統治二論 前篇 ロバート・フィルマー卿の誤れる原理及び根拠の摘発並びに打倒, ジョン・ロック

第五章 アダムの主権要求の資格について その三 エバの服従


四四 われわれの著者が次に、アダムの絶対君主権の根拠とするのは、「また汝は夫をしたい彼は汝を治めん」(『創世記』第三章第一六節)である。彼は、「これが最初の統治権の授与を示す言葉である」と言い、「至上権は父たることに宿り、その支配形態はただ一つ、即ち絶対君主権に限られる」と同じ頁で結論する(『覚書』二四四)。ロバート卿にあっては、前提は何であっても、結論はいつもこの言葉に定まっている。聖書のどこかで、「支配」という言葉が出て来れば、絶対君主権はたちどころに、神授権によって確立されてしまうのである。もし、誰かが、われわれの著者が、その一流の論法で、この「汝は夫をしたい彼は汝を治めん」という一節からどういう結論を出しているか注意深く読み、他の色々の事と共に、彼がそこで用いている「アダムの子孫」なる言葉を吟味すれば、彼が言っていることは矛盾していて、そこから意味を汲みとるのは困難なことがわかるであろう。しかし、これも彼のように独特の書き方をする者にはやむを得ないとして、われわれは、問題の聖書の一節がどれ程有力なものかを考えよう。この一節は、エバがアダムに先んじ、また、より積極に反抗したことに対し、彼女をのろう言葉である。そこで、神が、人類の最初の親にここに書いてあるようなことを言ったのは、神が両人の反抗に憤慨して罰を宣し怒りを表すためであることを考えれば、これは、アダムが大権と特権を授与され、威厳と権威で飾られ、支配権と絶対君主権を帯びる地位に登用された時の言葉とは思われない。アダがエバに優越したのは、たまたま、エバが誘惑の同罪者というより、幇助者であり、その結果アダム以上に失墜せしめられ、アダム以上の罰を受けたからであって、アダムも原罪に与かり、楽園から失墜の責任を負い、前より賤しい境遇に落ちてしまったことは同じで、そのことは、これに続く数節に見られる。神がアダムを全人類の世界的君主に制定するのと同時に、終生の日雇人としたり、楽園から追放し、土を耕させると同時に、王位に即かせ、特権的な絶対権力を振わせたりすることは考えられぬ。

四五 「汝は夫をしたい云々」は、造物主が立腹して居り、アダムが好意や特権の授与などを期待出来ない時の言葉であり、これが、われわれの著者の言うように、「最初の支配権の授与」で、アダムがこれによって君主となったのなら、ロバート卿が何と言おうとも、アダムの君主権は、卿でさえ君主たることをあまり特権と感じない位の甚だつまらない君主権であったことは明かである。神は、アダムに自ら働いて生活の資を求めることをすすめ、人を治める為の王笏よりは、地を征服する為の鋤を与たように思われるから。神は、アダムに「汝は面に汗して食物を食え」と言った。アダムは当時まだ自分の為に働いてくれる臣民を持っていなかったのだから、これはやむを得なかったのだという者があるかも知れぬが、アダムは九百年も生きたのだから、晩年には、自分の為に働くように命じ得る人間をたくさん持っていたと考えてもよいであろう。神は言う、「汝は汝の妻の他、助者なき時だけに限らず、一生の間労苦して其より食を得ん」「汝は面に汗して食物を食い、終に土に帰らん。そは、其の中より汝は取られたればなり。汝は塵なれば塵に帰るべきなり」と。この人類の堕落を呪う言葉は、アダム個人に語られたものでなく、全人類の代表者としてのアダムに語られたと言って、われわれの著者を弁護する者もあるかも知れぬ。

四六 勿論、神の言葉は、より真実、より正確な点で、人間の言葉とは異なる。しかし、私は、神が人間に話しかけ賜う時は、人間の言語の文法を無視するような話し方はしないと思う。そういう話し方では、折角人間に話しかけ賜おうとしても、言葉が通じない為、神の御意図が無駄になるのが落ちで、人間の理解力に合せることとはならぬであろう。しかし、われわれの著者の説が必要とする解釈を聖書の正しい解釈とせねばならぬなら、神の言葉と人間の言葉とは別であると考えざるを得ない。神は、ここで単数を使っているが、即ち、アダムだけに語っているが、これは、実は、全人類に向って言われたものであるとするならば、また、『創世記』第一章二六、二八両節では、複数を用いているが、他の者を除いたアダム一人について言っているのであるとするならば、またノアと彼の息子達に共通に語っていること(『創世記』第九章)は実は、ノアだけを相手にした言葉と了解せねばならぬなら、確かに、神の言葉は、普通の人間の語法では理解が困難であろう。

四七 更に、われわれの著者が「最初の支配権の授与」と呼ぶ「汝は夫をしたい、彼は汝を治めん」という『創世記』第三章一六節の一節は、実は、アダムに語られたわけでも、アダムが何かを授与されたことを意味するわけでもなく、ただ、エバが罰を受けたことを言っているだけであることに注意すべきである。この言葉は、個人的に、あるいは全女性の代表者として、エバに語られたものと考えれば、せいぜい、女性だけに関する言葉であり、普通の女が彼女の夫に負う服従以上の意味はない。この言葉のどこにも、女は、彼女の身分により、あるいは夫との契約により服従から解放されているとしてもなお、この義務を負うべきだという掟は書かれていない。それは、出産の苦しみは、この節の全体が「女に言いたまいけるは、我大いに汝の懐妊はらみのくるしみを増すべし、汝は苦しみて子を生まん。また、汝は夫をしたい、彼は汝を治めん」とあるように、神のこの呪の一部をなしているが、無痛分娩の方法があるならば、女は必ずしも、かなしみと苦しみの中に子供を生まなければならぬ理由がないのと同様である。われわれの著者でなくては、アダムへの言葉でも、アダムについての言葉でもないこの文句に、アダムが君主的支配権の授与を受けたと読み取るのは困難であろうし、また、誰もこの文句によって、女性が一種の掟によってこの呪に縛られて居り、これをじっと堪えるのが女性の義務であるとは思わないであろう。また、エバにしろどの女にしろ、この神の威嚇する多くの苦しみをなめないで子供を生むのは罪悪であるとか、我が女王メアリ、あるいはエリザベスが臣民と結婚したら、この聖書の一節に従って、政治的に臣民である夫に隷属させられるとか、逆に臣民である夫は女王に君主的支配権を振うことになるとか考える者があるだろうか。私の理解する限りでは、神はこの言葉によって、アダム即ち男にエバ即ち女を支配するいかなる権威も与えてはいない。ただ、女の運命はどうあるべきか、即ち、神の御意の定めである将来の秩序は、女が夫に従うようになることだと予言しているに過ぎぬ。妻が夫に従うことは、また諸国家諸国民の法律、習慣の定めているところで、確かに、その根拠を自然の中に持っていると思う。

四八 同様に、神がヤコブとエサウについて「兄は弟に仕えん」(『創世紀』第二五章二三節)という時、誰も、神がこの言葉によってヤコブをエサウの君主としたとは思わない。ただ、事実として将来起ることを予言したまでと思うであろう。

しかし、どうしてもこのエバへの呪をエバ及びすべての女を隷属状態に縛る掟と取らねばならぬとするならば、ここにいう隷属状態とは、すべての妻が夫に負っている種類のもの以上ではあり得ないし、またこの呪が「最初の支配権の授与」であり、「君主権力の基礎」であると言うならば、すべての夫は絶対君主となろう。従って、アダムがこの一節によって何等かの権力を賦与されたとすれば、その権力は政治的権力ではなく、単なる夫婦間の権力、即ちすべての夫が、土地、財産の所有者として一家の家政に采配を振い、また夫婦共通の利害を有する事では、妻の意志を抑えて自分の意志を先にする権力でしかない。決して、妻、言わんや他の何者をも支配する政治的な生殺の権力ではない。

四九 私は、この私の解釈を間違ってはいないと思う。われわれの著者が、聖書のこの言葉を最初の支配権(政治的)の授与ととりたいならば、単に「汝は夫をしたい云々」の文句は、エバとエバから生まれるすべての者にアダムと彼の相続人の絶対君主権への服従を命ずる神の掟であることを言うだけでなく、もっと有力な論証によって証明すべきであったと思う。「汝は夫をしたい云々」はあまりに曖昧な表現で人によって解釈を異にしており、これを自信を以って一つの主張の根拠とすることは、問題が、影響する範囲の極めて深く、広い問題だけに、とうてい出来ない。しかるに、われわれの著者は、この文句に一言触れた後、彼一流の筆法で、直ちに、誠に無造作にその意味を自説に都合のよいように解釈する。彼は、聖書の本文テキストか註の中で「支配」とか「隷属」とかいう言葉を見つけさえすれば、たちまち、これを臣民の君主に対する服従と解釈し、その関係は君臣の関係に翻訳されてしまう。神が「夫」と言うところは、ロバート卿では「王」となる。また、アダムは直ちに、「エバとエバから生まれるすべての者」を支配する絶対君主権を与えられてしまうが、聖書にはそんなことは一言も書かれていない。われわれの著者自身もこれを証明するようなことは一言も述べていない。にも拘らず、アダムはどこまでも、且つ、既往に遡って第一章でも絶対君主でなくてはならぬのだそうである。ロバート卿が、すこしも理由を示さずに、アダムはこの文句によって彼の絶対君主権を認められたと主張するならば、私の方でもそんなことはないと否認するだけで、十分彼の絶対権力を打破ることが出来ると信ずるが、読者はどう思うであろうか。殊に、原文では、女が夫に隷属していることが述べられているだけで、「君主」、「臣民」、「絶対的」、「絶対君主権」などという文字は見当らないのだから。このようにあしらうだけで、彼の論拠の大部分に対する、簡単且つ満足な答となるであろうし、また、ただ否定するだけで十二分の反駁となるであろう。証明のない主張には、理由のない否定も十分な答となるからである。それ故、私は、「至上権」は神自身が聖書のこの本文テキストによって父たる身分に植えつけたものであり、この「至上権」の形態は絶対君主権で、それもアダムと彼の相続人だけに限定されている――『覚書』(二四四)の文句から察すれば、ただそのことだけが、われわれの著者の聖書の文句からの目立った引用のすべてである ――という主張を否認するだけにとどめて、誰か冷静な読者に聖書のあの一節を読んでいただき、一体あの言葉が誰に、どんな場合に語られたかを考えてもらったならば、どうして、ロバート卿がこの言葉の中に「絶対君主権」を読み取れるのか不思議に思うであろう。もちろん、その読者とは、われわれの著者が発表し得ない論拠を汲み取ってやれる特別すぐれた能力を持つ千里眼のような人を言っているのではない。以上、私は、「アダムの主権」、即ち、ロバート卿のいわゆる、「アダムが神の定めるところによって無制限に賦与され、彼の自由意志による行為をすべて包含している至上権」の、私の知る限り、すべての論拠たる『創世記』第一章二八節及び第三章一六節の二箇所を吟味した。しかし、その一つは、下級動物の人類への服従を、他は、妻の夫への服従を意味するだけで、両者とも政治的社会において臣民が支配者に負う服従とはおよそ縁遠いものであった。