統治二論 前篇 ロバート・フィルマー卿の誤れる原理及び根拠の摘発並びに打倒, ジョン・ロック

第四章 アダムの主権要求の資格について その二 神の授与(『創世記』第一章二八節)


二一 前章の問題の一句に、それも議論や反駁の為ではなく、錯綜した言葉と曖昧な意味の為に、かなり長い間、停滞したが、以上で一応片附けたものとして、これからいよいよ、ロバート卿の次の論点「アダムの主権」主張論に移ろう。われわれの著者はセルデン氏(訳註:十七世紀前半の英国の法律学者)の言葉を借りて、「アダムは、神から授与を受けて(『創世記』第一章二八節)万物の総主人となり、同時に個人的支配権を与えられたが、それは、彼の承認なしに子がこれに与かることを拒否し得る程独占的であった」と言い、「このセルデン氏の断定は聖書の物語とも理性とも一致する」と加えている。彼は、『アリストテレスに関する覚書』の序文では、「世界で最初の支配は、絶対君主的で、すべての人間の父(アダム)に具現した。アダムは、子孫を殖し、地球を満し、これを征服する命令を受けると同時に、あらゆる獣を支配する権力を与えられ、全世界の君主となった。アダムの子孫の一人として、彼の授与、あるいは許可を受けるか、あるいは彼を継承するかしなければ、何一つとして所有する権利を持つ者はなかった。詩篇の『地は人の子にあたえたまえり』(『詩篇』第一一五歌一六節)という文句は、この資格が父たる身分に由来するものなることを示している」と言っている。

二二 私は、この議論とこの議論の根拠をなす聖書の文句を吟味しようとするのであるが、その前に、われわれの著者が、例によって、始めと終りで矛盾した別々の意味を言っていることに読者の注意を喚起しなければならぬ。即ち、「アダムは、授与を受けて所有権、個人的支配権を云々」で始めながら、「これは、この資格が父たる身分に由来するものであることを示す」で結んでいる。

二三 しかし、とにかく、その議論を調べよう。聖書の本文テキストは次の通りである。「神、彼等を祝し神、彼等に言いたまいけるは、生めよ、殖せよ、地に満てよ、これを従わせよ、また、海の魚と空の鳥と地に動く所の諸々の生物を治めよ」(『創世記』第一章二八節)われわれの著者は、この文句から、「アダムはあらゆる禽獣を支配する権力を与えられ、全世界の君主となった」と結論する。これは、アダムが神からこの授与を受けて、地球及びそのあらゆる下級の理性のない禽獣を所有する、あるいは、われわれの著者のいわゆる、個人的に支配する権利を与えられて君主となったという意味か、それとも、あらゆる地上の生物(その中には、当然、彼の子も含む)を統治、支配する権力を与えられて君主となったという意味でなければならぬ。いずれにしても、セルデン氏が適切に言ったように「アダムは万物の総主人になった」のであって、セルデン氏の意味では、アダムが所有権以外には何物も与えられてはいなかったことは明かであり、現に、セルデン氏は彼の絶対君主権については一言の言及もない。しかるに、われわれの著者は、「アダムは世界の君主となった」と言う。これは、正確に言えば、「世界中のすべての人間の至上の支配者となった」ことを意味する。それ故、アダムは、この授与を受けて支配者に定められたという意味でなければならぬ。それは違うというのなら、「アダムは、全世界の所有者となった」とはっきり言うべきところだったと思う。しかし、ロバート卿は、この言語の曖昧について読者の寛恕かんじょを求めている。明瞭な言い方は、いつでもわれわれの著者の都合に合致するわけではないから、読者は、これをセルデン氏その他の著述家から期待するように、われわれの著者から期待してはならぬ。

二四 そこで、私は、われわれの著者が聖書の箇所を立脚点として唱える「アダムは全世界の君主となった」という説に対して、先ず

アダムは、神から直接この授与(『創世記』第一章二八節)を受けて、人類、即ち自分の子供、子供の子供等々を支配する権力を与えられたのではなかったこと、従って、この勅許によって、支配者、あるいは「絶対君主」となったのではないこと、次に、

アダムは、神からこの授与を受けて、下級の禽獣を「個人的に支配する権力」でなく他のすべての人々と共有的に支配する権利を与えられたのであること、従って、この授与によって与えられた所有権の故に、「絶対君主」となったのではないことを証明しよう。

二五 先ず、アダムがこの授与(『創世記』第一章二八節)を受けたことによって、人々を支配する権力を賦与されたのでないことは、この一節をよく考えてみれば、直ぐわかることである。一体、明確な授与は、その言葉の表面の意味以上にいかなる内容も持つものではないが、人類、あるいはアダムの子孫を意味する文字が、この本文のどれに相当するのか考えてみると、多少とも、その意味に近いと解釈される部分は、「地に動く所の諸々の生物」である。これは、ヘブライの原語で、這う動物という意味で、聖書自身が、この語の解釈に最も参考になる。神は、第五日目に魚と鳥を創造した後、第六日目の始めに、理性のない陸地の住民を創造した。これは次のようになっている。「地は生き物を其類に従って出し家畜と昆虫はうものと地の獣を其類に従い出すべし」及び「地の獣を其類に従って造り家畜を其類に従って造り地の諸々の昆虫はうものを其類に従って造り給えり」神は、理性のない地球の住民を創造した時、先ず、これ等を一括して生き物(living creature)の名の下に呼び、次に、これを三つに分類している。一、家畜、即ち、飼育された、もしくは飼育され得る動物で、個人の私有財産となり得るもの、二、英訳聖書で「獣」、ギリシャ語訳で「野性の動物」、アダムがこの勅許を与えられることが書かれてあるこの節では、「生き物」、この勅許が更新されて、ノアが二度目に受ける箇所(『創世記』第九章二節)では「獣」と訳されている動物、三、第三の階級に属するものは、「這う物」でこの二八節では「動く物」となっているが、前の節では「這う物」と訳され、ギリシャ語訳では、すべて「爬行動物」と訳されている原語に包括される。これで、この二八節の神の授与の中で動く所の生物と訳されている言葉は、創造の物語の出る処(二四、二五節)で、二つの階級の地上の生き物、即ち野性の獣と爬行動物を意味し、ギリシャ語訳でもこの意味に用いられている言葉と同じであることがわかる。

二六 神は、理性のない動物を作り、彼等をその棲息する場所によって、三種類、即ち、「海の魚」と「天空の鳥」と地上の生物に分類し、更に最後のものを、「家畜、野性の獣、及び爬行動物」に分類し終った後、人間を作り、これに地上の世界を支配する権力を与えようとして、この三界に棲息するものを数え上げている(二六節)。その際、神は、第二の階級、即ち、「野性の獣」を地上の動物から除いているが、この計画を実行に移し、アダムに支配権を与えようとする二八節では、ヘブライ語の原文は、「海の魚」、「天空の鳥」と共に、地上の動物をも(家畜を除いて)「野性の獣」と「爬行動物」(英訳では「動く所の生物」となっている)を意味する言葉で挙げている。以上二箇所の中、前者では、野性の動物を意味する言葉が、後者では、家畜に相当する言葉が略されているが、神が前者で「企図した」計画を後者で「実行に移した」ことは明かであるから、われわれは、両者は同じものを意味するものと解せざるを得ない。この記事(二八節)は、先に創造され、三つの異なった階級、(家畜、野性の獣、爬行動物)に分類された地上の動物が、神の意図に従って、実際に、人間の支配下に置かれるに至ったことを述べているに過ぎす、一人の人間が、他の人間を支配する権力、即ち、アダムが彼の子孫を支配する権力を神から与えられたというような曲解を許すような言葉は一語も含んでいないのである。

二七 この事は、『創世記』第九章二節の、ノアと彼の息子等が、神から更新された勅許を受け取るところで、彼等は、「天空の鳥」、「海の魚」、「地上の生き物」(原語は、野性の獣と爬行動物)を支配する権力を与えられたとあるので一層明瞭である。この「地上の生き物」は、即ち、われわれが今問題にしている第一章二八節で、「地に動く所の諸々の生物」と訳されている語の原語と同じである。この「地に動く所の諸々の生物」の中に人間が含まれていないことは、その時生きていた人間のすべてであったノアと彼の息子等が共同にこの授与を受けたのであって、彼等の一部がこれを受けて、他に支配権を振ったのではなかったことから明かであるが、彼等が「凡そ動く動物」(原文では、二八節と正に同じ語である)を食物として与えられたという直ぐ次の言葉から、更に明かである。これで、アダムが神から授与を受けた記事(二八節)、神の計画を述べた記事(二六節)、ノアと彼の息子等が二度目の授与を受けた記事(第九章二節)は第一章二〇節から二六節までに述べられている、第五日目と第六日目の始めに神が創造したものについてであり、それ以上の何物でもそれ以下の何物でもないこと、従って、この被造物は、水陸からなる地球の上に棲むあらゆる種類の理性のない動物を含んで居ることは明瞭である。もっとも、創造の物語に出て来る言葉が全部そのまま後の神の授与の記事で繰返されているわけではない。一方では、甲の動物が、他方では、乙の動物が略されている。これで、人間が授与されたものの中に含まれていないこと、従って、アダムが人類を支配するいかなる権力も賦与されていなかったことは、疑の余地のないところである。創造の時、地上のあらゆる理性のない動物は「地の獣」、「家畜」及び昆虫(rubt はうもの)の項目の下に数えられている(二五節)が、この時人間は未だ創造されていなかったから、この項目のいずれにも含まれていないこと、従って原語のヘブライ語が、その解釈如何に拘らず、この物語でも、直ぐ次の数節でも、人間を含んでいるとは考えられない。特に、アダムが神から授与を受けた記事の中で最も人を含むと解され易いこの「動物」を意味する問題のヘブライ語は、第六章二〇節、第七章一四、二一、二三節、第八章一七、一九節で明瞭に人間とは全く別な生物の意味に用いられているから。ロバート卿の主張のように、アダムが神から「地に動くところの諸々の生物」(第一章二八節)を支配する権力を与えられ、全人類を彼と彼の相続人の奴隷としたのだったならば、われわれの著者は、彼の絶対君主権を一歩進めて、君主はその臣民を食べてもよろしいことを世人に納得さすべきだったと思う。アダムが地に動くところの生物を支配する権力を授与された如く、ノアと彼の相続人は、神からこれを食べる権利を与えられていたのだから(第九章二節)。この両箇所のヘブライ原語は同一である。

二八 この一節中の神の授与という言葉だけでなく、王権の理解にかけてもまた、この節の(博学、明敏なエーンズワースの言葉を借りれば)解説者たるわれわれの著者に決してひけを取らないと考えてよいダビデ王は、これを君主権の勅許とは認めていない(『詩篇』第八章)。「汝はただすこしく人を天使よりも卑しくつくり、また、これに手のわざをおさめしめ、万物をその足下におきたまえり。すべての羊、うし、また野の獣、そらの鳥、うみの魚、もろもろの海路うみじをかようものをまで皆しかなせり」この一節を、全人類が下級動物を支配する権力を持ったことをではなく、一人の人間が他の人間に君主権を振ったことを言ったものと解する人があったら、その人は、そういう稀代の発見をしたことに対してでも、ロバート卿のいわゆる、素質上の君主の一人たる資格を備えているのかも知れぬ。以上で、アダムは、神から「地に動くところの諸々の生物」を支配する権力を与えられてはいたが、人間に対しては君主権を振う権限は賦与されていなかったことは明瞭と思うが、次の説明で更にはっきりするであろう。

二九 この授与(二八節)の内容が何にせよ、アダムだけに排他的に与えられたのでもなく、また、アダムがこれによっていかなる支配権を獲得したにせよ、それは、爾余じよの人々と共有的で、彼だけに個人的のものではなかった。アダムに個人的なものでなかったとは、原文が「神彼等を祝し彼等に言いたまいけるは」云々と複数を用いて居り、授与が一人以上になされたことによっても明かである。われわれの著者は、神のアダムとエバへの言葉「治めよ」(第三章一六節)をひいて、アダムが世界の君主となったことの証明としているが、多くの人の正しい解釈は、この言葉は、アダムがエバを娶った後に語られたとして居り、従って、彼等両人が、当然、エバも授与を受けた筈で、エバも、アダム同様世界の主人でなければならぬ。かりに、エバがアダムに隷属していたとしても、彼女の禽獣を支配し、これを所有する権利が影響を受ける程ではなかったであろう。両者とも共同に神から授与を受けながら一方だけがその恩沢に与ったとは考えられないから。

三〇 しかし、ここで、エバはその時まだ作られていなかったという人があるかも知れない。よろしい、そう考えよう。しかし、そう考えても、われわれの著者にはすこしも有利にはならないだろう。原文は、却って、われわれの著者の方向とは逆に、アダムだけがこの授与を受けて世界を支配する権力を与えられたのではなく、全人類が共通に与えられたことを明かにするであろう。原文の「彼等」がアダム一人を意味するのではなく、全人類を含むことは確実である。神がその支配権授与の意図を宣言する二六節において、神がある種類の生き物をつくって、これに地球上の他の動物を支配する権力を持たせようとしたことは明かである。「神言い給いけるは我にかたどりて我の姿の如くに我人を造り、彼等に海の魚……を治めしめん」と。即ち支配権を持つものは「彼等」である。彼等とは何か。神の姿を持とうとするもの、神が作ろうとする人類の各個人である。それを共に地球上に棲む爾余じよの人間を無視して、アダムだけにとるのは、聖書にも理性にも反する解釈である。また、この節の前半の「人」が、後半の「彼等」と別の物を指すならば、この文章は、恐らく、意味をなさないであろう。ただ、ここで「人」は普通の用法の通り集合的に人類を、「彼等」は個別的に個人を指している。その理由は、この節の文句そのものの中に見られる。神が人と「我にかたどって我の姿の如く作った」というのは、人を知的な生き物にし、これに支配の能力を与えたことを示すのである。神の姿が、他の部分では何で出来ていようと、その一部が知的な性質であることは確かであり、全人類はこの知的性質を所有し、これによって、下級の禽獣を支配しているのである。だから、ダビデ王は、先に引用した『詩篇』第八章で「汝ただすこしく人を天使よりも卑しくつくりて、これに治めしめたり」と言っている。ここで、ダビデが「これ」と言っているのはアダムでなく、人、人の子、即ち人類である(『詩篇』第八章四節参照)。

三一 この授与はアダムに告げられてはいるものの、授与を受けたのは、アダムだけでなく、全人類であったことは、われわれの著者自身が引用して彼の論拠としている『詩篇』の文句「地は人の子にあたえたまえり」(第一一五章一六節)で明かであるが、この文句は、前掲の序文中のわれわれの著者の言葉によれば、この授与を受ける資格が父たるの身分に由来することを示しているのだそうである。地は人の子に与えたまえり、故にこの資格は父たることに由来するとは、何と奇妙な議論ではないか。人を現すヘブライ語のイディオムが、「人の子」であって、「人の親」でなかったのは、われわれの著者の為に残念である。「人の親」だったら、この権利が父たる身分に由来すると言っても、文字の表面からだけは認められたであろう。しかし、「人の子」が神から地を与えられたから、「人の親」はこれを支配、所有する権利を持つとは、正に、われわれの著者独特の論法で、こういう結論に達することの出来る人は、意味だけでなく、文字そのものをも逆に取るという非凡な頭脳の所有者でなければならぬ。ところが、意味の上から行くと、われわれの著者の目的からはますますかけ離れている。彼が序文で言っているこの書の目的は、アダムが君主であったことを証明するにあり、その論法は、「神、地を人の子に与えたまえり、」故に、アダムは世界の君主だったというのであるから。こんな愉快な結論を出せる人が他にあったら、誰でもよろしいからやってもらいたい。人の子(children of men)とは父を持たぬアダム一人を意味する語であることの証明が発見されるまでは、この結論は、最も明白な不合理との誹りを免れないであろう。われわれの著者が何と言おうと、聖書にはそんな馬鹿馬鹿しいことは書かれていない。

三二 われわれの著者は、アダムのこの所有権、個人的支配権を主張するために、次の頁で、懸命になって『創世記』第一章二八節に対応する第九章一―三節の、ノアと彼の息子等が与えられた共有権を打破ろうとしている。その方法は二つで、

先ず、聖書の明瞭な言葉を無視して、ノアがその授与を受けたものは、息子等も共有的に授与されたものと思ってはいけないと主張する。彼の言葉で示すと、「セルデン氏は、ノアと彼の息子等がすべての物を共有する権利を持っていたことを認めようとしているが、聖書の本文テキストはこれを保証しない」と。すべての論拠を聖書に置くと触れ込むわれわれの著者が、別の解釈を許さない位明瞭な聖書の言葉にさえ納得しないなら、一体、他の何を拠り所とするのであろうか。聖書が「神、ノアと其子等を祝して彼等に曰たまいけるは」というところを、われわれの著者は「彼等」は「彼」でなければいかぬと言う。そのわけは、「息子等の名前も彼と共にこの祝福の中に出て来るが、彼等は、従属的、あるいは継承的な祝福を受けたとするのが最も妥当な解釈であるからである」と(『覚書』二一一)。ロバート卿にとっては、自分に都合のよいのが最も妥当な解釈であるが、他の者には、文章そのままの構文と一致し、その箇所の意味から素直に導かれるのが真に最も妥当な解釈なのである。従って、神が従属的とも継承的とも、あるいはこれに類した如何なる制限をも設けていないのに勝手に、そういう意味を織込むのは、決して最も妥当な解釈とは言われないだろう。しかし、何故そういう解釈が最も妥当なのか、われわれの著者には彼流の根拠があるのである。即ち、彼は続いて言う。「ノアの息子等が、彼の配下でか、あるいは彼の死後かに、個人的支配権を得たのだったら、この祝福は実現されたと言い得る」と(同上)。これは、「これ汝らの手に与えらる」と聖書が言うように、現有、共同の権利であることがはっきりしているものを、従属的、あるいは、継承的にも所有し得るが故に、従属的、継承的に与えられたととるのが最も妥当な解釈であると断ずるのと同じである。従属的、継承的にも所有し得るから、従属的、継承的に与えられたととるのが最も妥当な解釈というのは、人がある物の現有権を授与された時、生きている中には、やがて自分にもお鉢が廻ってきて、その物を享有し得るという理由で、その現有権は継承権の意味にとるのが最も妥当だというのと少しも変らない。なるほど、父と息子等が授与を受ける時、父が息子等に、自分の存命中も、これを共有することを許す程寛大な父ならば、結果においては、いずれにしても同じであろう。しかし、明かに、所有、共有とある文字を、継承ととることは決して正しいことではない。われわれの著者の議論は要するに、「ノアの息子等は彼等の父と共有に神から世界を与えられたのではなかった。そのわけは、彼等は、彼等の父の配下で、あるいは彼の死後に、世界を所有することが出来たのだからである」というにある。聖書の明白な言葉を無視した、実に見事な論法である。たとえ神自らの言葉でも、ロバート卿の仮説と一致しない時は、信じてはならないのである!

三三 われわれの著者がノアの息子等を共有から排除しようとして、継承的と主張するこの祝福のある部分は、決してノア自身にではなく、息子等になされたと取らざるを得ないことは明白である。「生めよ、ふえよ、地におおくなりて其中にふえよ」という祝福の文句は、この後の文との関係から見て、ノアとは関係はない筈である。何故ならば、洪水後、ノアが子供を持ったという話は聞かないし、彼の子孫の名前が列挙されている次の章にも、ノアの子供への言及はない。従って、われわれの著者の言う継承的に受ける祝福は、三五〇年以後(訳註:ノアは洪水後三五〇年に九百五十才で死んだ。『創世紀』第九章二八―九参照)にならなければ実現されず、また、彼の想像する独裁主権を全うするためには、世界に人間を繁殖させ居住させることを三百五十年おあずけにしなければならぬ。其故は祝福のこの部分(訳註:「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」)が従属的に与えられたものと見做すならば、われわれの著者は、息子等が彼等の妻と同衾する許可をノアに乞わねばならなかったと言う必要がある。しかし、われわれの著者は、独裁君主の存在には注意を払うが、臣民の存在にはほとんど関心を持たないという一点では、すべての論文を通じて首尾一貫している。事実、どうして民を殖すかということは、彼の政治論の中には入らない。絶対君主権が、どれ程、全能の神のこの最初にして最大の祝福「生めよ、ふえよ、地におおくなりて其中にふえよ」(これは、諸技術、学芸の発達や生活の利器の改良などを含んでいる)の実現を妨げるかは、これを、今日、トルコ政府治下にある、広い土地と豊富な資源を持つ不幸な国々において見ることが出来よう。この国々では、人口は今では昔の三分の一、否、その中のたいていとは言わぬまでも多くの国々では、三十分の一、恐らく百分の一にも満たないことは、昔の歴史と現在の記述を較べる者には直ぐわかる。しかし、これは余談である。

三四 「地のすべての獣、汝らを畏れ汝らにおののかん」という言葉から判断して、ノアの息子等はこの祝福、あるいは授与の他の部分を、従属的、継承的にではなく、ノアと同等、同量に与えられたと解せざるを得ない。この文句を、「すべての生物はノアだけに畏れ、おののき、ノアの許可がなければ、あるいは彼の死後でなければ、彼の息子等には畏れおののかない」と考える人がわれわれの著者以外にあろうか。また、次の「これらは汝らの手に与えらる」を、われわれの著者の言うように「彼の父が許すならば」とか、「彼の死後」などの条件を含むものと考える人が他にあろうか。これを聖書による論証というならば、いかにも、聖書による論証で証明されないものは一つもないであろう。これでは、われわれの著者が序文で罵倒している哲学者、詩人の類の仮想、空想と何の択ぶ所があろう。哲学者、詩人の説と比較してどれ程確実な立脚点を持っていると言い得るだろうか。

三五 しかし、われわれの著者は、更に彼の証明を続ける。「従属的、継承的に与えられたととるのが最も妥当である理由は、アダムが神から与えられ、彼の子供達が彼から授与され、譲渡され、割譲される個人的支配権が廃止されたり、ノアと彼の息子等との間に、すべての物の共有が始まったりしたとは考えられないからである。ノアは世界の単独相続人として残ったのだ。それだのに、どうして、神が彼の世界相続権を奪い、世界のすべての人々の中でノアともあろう者を、息子等との単なる共同借地人にしてしまったと考えられよう」と(『覚書』二一一)。

三六 いかに確からしいとは言え、所詮、十分な根拠を持たぬ意見に過ぎぬ解釈に囚われてわれわれが、聖書の言葉のありのままの意味を逆にとることは断じて許されない。アダムの個人的支配権がここで廃止されたと考えられぬことは、私も同意見である。そもそも、アダムがこの個人的支配権を持っていたかどうかが証明されていない以上、廃止されるも廃止されないもない筈であるから。聖書の対応箇所を比較することは、恐らく、最も妥当な解釈に達する道であるから、ノアと彼の息子等が洪水の後、祝福を受ける条と、アダムが創造された後(『創世記』第一章二八節)祝福を受ける条とを比較すると、アダムが神からこの個人的支配権を与えられなかったことは誰の目にも確かであろう。勿論、洪水後のノアが、洪水前のアダムと同じ所有権、支配権を持っていたとは考えられる。しかし、個人的支配権なるものは、ノアと彼の息子等が神から共通に与えられた祝福及び授与とは、相容れぬものであるから、アダムは個人的支配権を与えられなかったという結論には十分の理由がある。アダムが授与を受けた時の言葉に、はっきりとその意味の文字も、あるいは、多少ともそういう解釈に都合のよい文字もないことは、一層この考えを強めさせる。そこで、私は、一つ読者自身が、アダムの記事には、この意味の言葉は一つも見えもせず(実は、私が上に証明したように、聖書の本文からは、かえって逆の意味さえ窺われる)また、ノアと彼の息子等の条では文字も意味も正反対なのに、ロバート卿のように「従属的に、継承的に云々」と取るのが最も妥当な解釈であるかどうか、判断していただきたいと思う。

三七 しかし、われわれの著者は、「ノアは世界の単独相続人であり、神が彼の世界相続権を奪ったと考える理由はないではないか」という。いかにも、英国の法律では、相続人とは、将来父の全部の土地の所有を約束されている長男を意味するが、われわれの著者は、神がどこでこの「世界の相続人」を制定したのか、また、ノアの息子等が、彼等自身と家族を維持するために、神からノア一人だけでなく、一族全部の使用にもはるかにあまる程広大で、一方の所有が他方の所有に不利となったり、その使用を狭めたりする恐れのない地球の中のごく一部の利用権を与えられた時、それがどうして、ノアの世界相続権を奪ったのか、またノアが侵害を蒙ったことになるのかなどを説明した方がよかったであろう。

三八 われわれの著者は、読者を説いてその判断力を失わせることが出来ないことを、また、彼が何と言おうと、読者は聖書に明瞭に書いてあることを信じ、ノアと彼の息子達が共通にこの授与を受けたと考えることを予想して、ノアはこの授与を受けたが、そこにては、地球を征服する権力も、禽獣を支配する権力、否、地球という文字すら一度も出ていないから、彼は、所有権、あるいは、支配権を譲渡されたのではなかったというかのような口をきく。即ち、「従って、この二つの本文の間には大なる相異がある。始めの祝福で、アダムは地球とそのすべての禽獣を支配する権力を与えられ、後の祝福で、ノアは禽獣を食物として利用する自由を許されている。これは、唯、彼の食物の増配を意味するだけで、彼の万物所有の資格が変更されたとか、縮小されたとかいうことではない」と。つまり、われわれの著者のいう意味は、ノアと彼の息子達は、この祝福によって支配権、所有権を授与されたのではなく、ただ、食物を増配されただけである。食物といっても、「神、彼等に与う」という言葉から推して、彼等の食物であるが、われわれの著者は、彼の食物といって、息子達に、父ノアの存命中は、精進日を守ることを命じている。

三九 われわれの著者以外に、ノアと彼の息子達の受けた祝福を食物の増配としか考えられない者があったら、偏見にわざわいされている者としか思われないだろう。何故ならば、われわれの著者は、支配権という文字は使われていないと考えているが、「思うに、地のすべての獣、汝らを畏れ、汝らにおののかん」とは人間が他の生き物を最大限に支配し、これに優越する権力を表す文句であるから。アダムは絶対君主ではあったが、勝手にひばりや兎を殺して彼の飢をいやすことも、他の動物との共有物としてより他には草木を食べることも敢てし得なかった(『創世記』第一章二九―三〇節)のだから、彼の下級動物に対する優越性は、主に、この畏れ、このおののきに存していたのである。次にノアと彼の息子達がこの祝福によって、ただに、はっきりと所有権を与えられただけでなく、アダムよりはるかに広汎に与えられていたことは明かである。神はノアと彼の息子達に、「汝らの手に与えらる」と言っているが、ある人がある物を所有していることを言い表すのに、「手に与えらる」と言うのより自然で正確な言い方はない筈で、これが、彼等が所有権、しかも、現在の所有権を授与されたことを意味しないとしたら、他にこれを意味する言葉を捜すのは困難であろう。「凡そ生きる動物は汝らの食となるべし」は、彼等が人間最高の所有権、即ち、物を屠り得る程勝手に利用する権利を与えられたことを示す言葉だが、これはアダムも、彼の受けた特許の中で認められなかったものである。これが、われわれの著者の「彼等を食物として用いる自由、及びなく、単なる食物の増配で、所有権の変更ではない」である。人間が禽獣を所有する権利とは、一体、これを用いる自由以外の何であるのか。要するに、われわれの著者が言うように、アダムが最初の祝福で、他の生き物を支配する権力を与えられ、ノアと彼の息子達が、彼等の受けた祝福で、アダムには与えられなかった禽獣利用の自由を許されていたのならば、彼等は、必然的に、アダムが君主であったにも拘らず所有しなかった物、当然より大なる所有権と考えられるものを与えられていたに違いないのである。何故ならば、他の者に許されている禽獣利用の許可を与えられていない者は、これを絶対的に所有する権力を持つとは言えないし、また、その所有権も甚だ制限されたものであるから。われわれの著者が、ある国の絶対君主から「地球の征服」を命ぜられ、そのすべての禽獣を支配する権力を与えられたと仮定した場合、もし、彼が飢をしのぐために、一匹の羊すらその群から取り去ることを許されなかったとしたら、彼は、自分をその土地の主人公、もしくはその土地の家畜の主人公、あるいは所有者とはとうてい考えないであろう。むしろ、羊飼の持つ所有権と、所有者の持つ完全所有権の相異をしみじみ味わうであろう。従って、もしロバート卿がこの羊飼の立場にあったら、このノアと彼の息子の場合こそ所有権の変更、増大と考えたであろうし、彼等がこの授与を受けることによって、単なる所有権だけでなく、アダムも持たなかった種類の禽獣所有の権利を与えられていたと考えたであろう。お互い同志では、人間はめいめい禽獣を所有する権利を許されることになっているが、天と地の創造者であり、全世界の唯一の主人公で所有者である神の目からは、人間が禽獣を所有する権利とは、神の許しを得てこれを利用する自由に他ならないものであり、従って、この例でもわかるように、ノアの洪水以後には、それ以前以上の利用の道が認められていて、人間の所有権が変更された、あるいは増大されたと言い得るのである。これで、アダムもノアも禽獣を独占する「個人的支配権」、即ち、彼等の子孫が次々に成長して、これを必要とし、又利用し得るようになっても、これに与からさせない程の排他的な所有権を持っていなかったことは明かであると思う。

四〇 私は、これまでロバート卿が『創世記』第一章二八節の祝福に立脚して行ったアダムの絶対君主権擁護の議論を検討して来たが、冷静な読者ならば、この祝福が、万物が住むこの地球上において、人類が他の生き物に優越しているということ以上の意味を持つとは認めないと思う。優越するとは、神の姿たる主要な住民である人間――全人類――が他の生き物を支配する権力を持たせられたというに他ならぬ。このことは、はっきり書かれているから、他の著者であったら、どうして、反対の意味を持つこの言葉によって、アダムが他の人々を支配する絶対権力、すべての禽獣を独占的に所有する権利を与えられたことになるのか説明して置く必要を感じたであろう。われわれの著者はこれ程重要で、しかも後の議論の出発点となる事柄を取り扱う場合は、ただ、言葉を、それも明かに自分の議論と逆の方向にある言葉を引用するにとどまらず、十分な説明を加うべきであったと思う。私には、彼が引用した言葉は、多少ともアダムの絶対君主権、個人的支配権に都合のよい解釈を許す意味を持つとは思えないのである。むしろ、逆である。しかし、そう思えなくても、私は自分の不明を残念とも思っていない。この個人的支配権にあまりの考慮を払わない者は、私一人だけでなく、使徒パヴロも同様で、「神われ等を楽ませんとて万の物を豊に賜う」(『テモセ前書』第六章一七節)と言っているが、われ等に万物を賜うことが可能なためには、万の物が全部アダムと彼の相続人、あるいは継承者たる諸君主に与えられていなかったことが必要である。要するにこの一節は、アダムが独占的所有者であったことを説明するどころか、かえって、万物が、始めは、「人の子」の共有物であったことを確証するものである。それは、聖書の他の箇所の説明をつまでもなく、この神の授与の記述によって明かで、アダムが彼の個人的支配権に基づいて君主権を持ったという説は、その拠所を失って崩壊せざるを得ないであろう。

四一 しかし、われわれの著者が、なお、どうしてもアダムがこの授与を受けて全世界の土地の独占的所有者となったと言いたいならば、仮にそうだとしても、この所有とアダムの主権とはどういう関係を持っているのか、どうして土地の所有権が他人の生命を支配する権力を意味するのか、全世界を所有したとして、どうしてその結果、他人の身柄を勝手に処理出来る至上権を与えられることになるのか。われわれの著者は、これに対する一番もっともらしい説として、全世界を所有する者は、他の者が彼の主権を認めず、また、命令に従わない場合は、彼等に食物を拒み、即ちその意志があれば、彼等を飢餓させる権限を持つからだと答えるかも知れぬが、それが正しいならば、かえって、こういう所有権はかつてどこにも存在しなかったこと、また、神はかつてこんな個人的支配権を与えたことはなかったことの有力な証拠となる。神は、人類に生めよ、殖せよと命じたのであるから、彼等がみな、十分に衣食その他の生活の有用品の材料を供給され、これを利用する権利を与えられたと考える方が、一人の人間の意志、即ち、生殺与奪の権を持ち、他の者とすこしも違わないのに、父権を継承すると、人々に生活の有用品を豊富に供給して、神の大なる意図たる「生めよ、殖せよ」を助成するどころか、人々を欠乏、困窮させ彼等を労役に縛りつけようとする一人の人間の意志に彼等の生活を依存させたと考えるより合理的であろう。これを疑う者は、絶対君主国家を観察し、その下で、多数の人々が、また、生活の有用品がどういう状態にあるかを考えてみれば、思い半ばに過ぎるであろう。

四二 しかし、神は決して一人の人間が他の人間を彼の気ままな支配下に置き、これを勝手に餓死させることを許さなかった。万人の父である神は、子の一人に、この世の物資のある部分を独占的に所有する権利を与える時は必ず、同時に、彼の貧しい同胞にも彼の余剰物資に与かる権利を与えた。貧しい同胞が困窮に迫られて、どうしてもこれを必要とする時、彼の願を拒絶することは正当でないのである。従って、いかなる人間も、彼の土地、財産の所有権によって他人の生命を支配する正当な権利というものは持ち得ぬ。財産家がその有り余る財力から救済費を出すことを借しんで同胞を死なせることがあれば、それは罪悪である。正義が万人に、彼等が自ら正直に働いて作った生産物と親から受け継いだ正統な取得物を所有する権利を認めるように、愛は、他に生活の道がない人に、極度の困窮から脱れるに必要なだけのものを、ありあまる程持っている人から要求する権利を与える。人が他の者の困窮につけ込んで、神が生活に困っている同胞に与えよと要請する救済を拒絶し、この者を強制的に自分の臣下とすることが正しくないのは、腕力のある者が弱い者を捕えて、無理に服従させ、咽喉に短剣をつきつけて、奴隷になるがいいか、殺されるがいいかと脅迫するのと同じである。

四三 今仮に、神が惜しみなく自分に与える恩沢をこんなによこしまに利用する程に残酷、無慈悲な者が居たとしても、それは、他人の身柄を処理する権力は土地所有権に由来するという事でなく、ただ契約によって生じ得ることの証明となるだけであろう。何故ならば、金のある財産家の権威と貧しい乞食との服従関係は、主人の所有権によるものでなく、自ら、死ぬよりは奴隷となることを選んだ乞食の同意から生じたものであるから。のみならず、こうして奴隷を支配することになった主人も契約の承認する以上の権力を振うことは許されていない。そのわけは、全世界の土地を所有することが支配権、統治権の起源ならば、飢饉の時穀倉にいっぱい穀物を持つこと、あるいはポケットに金を持つこと、あるいは海上で船に乗っていること、あるいは泳ぎが出来ることなどは、生死の鍵を握り自分が援助を拒絶すれば人を死に至らしめる立場にあることによって、十分支配権の起源たり得るものである。この原則によると、他人の困窮につけ込んで自由の代償において、その人の生命、あるいはその人の大切にしている物を救う機縁となるものは、すべて所有権のみならず支配権の基礎となり得よう。以上述べて来たところによって、たとえ、アダムが神から個人的支配権を賦与されたとしても、この個人的支配権の故に、君主権をも与えられたとは言い得ないことは明かである。そして、アダムが個人的支配権を与えられなかったことは既に十分証明した通りである。