統治二論 前篇 ロバート・フィルマー卿の誤れる原理及び根拠の摘発並びに打倒, ジョン・ロック

第九章 アダムを相続して得られる絶対君主


八一 支配権存在の必要がいかに明瞭であろうと、否、すべての人がわれわれの著者同様、支配権は神によって「君主的」たるべく定められているという意見であっても、命令権を持たぬ者への服従ということはあり得ないし、また、単に空想で描かれた支配権は、どんなに完全で正しくても、人の行為を規定したり、これに命令を与えたりすることは出来ぬから、この権力を所有し、これを他に行使する者を見分ける方法が示されない限り、これを生きた人間の間に行使して、秩序を保ち、政治を確立する役に立たせることは出来ないであろう。服従の対象を示さずに、服従を云々するのは無駄である。支配権が行使さるべきことはよくわかっていても、服従を要求する者が誰であるかがわからなければ、人は自由である。支配権を持つ者と持たざる者を区別するしるしがない限り支配権を持つ者は誰であってもよい。私であってもよいのである。従って、支配者への服従は、万人の義務であるが、服従とは、要するに、命令権を持つ者の命令及び法律に服従する意味に他ならぬのであるから、ただ「王権」というものが存在するというだけでは、人を納得させ臣民とすることは出来ぬ。誰がこの王権の正当な所有者であるかを定め、知る方法がなければならぬ。誰が自分に権力を振う資格を持つかがよくわからなければ、この権力の如何に拘らず、これに心から従う義務を感ずるわけにはゆかぬ。もし、そうでないならば、海賊と正当な君主との区別はなくなる。腕力を持つ者は、文句を言わせず、服従を強要し、王冠と王笏はただ暴力と掠奪の相続物となるであろう。臣民は自分を支配する資格を持ち、自分がその指図に従う義務がある人間が誰であるかがわからなければ、主治医をかえるように平気で度々支配者をかえることになろう。従って、良心に服従の義務を納得させるには、ただ、どこかに権力が存在していることを知らせるだけでなく、誰が正当の権利を以ってこれを振う者であるかを知らせる必要がある。

八二 われわれの著者がアダムの「絶対君主的権力」を築くにどの程度成功したかは、上に述べたところによって、読者が判断することが出来ると思う。しかし、この「絶対君主権」が、われわれの著者の思うように明瞭だとしても、――私はそうは思わないが――次の二つの事柄が明かにされないかぎり、今日の世界における人類に対する支配権の説明としては何の役にも立たないであろう。二つの事柄とは、

先ず、この「アダムの権力」は、アダムと共に終らず、彼が死ぬとそのまま誰か他の者に譲渡され、このようにして子孫に伝ったこと。

次に、今地上にある君主、支配者は正当な譲渡によって、このアダムの権力を持つ者であることである。

八三 この中第一の命題が成立しないなら、「アダムの権力」は、それがどんなに巨大で、確実なものであろうと今日の政治と社会には何の意味も持たない。われわれは支配権の原型をこのアダムの権力以外に求めなければならぬ。さもなければ、世界のどこにも権力は存在しないだろう。また、第二の命題が成立しないならば、今日支配者たる者は、あらゆる権威の唯一の源であるこの権力を他の者に優先して要求する権利を持たず、従って他の者を支配する資格も持ち得ないのであるから、彼等の権威は失われ、臣民は隷属の義務から解放されるであろう。

八四 われわれの著者は、アダムの絶対君主権を想定した後、この君主権が彼の後継者たるべき君主にどう譲渡されるか、その方法をいくつか述べている。しかし、彼が特に強調するのは、「相続」による方法で、彼の著書に実に度々出て来る。私もそのいくつかは、前章までに引用したから、ここでは繰返さない。前にも言った通り、彼はこの主権を「所有権」と「父たる身分」という二つの基礎の上に建てている。前者は、アダムがすべての禽獣に対し持つ権利、即ち、地球とその動物と他の下級の物を自分だけの専用に所有する権利であり、後者は、彼が自分以外の全人類を支配し、統治する権利である。

八五 この二つの権利は他のいかなる者もそのいずれに与かることも許されないと考えられているのであるから、両者とも、アダム独特の理由に基づくものであるに違いない。われわれの著者は「所有権」の方は神の直接の授与(『創世記』第一章二八節)から、「父たる身分」の方は「子を儲ける」という行為から生ずるものと考えている。ところで、どんな相続でも相続人が父の権利を受けつぐことが出来るのは、同時に、その根拠となる事実をも受けついでいるからなのである。例えば、アダムが禽獣を所有する権利を得たのは、われわれの著者の言うように、これらの主人であり、所有者である全能の神の「授与」によったものであることを認めるとしても、彼の死後、彼の相続人は、彼も亦、「神の授与」によって権利を与えられているのでなければ、禽獣に対し、どんな資格も、どんな所有権も持つことは出来ぬわけである。もし、アダムが禽獣に対する所有権、使用権を神の明確な「授与」によってのみ得たのであり、また、この授与がアダムに個人的なものであるならば、彼の相続人はこの授与によって、いかなる権利をも持ち得ない筈であり、この権利はアダムの死後、再び主人であり所有者である神に帰らなければならぬからである。明確な授与は明文の示す以上の資格を与えるものではなく、また明文だけを拠り所とするものであるから、われわれの著者の主張するように、この「授与」がアダムだけに個人的になされたものであるならば、彼の相続人は彼の禽獣に対する所有権を受けつぐことは出来ない筈である。また、アダム以外の誰かになされたものであるならば、われわれの著者の言う意味でのアダムの相続人、即ち、他の兄弟を除いた彼の子の一人だけになされたことを示すべきである。

八六 しかし、われわれの著者をあまり追求して脇道へ入ることはやめて、はっきりしていることを述べると次の通りである。神は人間をつくり、他の動物同様、これに自己保存の強い欲望を植えつけ、食物、衣類その他生活必需品、即ち、人間を暫く地上に生在させようとの、また、この驚異的製作品をそれ自身の怠慢から、あるいは必需品の不足から、わずかばかりの生存の後、間もなく死なせることがないようにという神の意図に役立つ品々を供給した。即ち、神は、かように人間と世界をつくってから、人間に話しかけて、即ち人間の分別と理性に訴えて(下級動物の場合、感覚と本能に訴えたように)、自分の生存に有益なものを選んで使うように導き、即ち、自己保存のための手段を与えたのである。従って、私は、これらの言葉(『創世記』第一章二八―九節)が文字通りそのまま話されたと取らねばならぬなら、人は禽獣を使用する権利を、これらの言葉が話される前に、あるいは、これらの言葉を授与状とすることなしに、神の意志と承認によって与えられていたものと信ぜざるを得ない。自分の生命と生存の維持という強い欲望は、神が行動の原理として人間に植えつけたものである。そして、「人間にあらわれた神の声」なる理性は、彼に、自己の生命の維持というあの自然の傾向に従うことは、神の意志に従うことであり、人は、分別、理性の教えるところに従って禽獣を利用する権利を持って居り、人の禽獣に対するロバート卿のいわゆる、「所有権」は人の生存に必要な、あるいは、有益な物を利用する権利に基づいているものなることを教え、彼をしてこれを確信させずにはおかないであろう。

八七 アダムの「所有権」の根拠は以上の如くであるがら、彼の子供達も皆、同じ理由により、彼の死後に限らず、彼の存命中にも既に、同じ資格を与えられている。従って、相続人だけが特権を持っていて、弟達を、彼等が各々彼同様に持っている、生命を安楽に維持するための下級の禽獣を利用する権利から閉め出すことは出来ぬ。下級の禽獣に対する所有権とは、これを利用する権利以外の何物でもない。それ故、「所有権」あるいは、われわれの著者のいわゆる、「個人的支配権」に基づくアダムの主権ということは無意味になる。すべての人は、アダムと同じ資格、即ち、自分の生命を守り、生命のためをはかるという権利によって、禽獣を利用する権利を得ているのである。かくて人はすべて共通の、従ってアダムの子供達もアダムと共通の権利を持っていた。しかし、ある人がある特殊なものに対し、独占的所有権を持つようになったとすれば(どうしてこれが可能であるかは後に示す)、彼が特にその所有物を明確な授与により他の者に処理しないかぎり、子に伝えられるのが当然であり、子はこれを継承し、所有する権利を持つ。

八八 ここで、どうして親が死ぬと子が他の者に先んじて親の財産を所有する権利を持つのか、親の財産は、親が個人的に持っていたものであるから、親がはっきりその権利を他の者に移譲することを明言せずに死んだ時は、人類共通の財産に戻るべきではないかというもっともな質問が出るかも知れぬ。これに対しては、財産が子に譲渡されて来たのは、これが人類一般の承認するところだったからだという答がなされるであろう。成程、確かに、それは、一般のならわしである。しかし、これを直ちに、人類全体の承認するところと言い換えるわけには行かぬ。何故ならば、こういう承認が、かつて実際に求められたことも、与えられたこともなかったのだから。また、このならわしは、一般の黙認によって確立されたというならば、子が親の財産を相続するのは天賦の権利ではなく、人為的の権利であることになる。しかし、このならわしは、一般的であるから、その原因も自然なものと考えてよかろう。自己保存は、神によって人間に植えつけられ、人間性とまでなったところの第一の、また最も強い欲望であり、各個人が自己の生命維持のために禽獣を利用する権利の基礎をなすものである。しかし、神は、これに次いで、自分の家族を繁殖させ、自分をその子孫において存続させようという強い欲望をも植えつけた。私は、子はこの事実によって、親の「所有権」に与かり、その財産を相続する資格を与えられているものと考える。人が物を所有するのは、自分だけの為でなく子もその一部に与かるためである。子は、親の死によって親の使用権が終息し、財産が親の手から離れる暁には、完全に自分の物となる財産に対し、親と一種の連帯権利を持っているのである。これが相続と呼ばれるものである。人は、自分だけではなく、自分の儲けた子をも維持する義務があるから、子は親の所有物に与かる権利を持つことになる。子がこの権利を持っていることは、神の掟から明かであり、人がこの事実を信じていることは、国法から明かである。両者いずれも親に子を扶養することを命じているのである。

八九 当然身体が華奢で、自分で自分を養ってゆけぬ子は、これに即応して、神の定めるところに従って、親から養育され、扶養を受ける権利、否、ただ生きるだけでなく、親の境遇の許す限り、快適、安楽な生活を送る権利を与えられている。従って、親の死によって、子が自分を世話してくれる者を失う時、その遺産は出来るだけ多くの物品にわたるべきであり、また、親が存命中なした貯蓄は自然の命ずるところに従って、子のためになされたと解さるべきである。親が自分の次に養わねばならぬものは子であるから、たとえ親が死ぬ時、彼等に関して明言を以っては何も言わなくとも、子がその財産を受けつぐのは自然の定めるところである。即ち、子は親の財産に与かる資格と、これを相続する天賦の権利を持つ。この権利は、他の何人も主張することは出来ぬ。

九〇 この神と自然が定めた、子には権利、親には義務である養育、扶養ということがあるからこそ、親が子の財産をつぐこと、即ち、遺産相続で祖父が孫に優先するのは不当となるのである。祖父は、彼の子の養育にかけた苦労と経験という多くの貸しを持って居り、これが支払わるべきことは誰も異存のない所であるが、父が彼の子を養育したのは、彼の親が彼を養育したのと同じ掟に従ったのであって、この親から受けた教育という負債は、子が食うに困ったり、不自由したりしないようにしてやることによって支払われる(即ち、親が現在困って生きるために財産の返還を必要とするのでなければ、かくして親への負債は、財産上の返済の必要だけは支排われる。ここでは、子が常に親に対し負うている畏敬、感謝、尊敬の念については触れない。ただ、金高で表わされる財産、物品について言っているだけである)。しかし、親への負債が子への義務によって帳消しになるというのではない。ただ、元来、子への義務の方が優先的であるというだけである。親への負債ということはあるのであって、親はこれによって、息子に子がなく、「子の権利」を行使する者がない場合、息子の遺産を相続する権利を与えられているのである。従って、親は必要な場合、子に扶養されるのみならず、子と孫の必要が満されて、なお、余裕ある時は、安楽な生活を送らせてもらう権利があり、息子が子を残さずに死んだ場合、当然、彼の財貨を所有し、その財産を相続する権利を持つ(もっとも、国によっては、国法は愚にも全然これと別な規定をしていても、それは構わぬ)。かようにして、こんどはまた、彼の子供達や孫達がこれを彼から相続する権利を持ち、もし、これらがいなければ、彼の父と子が同様の権利を持つ。しかし、こういう血縁がない時は、個人の所有物は社会の所有にかえる。即ち、政治的な社会では、為政者の手中に入るが、自然の状態では完全な共有物となる。何故ならば、自然の状態では、何人もこれを相続する権利を持たぬし、且つ、それに対し他の元来の共有物に対する場合とは異なった、特別の所有権を持つということもあり得ぬからである。これについては後に述べる。

九一 私がこれまで、子が如何なる根拠によって親の財産を相続する権利を持つかを示すことに比較的詳しかったのは、アダムが全地球とその産物に対し所有権(といっても、彼がその一部を割いて子孫を育て養わねばならぬのであるから、取るにたらぬ、名義だけの所有権である)を持っていたとしても、彼の子供達もすべて、自然の掟によって連帯の資格を持ち且つ彼の死後は相続権によって連帯の所有権を持つに至るのであるから、彼の子孫の一人が他の兄弟に対し、君主権を与えられることにはなり得ないということを明かにするためばかりだったのではない。彼の子孫の各は各自の分け前を相続する権利を持ち、遺産の全部、あるいはその一部を共有的に、又は分割して、適当と思う方法で所有し得るが、相続権はすべての子に父の財産に与かる資格を与えるものであって、どの一人も全遺産とこれに附随すると考えられる主権を独占的に主張することは出来ないのである。私が、子が父の所有権を相続する根拠をこれ程詳しく検討したのは、ただ、これだけのためではなく、そうすることによって、「支配」と「権力」の相続に関して一層の光明が投ぜられることを期待したからである。この「支配」と「権力」については、長男だけが独特の国法によって土地の全所有を与えられ、土地の所有と共に権力をも相続する国々では、「財産」も「権力」も天賦の、あるいは、神授の長子相続権によって定まって居り、人に対する支配権、物に対する所有権の相続も同じ源から発し、同じ法則によって伝わるべきだという誤った考えに落ち入り勝ちの人もいたのである。

九二 快適な生活を維持するための下級の禽獣を利用する権利から発生する所有権は、所有者だけの利益、便宜のためのものであって、彼は自分の所有物に対しては、必要な場合には、これを利用することによってこわす権利さえあるのであるが、これに反し、万人を暴カ、危害から守り、その権利と財産の維持を目的とする政治は、被支配者の利益のためのものであり、為政者の剣は、悪事を行う者の恐怖の的となり、この恐怖の念によって、人人をして、社会のため、即ち、公共の掟の規定する範囲内でそのすべての個人の利益の為自然の掟と合致して作られた社会の成文法を遵奉させるように与えられたものであって、為政者一個人の利益のために与えられたものではない。

九三 従って、既に明かとなったように、子は、その生活を親に依存するという事実によって、自分自身の利益のため(for their proper good)に利用し得る自分の所有物として、父の財産を相続する権利を持つ。これを財貨(goods)と名づけたのはうまい命名である。しかし、長男だけが、神と自然の掟によって親の財産を独占的に所有する権利を持っているのではない。長男の権利も他の兄弟のそれと同じで、ただ、親に扶養され、快適な生活を送らせてもらう権利を基礎とするだけで、他には何の根拠もないのである。これに反し、支配は、被支配者のためのものであって、支配者だけのためのものではなく、唯、被支配者と結合し、政治社会の一部を構成する場合の支配者のためのものに過ぎない。そして、この社会の各員は法律によって保護され、各々特有の機能に応じて全体の利益になるように指導されている。それ故、支配は子が父の財貨を相続するように、相続され得るものではない。息子は、親の財産により、扶養され、必要品、有用品を供給される権利を持つが、この権利は、親の財産を自分の利益のために相続する権利の基となるだけで、親の支配権までを相続する権利の因とはならない。子が親に要求し得るものは、扶養と教育と、生命維持のため自然が供給する諸々の物だけである。「支配権」をも要求することは出来ない。子は他人の福祉のために父に与えられた「支配権」(父が持っていたとして)を持たずとも父から当然の財貨教育を受けて生活することは出来るのである。従って、子は全然自分だけの利益、便宜をその基礎とする資格によって「支配権」を主張したり、相続したりすることは出来ぬ。

九四 誰が権威の後継者であり、権威を相続する資格を持つかを知るためには、最初の支配者がその権威を如何なる方法で、その支配権を如何なる根拠により、そして如何なる資格によって得たかを知らなければならぬ。もし、王笏と王冠が人々の同意、承認によって与えられたのならば、その相続、譲渡も同様、人々の同意、承認によるのでなければならぬ。後の者も、先の者と同じ権威で、正当な「支配者」となり、継承権を与えられるのでなければならぬ。この場合、支配、政治の形態を確立した人々の同意が、同時にその継承をも決定している以上には、相続権、あるいは長子相続権は、それだけでは、支配権に対し何の権利も何の主張も持ち得ないのである。かくて、王位は国によって異なった種類の者に継承される。ある国で相続権によって君主となる者も他の国へ行けば一臣民に過ぎないであろう。

九五 「支配耀」が初めに、神の明確な授与と啓示的宣言によって、与えられたとすれば、この資格を要求する者は、その相続に対する神の明確な授与を受けねばならぬ。相続、譲渡が神の明確な授与によって決定されたのでないならば、誰も最初の支配者のこの資格を相続することは出来ないいし、子供達はこれを相続する如何なる権利も持たず、また、長子相続権を持つ者も、この制度の創始者である神が定めた場合以外は、如何なる要求をもなし得ないからである。神の直接の命令によって王位を得たサウル一家の権利がサウルの治世と共に終っているのも、また、ダビデがサウルと同じ資格、即ち神の命令によって、ヨナタンを排し、即ち父子相続の権利を排し、サウルの王位を継承したのもこの理由からである。ソロモンが彼の父を相続する権利を持っていたとすれば、それは、長子相続権以外の権利によったのでなければならぬ。弟、あるいは姉妹の子でも最初の正当の君主と同じ資格を持っているならば、優先して相続しなければならぬ。神の明確な命令にのみその基礎を持つ支配権については、末子であるベニヤミンも神の命令ならば、彼の一族の一人が最初に王位を所有したように、王位を相続する権利を持っている筈である。

九六 「支配権」が「父権」、即ち、「子を儲ける」という行為によって与えられるとしても、その資格は、相続権、長子相続権によっては決して与えられてない筈である。「子を儲ける」という己が父の資格を継承することが出来ない者は、父が彼の「父権」によって兄弟達に振っていた権力を相続することは出来ないから。しかし、この点については、後に更に述べる。が、その前に、如何なる支配権も、それが最初「父権」に基づいて始められたものであろうと、「人々の同意」に基づいたものであろうと、あるいは、このいずれにも代り、新しい基礎に新しい支配を築き得る「神の明確な命令」に基づくものであろうと、これを相続し得る者は先任者と同じ資格を持つ者に限ることは明かである。「契約」に基づく権力は、契約によって相続する権利を持つ者だけに伝わる。「子を儲ける」ことに基づく権力は、「子を儲ける」者だけがこれを持つ。神の明確な授与に基づく権力は、この授与の指名を受けた者だけがこれを相続する権利を持ち得る。

九七 私がこれまで述べたところで明かなことは、人が禽獣を利用する権利は元来彼が生存を維持し、快適な生活を送る権利に基づくのであること、また、子が親の財産を相続する権利も、子が親の財貨によって生存を維持し、快適な生活を送る権利に基づくものであること、従って、親は生まれつきの愛情によって子を自分の一部として養うことを教えられていること、これはすべて、その所有者あるいは相続人の福祉のためのみのものであって、子がその起源、その目的も異なる「支配権」を相続する理由とはならぬということである。また、長子相続権によって、独占的に「所有権」あるいは、「権力」を相続することを主張することが出来ないことも明かである。これはその箇所で一層詳しく調べよう。ここではアダムの「所有権」あるいは「個人的支配権」は彼の相続人には何等の主権も支配も譲渡なし得なかったことを示せば十分である。なぜなら、アダムの相続人は彼の父の全財産を相続する権利を持たなかった為、それによって兄弟に対し君主権を振うに至ることは出来なかったからである。従って、アダムがたとえ彼の「所有権」の故に君主権を与えられたとしても、(事実はそうではないが)これは、アダムと共に消滅してしまったであろう。

九八 アダムが全世界の所有者として人々に権威を振ったとしても、アダムの子供達は皆、各自、彼の財産の一都を遺産として与えられる権利を持っていたのであるから、彼の子の一人がこのアダムの君主権を独占的に相続してこれを他の兄弟に振ったということはあり得ない。同様に、彼の子の誰も、たとえアダムがこれを持っていたとしても、「父たる権利」による君主権を相続することは出来なかったであろう。何故ならば、われわれの著者の説明によれば、「父たる権利」とは、自分の儲けた子に対し、儲けるという行為によって得た支配権であって、相続ということのあり得ない権力である。何故相続し得ないかと言うと、この権利が純粋に個人的な行為の結果であり、また、純粋に個人的な行為にその基礎を持っている為、この権力そのものも純粋に個人的になり、相続することが出来ないものとなってしまったのである。父権は、親子の関係から生ずる自然の権利であって、親子の関係そのものと同様、相続することの出来ないものである。父権が相続し得るならば、夫たる自分の父がその妻(自分の母)に振っていた夫婦間の権力の相続も主張し得るであろう。夫の権力は契約に基づき、父権は「子を儲ける」ことに基づいており、子を儲けることが、子を儲けない者にあっては、権力を要求する資格となり得ない限り、子を儲ける者以外の人の手には届かないこの子を儲けて得たる権力が相続し得るならば、単なる個人的な婚姻の契約による権力も相続し得るであろう。

九九 このことから、アダムがエバより先に死んだ場合に、彼の相続人(カインかセス)はアダムの「父たる身分」を相続することによって、母であるエバに対し、君主権を振ったかどうかという疑問が起きてくる。アダムの「父たる身分」は要するに、彼が儲けた子を支配する権利に他ならぬからアダムの「父たる身分」を相続する者は、われわれの著者の意味でも、アダムが儲けた子をアダムが支配する権利以外何ものも相続はしない。従って、相続人の絶対君主権の及ぶ範囲はエバを含まなかったであろう。含んでいたとすれば、絶対君主権とは、相続によって伝ったアダムの「父たる身分」に他ならぬのであるから、相続人がエバを支配する権利は、アダムがエバを生んだことによるのでなければならぬ。「父たる身分」とはこれ以外のものではないのである。

一〇〇 われわれの著者は、恐らく、人は自分の子を支配する権力を譲渡することが出来るし、また、契約によって譲渡し得るものは相続によって所有することが出来ると言うであろう。私は、これに対し、父は彼の子を支配する権力を譲渡し得ないと答える。ある程度、これを喪失することはあるかも知れぬが、これを譲渡することは出来ない。この権力を獲得する者は、父からの授与によるのではなく、自己の行為によってである。例えば、子をすこしもかまわぬ情愛のない父がいて、子を他の者に売るか、くれるかするとする。これを受けた者が、更に、この子を捨て子にし、第三の者が見つけて、これを自分の子として育て、はぐくみ、養ったとする。この場合、この養父が、子の義務と服従の大部分を受くべきことは誰も異存のないところであろう。もし、他の二者の中いずれかが、この養父に対し、多少ながらその一部に与かることの要求を許されるとすれば、それは、生みの父の方だけであろう。この生みの父は、「汝の父を敬え」という掟の中に含まれている子の孝養を要求する権利を大部分喪失しているが、これを譲渡したとは決して言い得ないであろうから。子を買って、かまわなかった者は、彼がこれを買い、生みの父がこれを授与することによって、子から孝養と尊敬を受ける資格を得たとは考えられぬ。捨てられて死にかかっている子を、自ら、父として世話をし、面倒をみ、父親らしい苦労によって相応の父権に対する資格を獲得した者だけが、子の孝養と敬意を受ける資格を得たわけである。このことは、父権が如何なるものであるかを考えれば、もっと容易に認められるであろう。これについては、後篇を参照されたい。

一〇一 本題に戻って、父権は「生む」ことによってのみ(というのは、われわれの著者は、父権の要因として、「生む」ことだけを主張しているのだから)得られるもので、「譲渡する」ことも「相続する」ことも出来ないものであることは明かである。子を儲けたことのない者が、儲けることによってのみ得られる父権を持ち得ぬことは、ある物権に附帯する唯一の条件を果さない者がその物に対し権利を持ち得ないのと同様である。父の子に対する権力は、如何なる掟によるかと問われれば、人は勿論、自然の理法と答えるであろう。子を儲けた者が子に権力を振うことを許されるのは、自然の理法によるのであるから。同様に、われわれの著者のいわゆる、「相続人」が相続権を得るのは、如何なる掟によるかと問われれば、彼は、やはり自然の理法と答えるであろう、われわれの著者は、彼の「相続人」の権利の証明に、聖書の言葉を一言も引用していないから。そうすると、父は子を儲けたが故に、自然の理法によって、子に父権を振うことを許され、また、相続人は自分が「儲けた」のではないにも拘らず彼の兄弟に対し、同じ自然の理法によって、同じ父権を振うことを許されることになる。そこで、結論として、父が父権を持つのは、生むことによるのではない、さもなければ、相続人は全然これを持っていない、そのいずれかということになる。なんとなれば父は、子を儲けるという唯一の理由で、理性の法則である自然の理法によって、子に対し父権を振うことを許されて居りながら同時に長男もこの「生む」という唯一の理由を持たずに、(というのは、全然理由を持たないというに同じである)彼の兄弟に対し父権を振う権利を与えられているということは考えられないことだからである。長男が自然の理法により、その資格となる唯一の根拠を持たずにこの権力を相続し得るならば、末子も、否、赤の他人でもこれを相続することが出来る筈である。自ら儲けた者以外には誰にも根拠はないのであるが、誰にも根拠がないということは、誰でもが同等の資格を持つことだからである。われわれの著者は、何等根拠を示してはいないようである。もし、誰か示すものがあれば、その時、それが妥当かどうか調べよう。

一〇二 とにかく、子を儲けたものが、自然の理法により子に対して父権を持つが故に、子を儲けたことのない相続人も、自然の理法により、父権を持つと言うのは、ある人が、同族であり、同じ血族であることがわかっている人の所有権を相続する権利を持つ、故に、その血筋に全然関係のない者も、また同じ自然の理法により、その人の財産を相続する権利を持つというのと同様、意味をなさない。また、自ら子の面倒をみ、養った者だけが国法によって、子に絶対権力を振うことを許されるとして、それだけの骨折をしなかった者も、この国法によって自分の子でもない者に絶対権力を振う権利を与えられていると主張し得るだろうか。

一〇三 夫でない者が夫婦間の権力を振い得ることが明かにされた暁には、子たる者が、子を儲けることによって得られるわれわれの著者のいわゆる「父権」を相続し得ることも、また、兄弟の一人が父の権力の相続人として他の兄弟に父権を振うことも、同じ法則によって夫婦間の権力をも振い得ることも説明されるであろう。しかし、それまでは、アダムの父権、この父たるの至高の権威は、たとえそういうものが存在していたとしても、彼の直ぐ次の相続人に伝わることも、また、相続されることも出来なかったと考えてよいと思う。世の中に父たる者がいる限り、父権というものは存在するから、父権が決してなくならないことは、私もこれを認めるに吝かではない。もっとも、私がこれを認めても、あまりわれわれの著者の役には立たぬであろう。世の父達の中誰一人として、アダムの父権を持たないだろうし、また、彼等各自の父権をアダムから相続している者もいないだろう。皆、めいめい、アダムと同じ資格で、即ち、「子を儲ける」ことによって父権を獲得したのであって、相続や継承によるのではい。夫が夫婦間の権力を相続によってアダムから得たのでないのと同様である。かくて、アダムが人類に対し、至上の支配権の基となる「所有権」、「父権」を持っていなかったのと同様に、この両者のいずれかに基礎を持つアダムの主権も、たとえ、彼がそれを持っていたとしても、彼の相続人に伝ったとは考えられない。彼と共に終ったと考えなければならぬ。従って、これまでで明かになった様に、アダムは君主ではなく、また、想定された彼の絶対君主権も相続し得るものではないから、今日世界にある権力は、アダムの権力だったものではない。アダムがわれわれの著者のあげる根拠によって持っていた「所有権」、あるいは、「父たる身分」のすべては、必然的に、アダムと共に消滅するもので、相続によって子孫に伝えられることの出来ないものである。次に、われわれの著者の言うようにアダムが彼の権力を受けつぐべき相続人を持っていたかどうかを考えよう。