統治二論, ジョン・ロック

解説


ジョン・ロックは英国西南部サマセット州のある村で一六三二年に生れた。父は州判事の書記役を務め、多少田地を持っていたが、内乱に際して騎兵大尉として議会軍に身を投じ、その為に大分財産を失った。だが息子の教育だけは終始怠らなかったので、ジョン・ロックは先ず初めにロンドン、ウェスミンスター学校に、後一六五二年にはオックスフォード大学に進学することが出来た。彼は同大学で恒久的研究生の恩典に浴し、その後三十年の久しきにわたり、その間しばしば不在したけれども、学徒としてそこに籍を置くことが出来た。初め彼は父の願い通りに教会に入ろうかとも思ったりしたが、転じて医学を修めた。そして自然科学に熱中して、一六六八年には当時創立されたばかりの英国自然科学学士院の一員に選ばれた。しかし、彼が医学のバチェラーの学位をとったのはようやく一六七四年のことで、ドクターの学位をとることは出来なかった。

ジョン・ロックが医学を修め、時々患者を診ていた際、たまたまアシュレイ卿、即ち後のシャフツベリー伯の一命を巧みな手術で救った機縁で、彼はオックスフォード大学に在籍したまま、伯の家庭の主治医、兼家庭教師、兼相談役ともなった。そして、シャフツベリーが一六七二年大法官に登用されるや、彼もその驥尾きびに附して、一時、宗教局長とか貿易局長とかいったような官職に就任した。しかし、伯が一時政界に失脚すると同時にロックはそれらの公職をやめ、南仏に衰えた健康を回復すべく四年間も保養旅行を試み、傍ら医学の研究を続けた。そうこうする内に他方、シャフツベリー伯は当時の政界において、ホイッグ党の総裁として、王弟ジェームズを旧教信者の故に、世継ぎのない国王チャールズ二世後の王位を継承すべき権利から除こうとする法案を議会に出して、トーリー党から烈しい反撃に出会ったので、ロックは伯の政治的危急を救わんとして一六七九年急遽英国に帰った。しかし、王党の攻撃が危険となったので、伯は遂にオランダに亡命し、ロックも側杖を食って身辺に危険を感じ、伯の跡を追った。それは一六八三年のことであった。しかしオランダでも当分の間は、本国政府からこちらの政府へ彼の身柄引渡しの要求がなされたりして、逮捕される危険から脱し得なかった。それ故、ロックは変名してオランダの都邑とゆうから都邑とゆうへと居所を移し歩き、友人や知人に会うにも人目を忍ばねばならなかったと言われる。こうして亡命中、彼はこの土地でイギリスの革命を計画している人々の仲に混ざって、政治に関心を持ち始め、彼の、『政治論』(編註:統治二論を指す)の前篇はこの頃既に脱稿しつつあったようである。五、六年にもわたる亡命中、とにかく、ものを書く余暇は出来、且つ、オランダの学者の多くと友誼を結ぶ機会も十分に与えられた。ロックが本国で革命が遂げられた翌年、即ち一六八九年に帰国の途に就くまでには、『政治論』の後篇も『悟性論』も完成されていたようである。

ジョン・ロックは新たに革命後の英国の王位に即くべきオランダのオレンジ公ウィリアムと同船で祖国に帰った。新政府は自由の為につくした彼の功労に報いるために、ドイツもしくはオーストリア駐在大使の地位を彼に申出たが、彼は自分の健康を考え、これを辞退した。そして、もっと低い貿易移民局長というような地位について満足していた。

ロックは英国に帰った時までは、未だ一つのまとまった著述を公刊していなかったが、既に五十七歳に達していた。しかし、多年の思索と蘊蓄うんちくのために、これからは種々な彼の著者が矢継ぎ早やに公けにされるに至った。信仰の自由を擁護し、宗教的迫害を攻撃する“Letters of Tolerance”が一六九〇―九二年に、『政治論』と『悟性論』とは一六九〇年に現れた。この時分から時々ロンドンを離れて、都の西北部のエセックス州にある、彼の一人の知己の邸宅に寄寓するようになり、ニュートンとの交友を得たのもこの時代であった。一六九三年には『教育論』が、一六九五年には『キリスト教の合理性』が公刊された。ロックはその他に経済方面の著述も公けにしている。

ジョン・ロックがオランダに亡命中、本国において一六八八年に起った無血革命は、十一世紀以来のノルマン王朝の正統な王位相続者であるところの、スチュアート王家のジェームズ二世、及びこの王が新しく儲けた幼い世継ぎまでも駆追して、傍系のオレンジ公ウィリアムをオランダから招き迎え、そして革命によって改まった新憲制の下にイギリスの王位に即かせたのである。その結果、ノルマン王朝従来の専制的君主政体は廃止され、王権は議会に従属せしめられ、従来国王が勝手な時と場所に召集、解散していた議会は毎年召集される建前となり、そして議会の協議なくしては課税も陸軍を作ることも不可能となり、司法も独立し、大臣達が従来国王に対してのみ負うていた責任は、これからは国民に対して負わしめられることとなり、初めて英国に責任内閣が誕生した。しかし、これらの革命工作は当時の人民党とも言うべきホイッグ党が国民の大多数の支持を得てやったことで、反対党のトーリー就中なかんずく、フランスへ亡命したジェームズ二世を擁護するジャコバイト派(ジェームズ派の意味)はこの革命を心よく思わないだけでなく、機会さえあらば新王ウィリアム三世を追い出して、再び正統王ジェームズを亡命先から呼び迎えようと、虎視眈々たるものがあった。そこで外国からひょっこり来て、英国の政情に一向に不案内のウィリアム三世は、従来英王直属の諮問機関に過ぎなかったものからやっと今日の内閣というものが出来かかっている当時の政局を眺めても、英国の政党政治が何のことやら分らず、技量を認めて重用したいと思う者は政党関係もしくは先王との腐れ縁のために王に近づかないし、側臣となった者も身を入れず、なんとなくそわそわしているので、玉座の居心地はあまり良くはなかった。しかし、革命後の政局不安定な当時の英国人としては、亡命した正統王はその幼い世継ぎと共に、欧州大陸に今を時めく大国フランスのルイ十四世の抜け目のない手厚い庇護の下に健在するので、毎朝宮廷に出仕するもののあの東の空を遥かに望むと世の中がいつどう変るかも知れないという不安を感じないわけには行かなかった。こうしてウィリアムは期待した程に英国人の挙国的な支持を受けることは出来ず、その不満と心細さは一通りではなかった。実は、彼が新教国オランダから喜んで新教強国イギリスに君臨すべくやって来た望みは、年来の宗教仇きで恨み重なる旧教フランスを相手に、あるいは洋上であるいは新植民地で、両新教国の連合艦隊を以て覇を争うて見ようとするところにあった。然るに、英国人はこの積極的政策に対しては予算その他の点で水臭い支持しか与えなかった。

それ故ウィリアム三世は全く失望して弱りきっていた。丁度その時ジェームズはフランスで病死したが、ルイ十四世はたまたま、この亡命王の淋しい臨終の床を慰めようとする気持からではあったろうが、同時に抜け目のない政治的野望から落ち目にある人にお為ごかしに、あなたを英国の正統王として承認しますぞと、かねて英国との約束で言ってはならないことをはっきり言ってしまった。仏王のこの言葉が英国人に知れ渡るや、ウィリアム三世に対する国民の態度が俄然一変した。フランスがジェームズを英国の正統王と認めることは、ウィリアムを簒奪王と宣言したこととなり、将来仏が英に事を構える余地を残すこととなり、英国は己が君主を外国から指図されて受け入れねばならぬ破目に陥るかも知れない。事ここに至っては、英国人も国家の名誉のために今までのように王位継承問題でぐらついては居られなくなった。今はもう、ジェームズ二世の忘れがたみで、将来英国のジェームズ三世となるか知れないと思われていた者を断然見限って、言わば背水の陣をしいてウィリアムを挙国的に支持しなければならなくなった。その結果議会は、王の要請をことごとに容れ、英国の対仏戦は華かに有利に展開されて行った。ウィリアム三世は一七〇二年に崩御したが、英国の対仏戦の目覚ましい勝利は一六八八年の革命の結果を泰山の安きに置くに至った。

ロックの『政治論』はこの革命を理論づけたものである。英国人は自由の為に革命を遂げたものの、正統な王やその継承権をもつ相続者を追い出したことに対して、何か合法的な根拠なくしては、一般国民は寝ざめが悪いとは言わなくとも、釈然としないものが残らざるを得なかった。そこで、ロックは政治社会の発生起源という根本理論から出発して、国民大多数の同意という原則の上にウィリアム三世の王権の合法性を認めようとした。かくの如く、彼の論文は当時の英国民の常識を味方とし、彼等の欲求していたものを与えたのだから、何人もこれを反駁する者も現れずに、国を挙げて大に歓迎された。実に、この『政治論』によって英国においては初めて、人間の平等、生活権、幸福追求の自由、そして私有財産権が理論的に確立され、英国人の専制君主政体から民主政体への発展の画期的第一歩は確実に踏み出された。本書が後世、世界的に大なる影響を与えた中にも、十八世紀後半のアメリカの革命と合衆国の誕生は概ねロックの『政治論』をそっくりそのまま採用して実行に移したものである。

本書の前篇(The First Treaty of Government)と後篇(The Second Treaty of Government)とは内容と目的との点で違っている。前篇はロバート・フィルマー卿の『パトリアーカ』の君主神権説を反駁してあますところなく、後篇は問題の政治権力の発生する根源をつき止め、それが人民の福利の為にのみ存在すると断じ、人民の政治的服従の義務の根拠を明かにし、要するに、ロックの政治論の主体をなしている。そして、彼の議論が此処で論敵として立てているものは最早『パトリアーカ』ではなくして、あらわにそうとは言っていないが、実はトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』である。ロックはこの先輩の政治論が前提としている諸点をことごとく拒否し、従って結論においてもことごとく先輩のそれとは異なったものを出している。元来ロバート卿の『パトリアーカ』は、ロックによって取り上げられ、あのように巨細に論駁されなければ、後世に忘れられてしまっただろうような、今日から見れば取るに足らない政治論である。それをしも、ロックの如き大哲学者が問題として、その反駁に彼の『政治論』の一半を費やし、しかも異色精彩に富み、世界的に有名となったホッブズの政治論を表面に論敵としてひっ提げて堂々と論駁しなかったことは一見不思議な現象である。しかし、ホッブズは十七世紀の王政復古後の英国人の鬼門に当っていた。彼は『リヴァイアサン』において、教会を全然国家に従属せしめ、宗教を君主の絶対支配下に置いた。また、彼はスチュアート王家の君主でもクロムウェルでも、現実に支配権を掌握している者誰にでも絶対支配権の資格を認めている。こういう思想を抱いたホッブズは王政復古後の英国人に鼻つまみにされ、一種のタブーと見做されていたのである。それ故、ロックは事実上、ホッブズの説を一々論駁して、それに答えておりながらも、ホッブズの名も『リヴァイアサン』の名も表面に出し得なかったのである。

前にも述べたように、ロックは当代の王党員の絶対君主権説もしくは君主神権説を打倒して、一六八八年の革命を正当化するという実際的な狙いがあった。それには、タブー扱いされていたホッブズの主張する絶対君主説と取り組むよりも、スチュアート王統の絶対君主権を擁護する当時の代表的論文として、相当一般に読まれ親しまれていた『パトリアーカ』を手玉に取る方が、遥かに有効であったのであろう。この論文の著者ロバート・フィルマー卿はチャールズ一世によってナイトの位に叙せられた王党員であった為に、内乱に際して彼の家屋敷は幾度びとなく議会軍の掠奪に遭い、さんざん憂き目を見て、クロムウェル時代に世を去った人である(一六五三年)。『パトリアーカ』は一六八〇年にようやく世に出たのだから、少なくともその三十年程前に書かれた遺稿がやっとチャールズ二世晩年の王党に利用されて刊行されたのである。王政復古後の反動時代の情勢の為に世人から相当に認められた著述であった。

ホッブズの場合の如く、ロバート卿も英国の内乱による社会秩序の混乱に悩み抜いた為、抑制なき自由の害悪を痛く怖れて、君主絶対支配権を擁護する『パトリアーカ』を書いたのである。「絶対君主権の下に支配されることは奴隷となることではない。善き君主の支配下にあるに優る結構な自由はない」、また、「主権に抑えつけられている人民の自由は、自由によって却って滅亡する」、「余は英国人が世界最大の自由を享有することを欲し、且つ既に享有していると信ずる。最大の自由とは人々が一人の君主の下に生活することである。他の一切の自由らしきものは、結局、奴隷制の諸段階に過ぎず、自由を破壊する自由である」、「多数派の圧制に比すべき圧制はない」、かような観点からロバート卿は、民主政治の欠陥と破綻とをギリシャ、ローマなどの歴史から例証しているが、彼が人間の政治社会は本来絶対君主制であるべきであるという理論を築き上げているその論拠は極めて空想的なもので、ホッブズの科学的且つ弁証的な態度に比べて大に見劣りがする。ロバート卿によれば、人間の自由説、即ち、「人は元来自由に生れ来り、自分達の好む政体を選ぶ自由を有し、支配権は最初民衆の自由裁量によって君主に授典された」という説は、中世スコラ哲学派神学が栄えて以来、僧侶、殊にローマ旧教の僧侶及び学者によって、世俗国家を弱体化する目的で唱道された。そして、それが新教徒の牧師達にも一般の民衆にも歓迎され、ジェネーヴァのキャルヴィン派も人民は君主が法を犯さば、彼を斥け得ると結論するようになった。しかし、これらの自由説は、人は自然の状態においては全く自由であったという誤った仮説から来ているので、この前提の間違っていることを指摘さえすれば、かような謬説はたちまち崩壊せざるを得ないだろう、と言ってロバート卿は、聖書の『創世紀』の記事に対する彼の独自の解釈で以て、右の前提を論駁しているのである。

即ち、神はアダムただ一人を自ら創った、そして他の人間はこの最初の人間によって生み出されたものであるから、アダムは父権によって彼の子孫の君主であると神に定められた。そして、長子相続権によって、アダムの後に続く家長(パトリアーク)が各自の父権によって自分の子孫の君主であり、しかも生殺与奪権をもつ絶対支配者であった、そして父による家族の絶対支配権が、すべて世界に存する支配の源をなす原型で、世の君主はいずれも何等かの方法でこの父権を人民に対して掌握しているというのである。ロバート卿はこのように巨大な父権の論拠として、『創世紀』第一章二十八―九節における神の言葉を、神がアダムに全世界の絶対主権を授与したのだと解釈し、また同じく第九章一―三節においてノアに言われた神の言葉は、アダムの絶対父権がノアによって相続されたことを意味する、と独断を下している。また、父が子供達を、夫が妻を支配すべき権力をもつことは、十戒の『汝ら父を敬え』(『出エジプト記』第二〇章一二節)、及びエバに言われた神の言葉『汝は夫をしたい彼は汝を治めん』(『創世紀』第三章一六節)において啓示されていると言っている。また、家長(パトリアーク)は聖書において、人を裁いたり罰したり、戦争を起したり平和を結んだりする権利を行使している如く書かれていると主張している。ロバート卿はこのようなたわいもない論拠から、子供らは父親に隷属する運命から解放されないと断じ、且つ、この子供の隷属が世のすべての王権の源泉であり、王たる者は皆、実際上、その民族の父であるか、それに相当する者か、それとして認められている者か、もしくは征服によって父権を相続した者であると言っている。そして、征服や簒奪の場合は、神が人間の不正行為を利用して、神の正しい裁きや命令を実行するのであって、われわれの眼に不正な主権獲得と見えても、それは神の秘密な意志である。それ故、世界の一切の国家で現実に支配権をもつ君主は人民の至高の父であり、その支配権は至高の父たる唯一の権利であり、且つ、自然の理法に基づく権威であって、世界の終末までも続くものであると。尚、ロバート卿は、実際に親が子供に対し絶対支配権を振っていた歴史上の事実を引用し、ペルシャ人、ゴール人、西印度人等を挙げ、就中なかんずくローマ人が、彼等の最も民主的な時代においてさえも、子供に対しては生殺権を有し、子供を売ることも出来、子供には何等の所有権もなく、子供の所得は父の所有に帰したことなどを特筆大書している。

ロックは彼の『政治論』前篇において、ロバート卿の絶対君主権説の論拠である「アダムは全世界を私有する支配権を神から与えられ、従ってすべての子孫及び地上のすべての禽獣に対し主権を授与された」という説を全面的に論駁している。ロックは先ず聖書の文句を再吟味して、神はアダムに全世界の私有的支配権などを決して授与していないと答え、且つ、自然の理法に照らしてロバート卿の主張の誤れることを摘発している。即ち人間には神によって植え付けられた自己保存の本能がある。人間という驚異すべき傑作を創造した神は、この愛すべき人間がその怠慢もしくは物資の不足からもろく夭折しないようにと、衣食その他の必需品を豊富に地上に供給し、その中から自分の生存に役立つものを自由に取って用いるように、人間に感覚と本能との外に分別と理性とを与えた。従って、人間はわざわざ神の授与の言葉が無くとも、それ以前から地上の禽獣を勝手に捕えて利用する資格を備えていた。ひとたび人間がこの世に生れるや、生活権を神から与えられているのだ。神が自己の生命、生存を維持せんとする強い欲望を人間行動の原理として人間に植え付けたのが、その何よりの証拠である。従って人間が自己の生命を維持する為に神から恵まれた天性の傾向、即ち本能の命令に従うことは、同時に神の意志に従うことであると、人間の理性が教えている。それ故、人間は当然、分別、理性が生存維持に役立つと教えるところの、地上に無尽蔵に生息する禽獣を捕えて利用する権利をもっている。かように、地上の禽獣に対する人間の所有権は、人間生存に必要なものを勝手に利用する権利に基づいているのである。アダムの所有権の根拠も以上と同じもので、同様に彼のすべての子供らにも、父の存命中から既に同じ資格が与えられ、従って、アダムや彼の長男だけが弟らに対して特権をもっているわけでなく、弟らにもこの地上の禽獣を生活の糧として利用する同等の権利にあずからしめないわけには行かぬ。それ故、アダムの「私有的支配権」というものはロバート卿の単なる空想に過ぎず、すべての人がアダムと同じ資格、即ち自己保存の権利をもつことによって、地上の物資に対する所有権、利用権をもっていたのである。

次に、仮にアダムが全世界の個人的支配権を授与されたとしても、土地所有権から他人一切を支配する主権、即ち、他人の生命を支配する権利は決して発生し得ないとロックは説く。もし、全地球を所有する者は他人に衣食を拒否し得るから主権が生じたのだ、とロバート卿が言うならば、それは却って、神がアダムにかような所有権を与えていないという反証となる。何故ならば、『生めよ、殖せよ』と人類の繁栄を望んでいる神が人間の生活生存を、絶対権という危険極まる支配権をもつただ一人の独裁者の意志や好意に依存せしめる筈がないからである。すべての人類の父である神は、ある一人の人間にこの地上の物資の一部分の独占権を与えても、貧しい彼の同胞隣人が生きて行く為に必要とする場合には、彼等がその独占者のもつ過剰物資にあずかる権利を拒むことを許さない。それ故、いかなる人間も土地財産の所有権によって他人の生命を支配する正当な権利はないと。

ロックは言う、「正義は万人が自分らの勤労によって得た生産物や、親から相続した正当な財産に対する所有権の保持を認めるが、他方、仁愛は他に生活の道がなく餓死に迫る人々には、自分らの困窮を救うために、ありあまって持てる人から必需品の恵与を要請する権利を与えている」と。

ロバート卿はアダムの主権の論拠の一つとして、「アダムは子供の父親たることによって、天与の絶対支配権をもつ。すべて生を享けた人間は親から生れるという事実そのものによって親に隷属する。人間はそれ程に自由とは縁のない者だ」と言っている。しかしロパート卿はなぜ父親たることからそのような大きな権利が生ずるかをはっきり述べていない。恐らくそれは、親が子供を生んだから、即ち子供を作ったから、子供に生命を与えたからだと言うのだろう。これ以外にその理由は誰にも考えられない。そこでロックはそういう根拠自身が誤っていることを指摘する。即ち、親は子供を生むけれど、実は神がすべての人間を作るのだ。子供の小指一本でも人間の作ったものでなく、神の創造である。言わんや、子供に生命と魂とを与えた者は神以外には無い。且つ、世間の父親の千人中幾人が子供を儲けようとして夫婦の交りをするか? 神は最初アダムを作った如く、今日でもすべての人間を創造しているのだと。

ロックはロバート卿の帝王神権説の根拠であるところのアダムの絶対父権説を以上の如く論破し、それで以て彼の所説の全部が崩壊したと見做して、直ちに『政治論』の後篇において一六八八年の革命を正当化するという本論に入る。そして、前にも述べたように、この後篇の狙いは先輩ホッブズの『リヴァイアサン』に現れた政治論の論駁である。

十七世紀英国思想における最も重大な論争は二つの相容れない世界観を調和させる問題であったと言われる。真理の二大系が十七世紀の英国人の意識に存在し、その一つは彼等の崇拝せざるを得なかったキリスト教、即ち聖書の言葉によって代表され、他は彼等の承認せざるを得なかった新興科学によって代表されていた。

ホッブズは科学の先覚者で、一六三六年にフローレンスでガレリオにも会っているし、彼の頭には当時の欧州大陸の学界に新しく生じていた機械的世界観が深く根ざしていた。即ち、運動モーションが宇宙の唯一の実在で、他の一切のものは、われわれの感覚も意識もすべて非実在的なもの、即ちファンシイで、脳髄の所産に過ぎないと考えるところの機械説である。ホッブズにとって、存在する万物の全集団たるわれわれの宇宙は物体的なもので、その物体のあらゆる部分が同じく物体である。それ故、宇宙のあらゆる部分は物体で、物体でないものは宇宙の部分でなく、宇宙の部分でないものは無である。彼は肉体と分離出来る非物体的なソウルの存在を否定する。彼はソウルをただ人間の生命であると考えた。肉体の死はその人間の死であると考えた。彼は政治社会を論ずるに先立って、人間とは何ぞやの問題から出発する。そして、感覚、意識、想像、その他夢の現象などまでも物体の機械的運動として説明し、迷信は言うまでもなく宗教をも唯物的に説明し去っている。そのような彼の態度から推して、ホッブズは深い意味の宗教を信じていなかったとしか思えない。それにも拘らず、彼はキリスト教を否定したり聖書を無視することは出来なかった。彼は先ず人間を説明し、自然の状態から政治社会の出来上る過程及び社会の組織内容を説き、次に「われわれの社会はキリスト教社会である」と告白して、ようやく彼の政治論の本論に入るのである。そして、キリスト教社会の本質、機能、権利を説くに当って、その多くは聖書に啓示された神の意志に依存する故、キリスト教社会論の論拠は自然の理法のみならず、預言者の言葉(聖書における)でなければならぬとことわっている。そして、聖書からの念入りな博引旁証で彼の議論を固めている。

前述の如く、ホッブズは人間を外面的物体から常に働きかけられる個人として考え、人間の頭の中で抱かれる如何なる概念も、最初は感覚器官において生ぜしめられたと説いている。いろいろな外面的運動がわれわれ人間にいろいろな運動を生ぜしめる。そして、現実にはそれ以外に何物もない。しかし、この運動はわれわれにはある特種な感覚意識として現われ、こんどは外界に対して反動を起す。即ち、引つけられるか反発されるかである。快もしくは不快、欲望もしくは憎悪である。ホッブズは人間をこういう風に見て来て、遂に人間の全感情的並びに行動的性質は利己主義で終始一貫するものと断じている。かように利己的な個人たちが好ましきものを争奪し合う状態から、道徳と社会秩序が如何にして発生したか? ホッブズによれば、自然の状態における人生の競争には何等の規則もない。彼は最強者が常に支配するというルールさえ認めていない。最強者はしばしば最も弱小な者にさえ暗殺されることがあるからである。彼はかように人間の能力に大差を認めない。自然の状態において人は自己保存、利得、名誉のために何物でも欲する権利を、そしてあらゆる欲しい物を取る権利を平等に有し、相互の肉体をも取る権利をもつ。かように人間の自然の姿は戦争で、人は各々の隣人の敵であるように本来出来ている。ホッブズがこのように暗澹たる自然の状態の人間を、手品師の如く見事に一撃に社会秩序へと導き入れる手段が社会契約という仮説である。自然の状態では人生は危険且つ悲惨である。けれど人間はその状態を改善出来ない。しかしながら、この状態から脱することは出来る。それは自然の理法が人間をして平和を求めしめるからである。人々は他人もそうするならば、自分はすべての物を自由に取る権利を投げ出してもよいと考えるようになった。他人も自然の理法を犯さずにやって行こうとするなら、自分もそうしてよいが、自分だけが自然の理法を守るのはいやだと、ホッブズの考える自然の状態の人間は言うのである。そこで契約という行為が必要となってくる。そして、契約は強制力を要する。相互信頼の協定は誰の側においても、それに違背する場合は、その違反者がきびしく罰せられる恐怖が無くしては無効である。ホッブズは内乱によってひどい混乱に陥った英国を見た反動で、この必須なる共同的制裁力を、同時に強力なものに仕上げることの必要を痛感したのであろう。彼は有効な制裁力を創造する唯一の方法は、すべての人が自分の所有する自然の状態における自由の権利を唯一人の人もしくは唯一つの集団に投げ出して譲渡し、かくして多数の個人の権利を一身に結集させた巨大な支配者を存在せしめるにあると考えた。ホッブズはこの、さながら神の如き威力をもった支配者を『リヴァイアサン』と呼んでいる。この威力こそ契約で以てその社会の成員となったすべての人々をして自然の理法を遵奉せしめ、彼等を平和に導くに足るものである。かようにして、多数の人々が唯一人もしくは一集団の支配者に結合統一されて社会、国家を作ると、平和と安全に関する一切の事柄において、支配者の行為を自分らの行為として承認しなければならない。世の主権はかくして発生したか、もしくは、戦争で征服された人々が助命の代金として、このような絶対主権の下に支配されることを甘んずる場合に発生するとホッブズは言っている。いずれにせよ、ひとたび人々が各自の自由の権利を投げ出して主権者を立てた以上、人民はその後になって新しい契約を相互の間に作って、新しい別な人の支配下に服そうとする自由をもたぬ。他方、主権者は何等の約束にも縛られていない、且つ、何等の法律にも拘束されない。なんとならば、この主権はただ人民相互の間の契約で一人の人に与えられ、この人と人民の中の誰との間にも何等の契約は交わされていないから、主権者側は何をしても契約を破るということは生じない。従って、人民は誰も主権者の協定違反を言い立てて、彼への隷属から免れようとすることは出来ない。そのわけは、主権者が人民と前もってなにごとかを契約したとすれば、それは人民すべてを一団として相手方に廻わしたのか、もしくは、人民一人一人を相手として結んだかのどちらかでなければならぬ。然るに、人民が一つの統一体となることは主権者が出て初めて実現したことだから、その時までは彼等はまだ自然の状態のばらばらであった。また、主権者となる人が人民の一人一人と別々に契約を結んだとしても、彼がひとたび主権を握れば、そんな契約な無効となる。なんとならば、主権者の違背行為と言われるものは彼及び人民すべての人々の名でなされたものだからである。人民は各自の一切の権力や力量を、また意志をも、主権者唯一人の手に集結させたのだから、主権者は人民すべての代表者である。彼のあらゆる行為は人民すべての行為である。そのわけは、それは人民すべての者の資格でなされたからである。かくの如くホッブズは、君主は王権を契約によって得た、即ち、特定の条件の下に得たとなす説を頭から斥けて、その説を次の平易な真理に対する無知から生じた誤謬だと言っている。即ち、契約は単に言葉や気息に過ぎない。契約はその国家の威力を借ることなくしては、誰人をも強制したり、義務で縛る力をもたぬ。そして、国家の威力を掌中に握る主権者が、正直にそのような自縄自縛をすることを、期待する人はおめでたい人である。ホッブズはどこまでも人の性は悪なりと考えている。

ホッブズは聖書のいろいろな箇所から旁証しながら、以上述べて来たような社会契約によって立てられた絶対君主の王権を、下の如く列挙している。人民の絶対服従、君主の絶対権力、立法権、兵馬の統率権、君主の必要と思うままに徴税する権利、法律を超越する特権などである。そして、君主はただ神の人民である故、神の法則、即ち、自然の理法を守ることを要望されるのみである。それ以外は自由である。ダビデがウリアを殺したことは、ウリアに対して害悪を加えたことにはならない。王は何をしても構わぬという権利が、ウリア自身によって王に授与されていたからである。しかし、ダビデはウリアを殺したことによって、神を傷つけたことにはなる。聖書もダビデのこの行為が神に不快を与えたということと、彼が神に対して罪を犯したと告白すること以外に、ウリアに対する彼の罪の意識を何等表現していない(『サムエル後書』第一一章二七節、第一二章一三節参照)。

以上まで述べてきたホッブズの政治論を要約すれば、人間生活が自然の状態にあっては、人各々は絶対自由行動の権利をもち、無政府且つ戦争状態にある。この不便且つ悲惨な状態を避け、道徳と政治社会的秩序とを作り出すことは、絶対自由を抑制し、自然の理法に服従することによってのみ可能である。そこで人々は全く不安な戦争状態をつづけるか、絶対専制君主権の支配に服するか、いずれか一方を選ばねばならぬ立場に立った。その結果、当然人間の理性は後者を選び、かくして人々は君主政体を作った。この政治社会で人々が服従し、指導される戒律は自然の理法である。しかし、自然の理法は絶対主権力の存在しない社会では空虚な言葉だけのものに過ぎないから、人々は絶対支配に甘んじたのである。そして、人民は世俗のこと、信仰上のこと、万事に主権者に服従する義務をもち、その服従の程度は神の法律、即ち自然の理法に違反しない限度においてである。ホッブズのこれらの見解と主張とは、もうそれで充分に政治論を仕上げてしまっている如く見えるので、これ以上彼が政治論を追究する必要がないようであるが、彼の政治社会はキリスト教国家であると宣言している。そして、更に進んでキリスト教国家の本質及び権利と義務、教会の権限及びその国家に対する従属関係、「神の国」の意義及びそれと世俗君主国家との関係、世俗主権者の神権説等々の諸問題に対する見解を詳述している。

ロックも政治権力のって生じた源を探るために、人間が自然の状態においてはどんな立場にあったかを考察している。ロックは先ず人間が理性的動物である点を強調し、自然の状態にある人間が、ホッブズの言うように、戦争状態にあったとは言わない。ホッブズの考える人間自然の状態にあっては、自然の理法も平和も君臨していなかった。それに反してロックは、ホッブズ同様に自己保存の本能が人間に深く根ざしていることを認めながら、この本能こそ人間に、人は自然の理法を相互に守らずには自己保存を全うし得ないことを教えると主張している。それ故、人間は自然の状態にあっても、その後の政治社会においてのように、一般に自然の理法に概ね服従していた、とロックは考えている。そして、この理法こそ人に平等ということを教える。ロックは人の天賦の才能、勤怠、強弱などの点で若干の差別を認めるが、丁度、神の作った他の動物でも同じ種の生き物が無差別に同じ利益すべてを享有し、同じ能力を行使するように、人間もすべて神によって人間としての能力も権力も欲望も感情も平等に作られていることは理性が明かに人に示す、と主張している。そして、ロックはこの人間の平等という基礎の上に人間の生活権、自由独立、私有財産権を確立している。生活権は自己保存の本能の命ずる所であり、そして神の意志である。自由とは人が自然理法を守る限り、気ままに行動し、決して他人の意志に依存せず、独立の立場にあることである。未だ所有者の無い土地と天然の物資が無尽蔵に存在していた時、即ち全世界が十七世紀の「アメリカのようであった」時、人々各自は自由に己れの労働を加えた物を己れの私有財産として所有した。かように、あらゆる権力を互恵的に持ち合い、誰人も他人よりそういう権利をより多くもつことはなかった。ロックは、また、人間平等の基礎の上に相互愛の義務を置いている。平等であるものは同じ尺度ではからねばならぬ。それ故、自分の厭なことは他人も厭だから、他人からそうされたくないことは、他人へもそうしない。他人からそうされたいことは、自分から進んでそうすべきであるという自然の理法が、人間自然の状態において既に人によって理解されていたと。

然らば、人間は何故にこのように自由の状態から、わざわざ、支配と拘束とに隷属するような社会や国家を作ったか? ロックはそれに答えて下の如く言っている。即ち、自然の状態の時に自然の理法は今日同様人々の間に有効に生きていたが、必ずしもよくは守られていなかった。人々は自然の状態にあっては、各自が自分たちの行為の正邪の判定者且つ処罰者であったのだから、公平に自然理法を解釈し適用することは困薙であった。どうしても利害や自愛から、自分らの事件を自分らに都合よく裁決するという不便があった。そこで、自然の理法をもっと厳格に正当に執行するために、ある特定の人に裁判権と処罰権を委任しようと欲し、かような社会契約によって政治社会が成立った。しかし、この社会は人々から自然の状態の時の自由を奪い去るものでなく、むしろその自由をより善き自由とするに過ぎなかった。何となれば、社会がつくる法律は自然の理法をただ成文法にしたに過ぎないからである。ラスキイ教授の言葉を借りて言えば、今日道を歩く人がある一定の道路交通法を守りさえすれば、他はいくら自由な仕方で歩いても安全を保障されると同様に、社会に制定される成文法は自由を束縛するというよりも、むしろ自由を実現すると言うのである。法律は自然理法に照らして一目瞭然に当然なことと理解される文句であって、それに抵触しない限り、如何に気まま勝手に振舞っても、事を企てても、自由であるところの特定の条件を示すのに過ぎないからであると。

以上の如く、ロックによれば、社会は個人の一人一人がもっていた裁判権と処罰権を信託の形式で譲り受けた時に発生する。そして、社会は人々の安全と私有財産とを護るために立法し、且つ、その法律を執行しなければならぬ。かようにして立法部と行政部とが出来るが、それらのもつ権力は有限で、且つ、人民に対して相互的義務をもつ。立法部及び行政部は社会の福祉の目的のために、もっと的確に言えば、人民の私有財産をよく護るために、立法、行政する権力を人民から与えられたのである。それ故、立法部も行政部も信託を裏切る如き振舞をすれば、彼等の権力は取戻され、あるいは更迭させられる。人民は立法権や行政権を政治社会に与えたといえども、それはホッブズの言う如く、全く彼等の自由を投げ出し隷属を甘受したのではない。ロックは初めて政治社会を作った人々が社会の絶対支配を甘受した筈がないことを、自然理法から説いている。即ち他人の気まぐれな意志に屈服しない自由は人間保存のために必須条件である。人はこの自由を手放せば、己れの保存と生命を失うことなる。人は元来勝手に自分の生命を処分することを許されない。従って、人は契約を結んで自分を他人の奴隷となし、気ままに自分の生命を奪い得るような専制的な他人の権力に身を委ねることを許されない。ロックはかように自然理法から、ホッブズの唱える絶対君主権を否定し、且つ、専制君主政体の社会は依然として自然の状態にあると断じている。国家の成員たる人々は、元来、自分らの間の争議を自分らに代って公平に解決し、自分らの誰にでも加えられる危害を救済すべき権限を与えられた裁判官を設けることによって、自然の状態から脱し、政治社会に入ったのである。然るに立法並びに行政の両権を一手に握っているような専制君主政体の下には、公平にして、無差別な、権威ある裁判官は存在しない。そして、また、この専制君主及び彼の命令執行者によって人民が蒙る損害や不便を救済除去することは期待されない。要するに、専制君主下の社会では公平な訴え所が存在しないから、自然の状態に等しいと言うのである。

次に多数派の決定権、指導権がロックによって強調されている。人は元来自然の状態においてすべて自由、平等、独立であるから、何人も彼自身の同意なくば、この境界から引張り出されて政治権力に服従させられることはない。しかし、ひとたび人々が共同社会もしくは国家を作ることに同意するや、即座に結合して国家形態を形成する。この共同社会は一の団体として統一された行動をとらねばならぬが、統一された行動はただ大多数の意志と決意とによってのみ、可能である。従って大多数の者どもがその他の者ども、即ち少数派を引張って行く。ロックはかように、人々がひとたび社会を作ることに同意すると、彼等に大多数の決定に服し、それに従う義務が生ずるのだとしている。

そして、ロックによれば、大多数が立法権を握って、彼等自身が任命した役人にその命令、法律を執行させる場合が完全な民主政である。単独の一人の手に、もしくは一団の人々の手に立法権が委ねられた場合が君主政体もしくは貴族政体その他の寡頭政治である。ロックは飽くまで立法権を国家最高の権力と見做し、そして、この権力をどこまでも共同社会そのものの掌中に保持せしめようとしている。立法部が選ばれて仕事を続けている間は立法権はそこに信託されているが、ひとたびそれが解散もしくは更迭されることとなるや、その権力は再び社会の手に帰し、社会は必要に応じて新しく立法部を任命し得る。また、ロックは立法権と行政権との分離を好ましきものとなすが、必ずしも君主政体の廃止を主張するものではない。行政部即ち政府の形体内容は本来人民の選択、制定に依ると考えられ、それは大体立法権の配置の工合で決定するだろう。行政部は明かに立法部に従属するからである。また、ホッブズは行政府の形体はその性格の点においては恒久的だと論じているが、ロックは立法という最高権を握る社会は臨時に政府の性格を変更も出来、もしくはそれを一定不変のものに制定することも出来ると考えている。また、ホッブズは君主政体を最善のものと言うが、ロックはそれを否定し、君主制はしばしば君主が守るべき契約を裏切る如き劣小君主の手に陥って堕落する欠陥があることを指摘している。貴族政治の如き寡頭政体も自分らの階級の利害のみを図り社会全体の優越的利害を顧みない弊があるとされている。結局、民主政体、即ち、国民から選挙され、選挙民に責任をもつところの代表者の手に委ねられた民主政治が恒久的、最善の政治を十分に保証すると言われている。かように、ロックが理論的に最善の政体であると言うところの民主政体は、イギリスにおいてそれから二百年の遠き将来にようやく完全に実現する運命となる程に、当時の君主専制を廃止したばかりの英国人にとっては、縁遠いものであった。ロックは共和政体に対しては、どちらかと言えば、最近のクロムウェルの共和政治に懲りて、大統領の地位の不安定などの危懼きくを抱いている。ロックの『政治論』の目的が君主神権説を打倒するにあったのだから、彼は君主から立法権をもぎとり、且つ、その世襲的王位継承が国民の同意に基づくと認められる限りにおいて、君主政体で満足していた。そしてそれが当時の一般英国人の常識であったのである。

ロックの政治社会の目的は、前にも述べたように、国民の私有財産の安全保護にあった。それ故、国民の精神生活に関する宗教及び教会などの問題は、彼の考えている政治社会の立法部や行政部の仕事には属していないと見做されていた如くである。ホッブズが『リヴァイアサン』においてあれ程に問題とした教会と国家との関係については、ロックは彼の『政治論』では一言も触れていない。ロックが彼の他の著述において、宗教や信仰の問題に対して、当代を超越した自由寛容な思想を唱えている点から観れば、信仰の間題は国家政治の仕事から分離独立され、人民個人個人の自由に任ずべきものと考えられていた如くである。

以上、ロックの『政治論』に現れる諸思想は、概ね、彼自身の創意ではなく、ギリシャ以来の先人によって、部分的に既に説かれたものであると言われるが、彼は少なくとも英国人として初めて、教会を主に国家を従に考える中世的因襲から脱し、そして従来とかく宗教的圧制に対する反抗を正当化し、政治的圧制に対しては割合に無関心で、単に世俗的なそれだけのことが君主へ反抗する充分の理由とはならないと考えるような偏見を棄て、逆に政治的圧制こそ人民の反抗の根本的正当な理由であると見做して、中世以来の伝統を破り、教会の問題を彼の政治論から全く遊離させた態度に大きな意義が見出されよう。実にロックは将来の新しい政治論の発展に自由な道を開いた。

最後に、ロックの『政治論』が十八世紀後のイギリスに発展する政治の自由思想の揺籃となり、そしてまた、アメリカやフランスの革命の温床ともなったことは周知の通りであるが、本書がアメリカの独立を指導した重要人物達に読まれていた事実について一言しておきたい。アメリカの革命が主にヴァージニアの人達の手で成し遂げられたことは注目に値すると思う。元来、あの地域は北方のニュー・イングランドとは違って、本国の政府や教会に反抗した結果でなく、ただ新天地で富を作るために植民した人々によって早くから開拓された。彼等は十八世紀には本国の郷土紳士カントリー・ジェントルマンのような生活をなしており、次男坊以下で覇気ある者がヴァージニアの東部へ新しい土地を求めて、そこでいわゆる辺境開拓者となった。ワシントン、ジェファーソン、マディソンなどはそういう人達の息子だった。彼等の教育は当時人口の割には極めて多数存在していた牧師などから家庭や牧師学校で充分に施され、その上、本国のあの革命後間もなく創設されたウィリアム・アンド・メリー大学あるいはまたプリンストン大学に進んで高い教養をつけた。そして、それらの青年が政治や社会について学ぶ時、ロックもしくは、アルジャーノン・シドニーの『政治論』が必読書となっていたようである。それ故、ジェファーソンが起草した独立宣言書が、その精神は無論のこと、その用語まで徹頭徹尾ロック流であることは、なるほどもっともなことと頷かれよう。また、ニューヨークのキングス・カレッジ(コロンビア大学の前身)で学んだことのある、初代財務長官だったハミルトンが、独立の精神の民主主義に反して、合衆国の舵を貴族的共和政体、そしてイギリス風の重商主義を目指して取るべきだと説いたりした時の、彼の政治哲学の言葉の中に、ホッブズの『リヴァイアサン』の影響が明かに見られるのは興味深いことである。その他、ヴァージニアなどの南部が最も早く国家と教会の分離や国教の廃止を実現したり、合衆国憲政が本国のそれとは違って、立法行政の分離を綿密に行ったり、アメリカが民主自由主義の一本道をまっすぐに進み得たのはロックの『政治論』に負うところ大なるものがあると言えよう。