統治二論 前篇 ロバート・フィルマー卿の誤れる原理及び根拠の摘発並びに打倒, ジョン・ロック

第十章 アダムの絶対君主権の相続人について


一〇四 われわれの著者は『覚書』二五三において言う。「その大小を問わず、また世界のどんな遠隔の地から集ったものであろうと、人が集団をなしているところには、それだけを取ってみると、その中には、アダムの直接の相続人として、生まれつき他の者に王たる権利を持つ者が必ず一人はいることは疑い得ない真理である。これは、すべての者が生まれつき王か臣民かのいずれかであることによる」と。また、『パトリアーカ』一七頁において、「もし、アダムがまだ生きていて今将に死なんとしていると仮定すれば、彼の最も近い相続人は世界に一人居り、唯一人に限ることは確かである」と。われわれの著者の許しを得て、この「人の集団」を地球上の全王者と考えてみよう。われわれの著者自身の法則によって、「その中には、アダムの正当の相続人として、生まれつき他の者の上に王たる権利を持つ者が一人居る」わけである。これは、現在君臨している王に対して、われわれの著者の根拠によれば、彼の資格にすこしも劣らぬ資格を持つ者を百も、恐らく千(これを世界の王者の数とみて)もの王位要求の有資格者を立てて、それによって君主の資格を確立し、臣民の服従を不動たらしめようとするには結構(反語)な手段だ。この「相続人」の権利な

るものが、多少とも権威あるものであるならば、あるいは、われわれの著者の言うように「神の命じるところ」であるならば、最も高い者から最も低い者に至るまで、すべての人がこれに従わねばならぬのではないか。「アダムの相続人」たる権利を持たずに、君主の名前を帯びる者は、「相続人」の資格によって、臣民から服従を要求することは出来るのか。かえって、この資格を持った者に服従を捧げる義務を負っているのではないか。支配権は、アダムの相続人という資格によって主張され維持されるものではなく、従って、アダムの相続人たるか否かは、支配権に関しては何の意味も持たぬから、こんな資格を創立しても無益であると考えるか、それとも、アダムの相続人たることが、われわれの著者の言うように支配権君主権の真の資格ならば、先ずなすべきことは、このアダムの真の相続人を見つけ、これを王位に即かせ、世界のすべての王侯をして、自分らの臣民の中の誰の所有物でないと同様、自分の所有物でもない王冠、王笏を彼に献上させることであると考えるかいすれかを取らねばならぬ。

一〇五 アダムの相続人が全人類(全人類で一つの集団をなすから)の王であるというこの自然に基づく権利は、正当な王たるに必要な権利ではなく、従って、この権利を持たずとも正当な王たり得るし、王の資格も権力もこれによっているのではないと考えるか、さもなくば、一人を除いて世界中の王はすべて正当な王ではなく、従って服従を要求する権利を持っていないと考えるか、いずれかを取らねばならぬ。アダムの相続人たることは、よって以って王が王位を維持し、臣民に服従を要求する資格であり、従って、唯一人の者がこれを所有することが出来、他の者は皆臣民であり、自分の同輩から服従を要求することは出来ぬと考えるか、さもなければ、アダムの相続人たることは、よって以って王が支配を振い、臣民から服従を受ける権利ではなく、従って、この権利がなくとも王は王であると考えるかいずれかを取らねばならぬ。いずれにしても、このアダムの相続人が持つ空想のような天賦の君主権は、服従や支配には何の役にも立たない。もし、王がアダムの相続人でもなく、そうでもあり得ないにも拘らず、臣民を支配し、その服従を受ける権利を持っているならば、臣民はこの資格に関係なく服従しなければならぬのであるから、この資格は無用となる。もし、アダムの相続人でない王は主権を要求する権利を持たないとすれば、命令権を持たぬそのような王に誰も服従する義務はなく、われわれの著者かあるいは彼に代って誰かがアダムの正当の相続人を示してくれるまでは、われわれは誰も皆自由である。もし、アダムに一人の相続人しか居ないならば、世界に正当な王は一人しか居らず、その王が誰であるかが定まるまでは、誰も心から服従する義務を持つということはあり得ぬ。分家の者たることがわかっている者以外ならば、誰でもアダムの相続人たり得るし、すべての者がこれに対し同等の資格を持っているからである。また、もし、アダムに一人以上の相続人があるとするならば、人は誰でもアダムの相続人であり、従って、また、王の権利をも持ち得る。二人の息子が同時に相続人たり得るならば、すべての息子は同等に相続人であり、従って、すべての人はアダムの子であるか、子の子であるから、皆相続人である。相続人の権利は以上の二つの場合の中間にはあり得ない。この権利により、唯一人の者が王であるか、すべての者が王であるか二者のいずれかであり、いずれを取っても、われわれは支配、服従の絆から解放される。すべての者が相続人ならば、誰にも服従を捧げる義務はないし、唯一の者が相続人ならば、それが誰であるかがわかりその資格がはっきりする迄は誰も服従を捧げる義務はない。