避難の圧力はかつてない数にまで増えた人々を駅から追い払って北へ走る街道へと向かわせた。正午にはバーンズで一体の火星人の姿が目撃された。ゆっくりと地を這う黒いガスの雲はテムズ川に沿ってランベスの共同住宅のあたりへと流れ込み、そのゆっくりとした前進によって橋を越える避難路は全て断ち切られた。イーリングではさらにガスの丘が生み出され、キャッスルヒルの生存者の小さな孤島を取り囲んだ。かろうじて生き延びてはいるが逃げ出すことができなくなったのだった。

チョーク・ファーム駅でノースウェスタンの列車へと乗り込もうとする実りのない努力の後で――貨物操車場へと出てきた機関車は金切り声を上げている人々をかき分けるように進み、運転士が火室に押し付けられないように一ダースほどの屈強な男たちが群衆を遠ざけていた――私の弟はチョーク・ファームの街道へと出て、先を急ぐ馬車の群れの間を縫って進んでいったがそこで運良く、略奪にあった自転車屋の前を通りかかった。手に入れた自転車の前輪は窓を通り抜ける時に引っかかってパンクしてしまったが、それでも一方の手首に切り傷を負っただけでそれを交換することができた。ハーバーストックヒルのふもとの急坂は数頭の倒れた馬のために通り抜けることができず、弟はベルザイズロードへと入り込んでいった。

激しいパニックから抜け出してエッジウェアロードを避けるようにして進むと七時ごろにはエッジウェアにたどり着いた。腹が減り疲れ果てていたが群衆よりもずっと早く到着できたのだ。街道沿いでは人々が車道に出て驚いた様子で見物していた。自転車に乗ったたくさんの人々、何人かの馬に乗った者、さらに二台の自動車が弟を追い越していった。エッジウェアから一マイルほどのところで車輪が壊れ、自転車は使い物にならなくなった。道端に自転車を置き去りにして彼は重い足取りで村の中を進んでいった。村の表通りにはいちおうは開いている店がいくつかあって、人々は歩道や戸口や窓のところに群れてこの始まりつつある避難者の大行列を驚いたように見つめていた。弟は宿屋のひとつでいくらかの食事をとることができた。

しばらくの間、次にどうすべきかわからないまま彼はエッジウェアに留まっていた。避難する人々の数は増えていった。弟と同じように、彼らの多くはこの場所で当てどなく時を過ごしているように見えた。火星からの侵略者についての新しい知らせは何も無かった。

その頃には街道はかなり人で混み合っていたが、あふれ返っていると言うには程遠かった。その時に見られた避難者のほとんどは自転車に乗っていたが、すぐに先を急ぐ自動車や一頭立て二輪馬車ハンサム・キャブ、四輪馬車が現れ始め、セントオールバンズへの街道に沿って厚い砂埃の雲が立ち込めた。

友人が何人か住んでいるチェルムスフォードへと彼が行き先を決めたことは偶然の思いつきだったのだろう。その思いつきが最終的には東へと走る静かな小道へ入り込んでいくよう彼に仕向けた。しばらくすると柵に突き当たり、そこにつけられた踏み段を越えた後は北東へと向かう歩道をたどっていった。いくつかの農園の建物と名前も知らない小さな広場のそばを通り過ぎていく。数人の避難者とすれ違いながらハイ・バーネットへと向かう草原の小道を進んでいたが、そこで旅の道連れとなる二人の女性と出くわした。それはちょうど二人を助ける形での出会いだった。

悲鳴を聞いた弟が急いで角を曲がると二人の男がポニーに引かれた軽二輪馬車から彼女たちを引きずり出そうと悪戦苦闘しているところだった。三人目の男が怯えるポニーの頭をなんとか抑えようとしている。女性の一方、白い服の背の低い方は悲鳴を上げ続けるだけで、もう一方、色黒で細身の方は自分の腕をつかむ男を自由になる方の手に握られた鞭で打っていた。

弟はただちに状況を理解して、叫び声を上げると争いに向かって突進した。男のひとりが動きを止めて彼に向かって来る。敵意をむき出しにした男の顔を見て弟は戦いが避けられないことを悟り、熟練のボクサーへと変わると男に向かって突進して軽二輪馬車の車輪に男を打ち倒した。

ボクサーとしてのスポーツマンシップを見せている余裕は無かったので弟は蹴りの一撃で男を静かにさせてから細身の女性の腕を引っ張っている男の襟首をつかんだ。蹄の鳴る音が聞こえ、鞭が顔に当たったかと思うと三人目の敵が彼の眉間を殴りつける。弟につかまれていた男は身を捩って手を振り払うと弟が来た方向へと小道を逃げ出した。

半ば呆然とした状態で、気がつくと弟は馬の首を抑えていた男と向き合っていた。見ると軽二輪馬車が左右に揺れながら遠ざかってゆき、そこに乗った女性がこちらを振り返っていた。目の前の男は体格のいい暴漢でこちらに近づいて来ようとしていた。その顔に一撃をいれて足止めする。それから取り残されたことに気がついた弟は身をひるがえすと軽二輪馬車を追って小道を逃げた。体格のいい男がそのすぐ後ろを追い、いったんは逃げ出した男も遠く離れてこちらを追いかけていた。

突然、弟はつまずいて転んだ。迫る追手はまっすぐに向かって来て、立ち上がった時には再び二人の敵に追いつかれていた。あの細身の女性が勇敢にも馬を止めて彼を助けるために引き返してこなければ立ち向かえる見込みはほとんど無かっただろう。彼女はリボルバー拳銃を持っていたらしい。しかし彼女とその同伴者が襲われた時にはそれはシートの下にあったのだ。六ヤードの距離で彼女は発砲し、弾はかろうじて弟を逸れた。強盗どものうちの意気地の無い方が逃げ出し、その後ろを仲間が臆病者と罵りながら追う。しかし二人ともまだ見える小道の先、三人目の男が昏倒しているところで止まった。

「これを」細身の女性が言って、弟にリボルバー拳銃を渡した。

「馬車に戻って」切れた唇から流れる血をぬぐいながら弟は答えた。

彼女は何も言わずに向きを変える――どちらも息を切らしていた――そして二人は白い服を来た女性が、怯えるポニーをなんとか抑えようとしているところへと退いていった。

強盗どもはどうやら懲りたようだ。弟が振り返ってみるやつらは逃げ出していくところだった。

「私がここに座りましょう」弟は言った。「もしよろしければですが」そう言ってから彼は空いている前のシートへと乗り込んだ。女性が肩越しにこちらを見る。

「手綱をください」彼女は言ってからポニーの脇腹に鞭を当てた。次の瞬間には曲がりくねった道があの三人の男を弟の視界からさえぎった。

まったく予想もしていなかったことだが弟は気がつくと息を切らしながら、唇を切り、顎にあざを作り、こぶしに血を付けたまま二人の女性とともに見知らぬ小道を馬車で走っていたのだった。

彼が知ったところによると二人はスタンモアに住む外科医の妻とその妹だった。医者は明け方前にピナーの重篤な患者の所から戻る途中で進む先にある鉄道駅が火星人の侵攻にあっていると知ったのだそうだ。彼は家に急ぎ、彼女たちを起こして――雇っている使用人は二日前に去っていたので――いくらかの食料を荷物に詰め込み――弟にとっては幸運なことに――リボルバー拳銃をシートの下にしまってから馬車でエッジウェアへ行くよう彼女たちに言った。そこから列車に乗れるだろうと考えてのことだ。隣人たちに知らせるために途中で彼は引き返したのだという。すぐ二人に追いつけるだろうと彼は言って、それが四時三十分ごろのことだったが、九時近くになっても彼の姿は現れなかった。エッジウェアに留まっているわけにはいかなかった。そこを通る人間がどんどん増えていったためだ。それで二人はこの脇道へと入っていったのだ。

二人は途切れ途切れに弟にそう語った。その時には彼らはニューバーネットの近くで再び停まっていた。少なくとも彼女たちがこれからどうするか決めるか、いなくなった男が追いつくまでは一緒にいると弟は約束し、二人を安心させるために自分は拳銃の扱いに慣れているのだ――実際は不慣れだった――という風に装った。

彼らは道端に簡単な野営地を築き、生け垣に繋がれてポニーは満足そうだった。自身がどうやってロンドンから避難してきたのか、またあの火星人やその行動について自分が知っている全てを弟は彼女たちに話した。太陽はゆっくりと空を昇ってゆき、話が絶えた後は先のことを考えながら皆落ち着き無く過ごした。徒歩での避難者が数人、道に沿ってやって来て、弟は彼らからできる限りの情報を集めた。はっきりしない答えのどれを聞いても、ひどい災いが人類に降りかかったのだという弟の気持ちは深まるばかりで、なんとしても避難を続けなければならないという確信は深まっていった。彼は彼女たちにそのことを伝えた。

「お金ならあります」細身の女性が言って、ためらうような素振りを見せた。

弟と目が合うと彼女は決意した。

「お金なら私もあります」弟が言う。

金貨で三十ポンドほど、他に紙幣で五ポンドを持っていることを彼女は説明し、それでセントオールバンズかニューバーネットから列車に乗ろうと提案した。それは望み薄であると弟は思った。列車に群がるロンドン市民の激しさを見ていたからだ。エセックスを抜けてハリッジへ向かい、そこから完全に国外へ避難するという案を彼は持ち出した。

エルフィンストーン婦人――それが白い服の女性の名前だった――は優柔不断で、ずっと「ジョージ」を呼び続けていた。しかし彼女の義理の妹は驚くほど落ち着いていて慎重で、最後には弟の提案に同意した。そこでグレート・ノース・ロードを横切るように彼らはバーネットに向かって進んでいった。できるだけ負担をかけないように弟はポニーの先に立って歩いた。太陽がゆっくりと空に昇っていくに従ってひどく暑くなり、足元では厚く白い砂が燃え上がって目をくらませた。こうしたもののために旅程はひどくゆっくりとしたものになったのだった。生け垣は砂埃で灰色になっていた。そしてバーネットに向かって進んでいくに従って騒々しいざわめきは次第に大きくなっていった。

行き交う人々が多くなり始める。ほとんどの者は彼らをじろじろと見つめ、何か聞き取れない質問をつぶやき、疲れ切ってやつれ薄汚れていた。夜会服を着たひとりの男が地面を見つめたまま、徒歩で彼らの前を通り過ぎた。男の声が聞こえて後ろを振り向くと彼は片手で髪の毛をかきむしり、もう一方の手で何か目に見えないものを殴りつけていた。その怒りの発作がおさまると彼は一度も後ろを振り向くこと無く自分の道を進んでいった。

弟の一行が交差点に向かってバーネットの南へと進んでいくと左の野原を横切って道へ近づいてくるひとりの女が見えた。子供をひとり抱き、他に二人の子供を連れている。次に汚れた黒い服の男が通り過ぎた。こちらは片手に太い杖、もう一方の手に小さな鞄を手にしていた。さらに小道の角を曲がったところ、幹線道との合流地点で小道の両脇に立つ住宅の間から汗をかいた黒いポニーに引かれた小さな荷馬車がやって来る。乗っているのは顔色の悪い若者で砂埃で灰色になった山高帽をかぶっている。荷馬車にはイーストエンドの女工であろう三人の少女と数人の子供が詰め込まれるようにして乗っていた。

「この道を行けばエッジウェアへ着きやすかね?」血走った目の白い顔をした御者が尋ねてきた。左に曲がれば着くと弟が教えると、男は礼も言わずにすぐさま鞭を当てた。

薄い灰色の煙とももやともつかないものが目の前の家々の周りに立ち昇り、住宅の背後の間に見える道向こうのテラス・ハウスの白い正面ファサードを覆い隠していることに弟は気づいた。エルフィンストーン婦人が突然、悲鳴を上げた。暑く青い空を背に、たくさんの煙った赤い炎の舌が目の前の家々の上に燃え上がっていたのだ。騒々しいざわめきは今やたくさんの声と車輪のきしむ音、荷車の立てる騒音、蹄の音が無秩序に混ざりあったものへと変わっていた。交差点から五十ヤードもないところで小道は鋭角に折れ曲がっていた。

「なんてこと!」エルフィンストーン婦人が叫んだ。「いったい私たちをどこへ連れて行こうというんです?」

弟は足を止めた。

幹線道は人の流れで沸き立ち、人間の濁流が北へと殺到して押し合いへし合いしていた。砂埃の巨大なもや、太陽の炎の白い光、それが地面から高さ二十フィートまでのあらゆるものを灰色に染めて見分けがつかなくし、また、膨大な馬の群れの蹄や徒歩で進む男女の足、あらゆる種類の乗り物の車輪によって絶えず生み出されているのだった。

「どけ!」弟の耳に叫び声が聞こえた。「道をあけろ!」

小道と街道の合流地点に近づくのはまるで炎から上がる煙に入り込んでいくようなものだった。人々の群れは炎のようにわめき声を上げ、砂埃は熱く、鼻をついた。さらにはなんと街道の少し先にある小屋は燃え上がりながら大量の渦巻く黒煙を街道へと吐き出して混乱をいっそうひどいものにしているのだ。

二人の男が通り過ぎた。むせび泣きながら重い荷物を運ぶ汚れた姿の女がそれに続く。はぐれた猟犬が舌を垂らして疑わしげな様子で周囲を歩き回り、怯えて哀れみを誘う様子を見せていたが、弟に追い払われて逃げた。

右側の家々の隙間から覗くロンドン方向からの街道には、両側の村に阻まれるようにして先を急ぐ薄汚れた人々の騒々しい流れが見えた。たくさんの黒い頭、群衆の姿は曲がり角へ向かって迫るに従って次第に見分けが付くようになり、そこを足早に通り過ぎると再びその個性を失って去っていく群衆へ姿を変え、最後には砂埃のもやの中へと飲み込まれていった。

「進め! 進め!」声が叫ぶ。「道をあけろ! 道をあけろ!」

誰もが両手で他の者の背を押している。弟はポニーの頭の横で立ち尽くした。それから抗いがたい力に引かれてゆっくりと一歩一歩、小道を進んでいった。

エッジウェアは混乱状態で、チョーク・ファームでは暴動が起きていたが、それは全ての住民がいっせいに動き出したためだったのだ。想像を絶する人の数だった。それぞれの人間の個性は消えている。曲がり角の向こうから人々の姿がわき出し、小道の人々へ背を向けて消えていく。道の端を歩いていく者たちは側溝に足を取られ、他の者に突き当たり、さらには乗り物の車輪に脅かされていた。

荷馬車や客馬車は互いにひどく距離を詰めて混み合い、遅々として進まず、我慢しきれなくなった馬車がときおり隙を見つけては前に突進して、人々を住宅の柵や門扉にまで蹴散らしていた。

「進め!」叫びが起きる。「進んでくれ! やつらが来る!」

荷馬車のひとつに救世軍の制服を着た盲目の男が立ってその曲がった指で身振り手振りを交えながら大声で叫んでいた。「永遠が来る! 永遠だ!」その声はしわがれ、あまりに大きな声だったので男の姿が砂埃の中に消えた後もずいぶん長い間、その声が聞こえていた。荷馬車いっぱいに乗った人々の中には馬鹿みたいに馬に鞭を当てて他の御者と怒鳴り合う者もいたし、身じろぎもせずに座っている者、憂鬱そうな目で虚空を見つめている者、渇きに自分の手を噛んでいる者、あるいは乗り物の床に力なく横たわっている者もいた。馬のはみは泡でおおわれ、その目は血走っていた。

二輪馬車、四輪馬車、露店用の馬車、荷馬車が無数にいた。郵便馬車、「セント・パンクラス教区」と印が入った清掃車を引く馬車、がらの悪い連中を詰め込んだ丸太の運搬車もある。ある醸造所の荷馬車は、まだ新しい血を間隔の狭い二つ車輪から跳ね上げながら轟音を立てて走っていた。

「道をあけろ!」声が叫ぶ。「道をあけろ!」

「永遠だー! 永遠が来るぞー!」街道の先から声がこだましていた。

悲しみに暮れ、歩き疲れた様子の良い身なりの女もいた。泣きながらよろめくように歩く子供を連れている。その上品な服は砂埃でおおわれ、疲れ切った顔は涙で汚れていた。彼女たちの多くは男連れだったが、助け合う者もいれば不機嫌で乱暴な者もいた。近くの者と目を見開き大声で罵りの言葉を浴びせ合い、色あせた黒いぼろ布をまとう疲れ切った浮浪者を押しやって騒ぎが起きる。道をかき分けるたくましい労働者たち、痙攣したかのようにもがいている事務員か店主らしい格好の見るも哀れなぼろぼろの姿の人々もいる。負傷した兵士にも弟は気づいた。鉄道郵便局員の制服を着た男たち、寝間着の上にコートを引っ掛けただけのみすぼらしい姿の者もいた。

しかし実に様々な人々がいるにも関わらず、そこには間違いなく全員に共通するひとつの特徴があった。その顔に浮かんだ恐れと苦悩、その背後の恐怖だ。街道での騒ぎ、荷馬車の上で起きる言い争い、それらが群衆全体を追い立て急かす。しゃがみこんで怯え打ちひしがれているひとりの男さえしばらくすると再び動きだした。暑さと砂埃はすでにこの群衆に襲いかかっていた。人々の肌は乾き、唇は黒くひび割れていた。誰もが喉の渇きを訴え、疲れ切り、足を引きずっていた。さまざまな悲鳴の中に言い争いや非難、倦怠と疲労のうめき声が混じる。ほとんどの人の声はしわがれ、弱々しかった。中でもひとつの言葉がとりわけよく繰り返されていた。

「道をあけろ! 道をあけろ! 火星人がやって来るぞ!」

数人が足を止め、流れから抜け出して道端に寄る。小道は幹線道に対して斜めにつながり、その出入り口は狭く、あたかもロンドンの方向から伸びているように見えた。それにも関わらず人の渦のようなものがその出入り口へと向かって来る。気弱な者たちは流れから肘で押し出されるが、そうされた者たちのほとんどはしばらく休んだ後で再び流れへと飛び込んでいった。小道の先を少し行ったところには血に濡れた毛布にくるまれてひとりの裸足の男が横たわり、そのかたわらに二人の友人がかがみ込んでいた。友人がいるのはまだ幸運な方だった。

灰色の軍隊風の口ひげを生やして汚れた黒いフロックコートを着た小柄な老人が足を引きずって歩いてくると、軽馬車の脇に腰を下ろしてブーツを脱ぎ――靴下には血が滲んでいた――それを振って小石を落としてから再びよたよたと歩き出す。次に来たのはひとりぼっちの八、九歳の少女で、すすり泣きながら弟の近くの生け垣の下に倒れ込んだ。

「もう歩けない! もう歩けない!」

驚きによる麻痺から覚めると弟はおだやかに話しかけながら彼女を抱きかかえ、エルフィンストーン婦人のところへと運んだ。弟が触れるとまるで怯えたかのようにすぐに少女は黙りこくった。

「エレン!」人混みの中にいた女性のひとりが金切り声を上げた。その声には涙が混じっている――「エレン!」。すると子供が「お母さん!」と叫びながら突然、弟の元から駆け出した。

「やつらが来る」馬に乗って小道を通り過ぎていく男が言う。

「道をあけてくれ、あっちだ!」馬車の御者が高い席から大声を上げ、閉め切った四輪馬車が小道へと曲がってくるのが見えた。

馬を避けようと人々が押し合うように退く。弟がポニーと軽二輪馬車を生け垣のところまで引くと、男は馬車を走らせてきて曲がり角のところで止まった。四輪馬車には二頭の馬をつなぐための棹がついていたが繋がれているのは一頭だけだった。砂埃の中で弟にぼんやりと見えたのは二人の男が何かを白い担架の上に乗せて運び、それをイボタノキの生け垣の下の草地に慎重に下ろすところだった。

男のひとりが弟のところに走ってきた。

「どこかに水は無いですか?」男が聞く。「死にかかっていて、ひどく水を欲しがっているんです。ガリック卿なんです」

「ガリック卿だって!」弟は言った。「首席裁判官の?」

「水は?」男が聞く。

「どこかの家には水道があるでしょうが」弟は答えた。「私たちも水は持っていないのです。私も仲間から離れるわけにはいかないですし」

男は角のところにある家の門へと人混みをかき分けていった。

「前へ進め!」人々が男に文句を言う。「やつらが来るんだ! 前へ進め」

次に弟の注意を引いたのはあごひげを生やした鷹のような顔の男で、小さな旅行かばんを重そうに運んでいた。見ているうちにかばんが裂け、大量のソブリン金貨が吐き出されて地面に落ちるやいなやコインが散らばった。コインはあちらこちらに転がり、争う人や馬の足元へと消えていく。男は立ち止まると馬鹿みたいに金貨の小山を見つめた。辻馬車の長柄が男の肩に当たって彼はよろめいた。男は悲鳴を上げて後ずさり、ぎりぎりのところで車輪が彼をかすめる。

「どけ!」周囲の人々が男に向かって叫ぶ。「どいてくれ!」

辻馬車が止まるやいなや、男は両手を広げてコインの山の上に体を投げ出し、つかんではポケットへ押し込むのを繰り返し始めた。近くに馬が迫り、次の瞬間、中腰だった男は馬の蹄に踏みつけにされた。

「止まれ!」弟は叫び、目の前の女を押しのけて馬のはみをつかもうとした。

彼がたたどりつく前に車輪の下から絶叫が聞こえ、砂埃の向こうで車輪がこの哀れな運の悪い男の背中の上を通り過ぎるのが見えた。荷馬車の御者が、荷馬車の後ろに回り込むように走る弟をその鞭で払う。大勢の人間の叫び声に弟の耳は惑わされた。男は撒き散らされた金の中で埃にまみれながら起き上がれずにもだえていた。車輪が背骨を砕いたのだ。その下肢は力なく伸び、死んでいるかのようだ。弟が立ち上がって近くの御者に叫ぶと黒い馬に乗ったひとりの男が来て手を貸してくれた。

「彼を道の外に出すんだ」空いている方の手で男の襟をつかみながら弟は言って、男を道の脇になんとか運び出そうとした。しかしそれでもなお男は自分の金にしがみつき、憤怒の表情で弟をにらみつけると金を握った手で弟の腕を殴りつけた。「前へ進め! 前へ進め!」背後では怒鳴り声が響いていた。

「どけ! どけ!」

四輪馬車の長柄が荷馬車にぶつかり馬に乗っていた男が止まった。弟が顔を上げると金を握った男は首をひねって自分の襟をつかんでいる手首に噛みついた。激しい衝撃で黒い馬はよろめきながら脇へと避け、荷馬車の馬がそれを押しのけるように進んだ。間一髪、蹄が弟の足を逸れる。弟は倒れた男から手を離して後ろに飛びのいた。地面に横たわる哀れな運の悪い男の顔に浮かぶ表情が怒りから恐怖へ変わるのが見え、次の瞬間、その姿は見えなくなった。弟は後ろに押し流されて小道の入り口から運ばれ、なんとか元のところに戻ろうと流れに逆らって進んだ。

目を覆ったエルフィンストーン婦人、そして子供特有の共感的想像力の欠如でもって砂埃にまみれた何かを目を見開いて見つめる小さな子供が見えた。それは黒く身じろぎもせず、走る車輪の下で挽かれ砕かれていた。「引き返しましょう!」弟は叫び、ポニーに進む方向を変えさせようとした。「ここは渡れない――ひどい有様だ」そう言った後、争う人々が見えなくなるまで皆で来た道を百ヤードほど戻ったのだった。小道の曲がり角を通り過ぎる時にイボタノキの下の溝で死にかかっている男の顔が見えた。死人の白くやつれた顔は汗で光っていて、二人の女が押し黙ったまま座ってうずくまり、震えていた。

曲がり角を越えたところで再び弟は足を止めた。エルフィンストーン嬢の顔は蒼白で、彼女の義理の姉は座ってすすり泣いていた。あまりに打ちのめされて「ジョージ」と呼ぶ声さえ止んでいた。弟は恐怖に襲われとまどっていた。引き返してすぐに彼はこの交差点に挑む必要があること、それも緊急の必要があることに気がついた。彼は唐突に決然としてエルフィンストーン嬢に向き直った。

「私たちはこの道を行くほかありません」彼は言って再びポニーの進む方向を変えさせた。

この日、二度目の試みでは彼女は毅然としていた。人々の流れに割り込むために弟は往来へと飛び込んで辻馬車を引く馬を止め、その間に彼女はポニーに進む先を変えさせた。つかの間、荷馬車の車輪が止まり、二輪馬車から長い木片が剥がれ落ちる。次の瞬間には彼らは流れに乗って前方へと進んでいた。顔と手に辻馬車の御者の鞭の跡をつけた弟は急いで二輪馬車へと乗り込み、彼女から手綱を受け取った。

「もし煽ってくるようだったら」彼女に拳銃を手渡しながら弟は言った。「拳銃で後ろのやつを狙ってください。いや!――狙うのはあいつの馬だ」

次に彼は右へと少しずつ進んで街道を横切るチャンスを探し始めた。しかしいったん流れに乗ると決断力がまったく失われ、自分が埃まみれの群衆の一部へと変わったように思われた。彼らは流れに乗ったままチッピング・バーネットを通り抜けて流されていった。なんとか頑張って道の反対側へと横断できた時には街の中心から一マイル近く離れてしまっていた。言い表せないほどの騒動と混乱だったが、街の中へ入って枝分かれする道を何度か進むうちに多少はその勢いもおさまっていった。

彼らはハドレーを抜けて東へと進んで行き、街道のもう一方の側へと出た。そこには先の場所にも増して大勢の人々がいて小川で喉をうるおし、中には水場を巡って争っている者もいた。さらに進むとイースト・バーネットの近くの静かな場所から二台の列車が信号も合図もなくゆっくりと並んで走って来るのが見えた――列車は人間でいっぱいで、機関車の後ろの石炭車にまで人が乗っていた――グレート・ノーザン鉄道に沿って北へと進んでいる。ロンドン郊外で人を満載にしたのだろうと弟は思った。その頃には人々の怒りと恐怖で中央駅は使い物にならなくなっていたからだ。

そこからほどない場所で彼らは足を止めて午後の休憩をとることにした。昼の争いによって三人ともひどく疲れ果てていたのである。空腹も覚え始めていた。日が落ち始めて寒く、眠ろうとする者は誰もいなかった。日が暮れると弟たちが進む先にあるまだ知らぬ危機から逃げてきた大勢の人々が、弟たちの停まっている脇の街道を通り過ぎて弟たちのやって来た方向へと進んでいった。


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