統治二論 前篇 ロバート・フィルマー卿の誤れる原理及び根拠の摘発並びに打倒, ジョン・ロック

第六章 アダムの主権要求の資格について その四 父たる身分


五〇 われわれの著者のアダムの主権要求の論拠で、まだ一つ言い残してあることがある。それを述べれば、全部を尽したことになろう。即ち、父が親たることによって、子を支配する権力がこれである。われわれの著者は、この「父たる」資格を好み、ほとんど毎頁に引用している。特に、『パトリアーカ』一二頁には、「アダムも彼の後継者たる族長らも、父たるの権利によって、子供に王権を振っていた」「子の隷属はあらゆる主権の源泉である」云々などの文字がある。この文句は、われわれの著者によってしばしば用いられているところから察すれば、彼の構想の主たる根拠と考えられ、これに対する明白な論拠が当然期待されてよいわけである。そのわけは、自説に必要な主張として、「すべて生を享けた人間は自由であるどころか、生まれるという事実そのことにより、親に隷属することになる」とはっきり言っているからである(『覚書』一五六)。創造された者はアダムだけであり、後の者はすべて生まれた者であるから、生まれながら自由の人というものは一人もいないと。どうして、アダムが彼の子にこの権力を振い得たかという問に、われわれの著者は、生むことによってと答える。また、彼は、「このアダムの天賦の支配権はグロティウスの所説(父が子を儲けることによって、彼を支配する権利を獲得する)を直接引用することによって説明し得る」と言う。いかにも、生むということは、人を父とする行為であるから、われわれの著者のいわゆる、父の子を支配する権力は、当然、これ以外の原因からは生じない。

五一 グロティウス自身は、父の子に対するこの権力がどの位の範囲のものであるかについては言っていない。然るに、われわれの著者は、この点ではいつもはっきりしていて、この権力が至上であり、絶対君主が奴隷に対し振うような絶対的な生殺権であることを自信を以って言う。しかし、父が子を儲けることが、どういうわけで彼にこんな絶対権力を振わせることになるかという問には、彼は何も答えない。われわれは、彼の他の言明同様、彼の言葉をそのまま真実として受け取るより他ないのである。自然の掟や政治の組織が興ったり、亡びたりするのは、ひとえに彼の言葉によらねばならぬわけである。こういう論法は、絶対君主自身の行う論法としては、いかにもふさわしいであろう。「道理の代りに意志」は、彼のロから出たならば認められたであろう。しかし、絶対君主権を擁護する議論としては、あまりうまいものではない。ロバート卿は、人民の権威をあまりにも弱小にしているので、人民たる卿が、ただこれを繰返し言うだけでは、絶対君主権は確立されないであろう。一人の人民の、証明を伴わぬ意見は、全人類の自由と財産を処理するだけの重みは持たぬ。私は、あらゆる人間は生れながら平等だと思うが、たとえ、あらゆる人間がそうでないとしても、少なくとも、あらゆる奴隷がそうであることに間違いはない。そこで、彼の説と私の説を対抗させ、子が生まれることは父の奴隷になることではないと私が主張しても、別に不遜でもあるまい。ロバート卿がその逆を言って、全人類を奴隷化することが出来るなら、私だって、私のこの主張で人類を解放し得ると信じて差支えあるまい。しかし、この点は、絶対君主権は神授権によることを主張する人々の基礎理論であるから、われわれの著者自身は何の論拠も与えていないが、われわれは、これに十分の発言権を与える為、他の論者がどんな理論を提供しているか、その言うことを聞こう。

五二 彼等が父は、子を儲けることによって子に対し絶対権力を振うという主張を説明するために用いる論証は、父が子に、生命と生存を与えたからだというにある。これが彼等の唯一の可能な論拠である。何故ならば、いくら何でも、甲の人がかつて自分の所有物だったものでも、自分が与えたものでもなく、第三者の恩恵によって贈られたこの人の物に、自然本来の権利を主張する理由はあり得ないから。しかし、私は前の論証に次のように答える。先ず、ある人が他の人に何か与えたからといって、それを取り戻す権利をいつも保留しているわけではない。次に、子に生命を与える者は父であると考える連中は、絶対君主権の考えにあまりにも眩惑されていて、「生命の創造者であり、授与者である」神を忘れている。人が生き、動き、また、存在するのはひとえに神の中にである(『使徒列伝』第一七章二五節)ことを忘れている。自分の生命が何で出来ているかさえ知らぬ者が、どうして他の者に生命を与える立場にあると考えられよう。哲学者も、その綿密な研究にも拘らず、この点については、依然五里霧中である。解剖学者も、その一生を死体の解剖、検査に費やしても、人体の多くの部分の構造、機能についても、また生命の源となる人体全般にわたる作用についても、わからないことを告白している。それだのに、教養のない田夫や無知な淫逸の徒が、この見事な機械をつくり、これに生命と意識を与えることが出来ようか。子の身体の中、生命に必要な部分を自分で作ったと言い得る人があろうか。いかなる主体が生命を受けるに適しているか、また、身体のどの器官、どういう作用が生命を受け入れ、これを維持するに必要なのか知らずに、人に生命を与えるなどということが考えられるだろうか。

五三 未だ存在を持たぬ物に生命を与えるということは、一つの生き物を作り、身体の各部分をこしらえて、各々の機能に適合させ、調和を計り、組合せた後、これに生きた魂を吹き込むことである。これだけのことを為し得る者は、確かに、自分のこしらえたものを屠る権利を持っている。しかし、昔も今も生きた魂を作る唯一の存在たる全能の神のこの測り知れない製作品を我物顔に屠ったりする程大胆な者があるだろうか。生命の息を吹き込むことが出来るのは神だけである。自分を人体の製作者と考える人があるならば、試みに、自分の儲けた子の器官を一つ一つ数えてみるがよい。各器官がどんな機能を持ち、どんな作用をするか、生きた、理性のある魂がいつこの不思議な構造を持つ身体に宿るようになったのか、いつ意識が始まったのか、自分のこしらえたこの機械がどうして推理したり、考えたりするのか言ってみるがよい。また、故障した時は、直してみるがよい。せめて、どこに欠陥があるのか言ってみるがよい。「目をつくれるもの(訳註:神のこと)見ることをせざらんや」と『詩篇』(第九四章九節)にあるが、まこと、この人達の自惚を御覧なさい。一つ器官を取ってその構造を見るだけで、十分、全知の設計者の存在を確信させられる。この設計者が人間を自己の製作品であると主張し得ることは明かで、神の普通の名称が、聖書で、「我等をつくれる神、我等をつくれる主」となっている程である。それ故、われわれの著者が「父たるの身分」を誇張して「神が人類に振う権力すら父たるの権利に由来する」(『覚書』)と言っても、その場合の「父たるの身分」は、この世の父がそれを主張することは全然許されない種類のものである。神が王であるのは、神が実際に全人類をこしらえたからであるが、人間の親は、わが子をこしらえたと主張することは出来ぬから。

五四 仮に、人間が自分の子をこしらえる技術と能力を持っていたとしても、子をこしらえるということは、予め設計せずに出来る程わけのない仕事ではない。現在の欲望充足以上のことをおもんぱかって子をこしらえる親が千人の中一人でもいるだろうか。はかり知れぬ知恵を持つ神は、人間に強い交接の欲望を植えつけたのであるが、これは、普通は、子をこしらえる者の意志とは無関係である。時には、その人の意志に反する場合さえよくある。子をこしらえることを目論んだり、欲しがったりする人は、実は、子に生命を与えるきっかけとなっているだけで、これに与かる程度は、ギリシャ神話のデューカリオンとその妻が頭越しに石を投げて人類をこしらえたのとあまり違わない(訳註:大洪水から救われた、人類中ただ両人だけであるデューカリオンと彼の妻ピラは神の御告げによって頭を被い、着物を解き、石を拾い、頭越しに背後に投げると、それらの石が人間となった)。

五五 絶対権力が、親が子をこしらえ、これに生命を与えたことから生ずるとしても、父の支配権は母と共有なのである。女も等しくこれに与かることを誰も否定し得ないであろうから。否、女が長い間、自分の身体内で、自分の栄養の一部を割いて養っていたことを考えれば、与かり方が大きいと言いたい位である。子は、母の身体内でつくられ、母の身体から自分の身体を形成する材料、原料を受け取る。父が生殖行為の中の自分の役割を果すや否や、理性ある魂が、未だ形成されもしない胎児の中に宿るということは考えられない。子が受けるものがあるとすれば、その大部分は母からでなければならぬ。とにかく、子をこしらえるのは、母がその半分を受け持っていることは否定出来ない。それ故、父の絶対権威は、子を儲けることから生じたのではない。われわれの著者は「われわれは神が創造の時、アダムにエバを支配する権力を与えたのは、アダムが生殖行為でより高等で、より主要な役割をするからであることを知っている」(『覚書』一七二)と言っているところを見ると、そうは考えていないらしい。しかし、確か、私の聖書には、そんなことは書かれていない。私がこれに答えるのは、ロバート卿が聖書のそう書かれてある箇所を示してからでも遅くはないであろう。しかし、ロバート卿の啓示と神の啓示の間には非常な相異があるにも拘らず、卿が彼自身の想像を、神から授かった正しい真理とすることは珍しくない。この場合も、聖書には、「其の生みの父母」(『ゼカリヤ書』第一三章三節)と書かれてあるのである。

五六 子を捨て児にしたり、売ったりする習慣を、親が子を支配する権力の一つの証拠であるという主張は、ロバート卿の側から言えば、巧妙な議論であるが、この説が世人に認められるのは、人間として最も破廉恥で、最も背徳的な殺人にその根拠を置いているだけの為である。こんな残酷な行為は、ライオンの檻や狼の洞穴にも行われない。これらの獰猛な野獣も、その子を可愛がり、大切にする点では、神と自然の命令によく従っているのである。彼は子を養う為に猟をしたり、寝ずの番をしたり、戦ったり、時には飢え死することすらあるが、子が独立して行けるまでは、決して、手放したり、見棄てたりすることはしない。そうだとすると、最も野性の動物以上に自然にもとる行為をすることは、人間にだけ許された特権なのであろうか。神は、たとえ挑発された場合でさえ、人の生命を、それも全く赤の他人の生命を奪うことを、死罪という厳罰を以って禁じているが、その同じ神が、われわれが、世話と監督を委ねられ、神の啓示ばかりでなく、自然と理性によっても扶養の義務を命ぜられている子を死に至らしめるのを黙許するだろうか。神は、生きとし生ける各種族の繁殖と存続に、特に注意を払い、各個体をして、この目的に合致する行動を取らせるように強力な措置をとる。彼等は、時には、この為に自分一個の利益を犠牲にし、また、この子孫保存という最も強い本能が、彼等の個々の肉体保存の本能を圧し去る時には、かの自然が万物に教える自己保存の原則をさえ忘れるかに見える程である。子の為に、臆病な動物が勇敢になり、獰猛な動物がやさしくなり、貪欲な動物が気前よくなるのを見うけるのはこの為である。

五七 かつてなされたことが、将来なすべきことの基準となるならば、われわれの著者は、「この絶対的な父の権力」の例をその完全な形で、歴史の中からいくらでも拾えるであろう。例えば、かつて、ペルーには、子を肥らせて食う為に生んだ人々のあったことをあげることが出来よう。この話はあまり異常であって、私は、ここで、歴史家の記述をそのまま引用せずにはいられない。「ある地方には、瀕死の者の呼吸がとまるのも待ち切れず、傷口から流れ出る血を吸う人肉好きの人種がいる。彼等は公共の人肉屠殺場を持ち、彼等の狂気じみた人肉嗜好癖は、戦争で捕えた女に生ませた自分の子をも容赦しない程である。彼等は、とらわれの女を妾にし、それに生ませた子に美食を与えて肥らせ、十三歳頃になると殺して喰べる。子の母親たちに対しても、彼等が子を生む年齢を過ぎ、焼肉の材料を供給する能力を失うと同様の処置を取る」(ガルシラソ・ラ・ヴェガ、『インカ族(ペルー)史』一巻一二章)

五八 人間を天使に近づかせるものは理性である。人間は、ひとたびこれを失うと、ペルーの記事のように、動物以下の残酷な行為をさえ考え出すものである。浜の真砂より豊かで、海洋より広い思想を持つ者でも、唯一の案内星であり、羅針盤である理性が役をなさなくなって、きまぐれな激情に駆られて狂気じみた行動をする時は、これとすこしも変らない。人間の頭は、絶えず落ちつかず、色々のことを考え出すものであり、理性を失った意志は、どんな途方もないことでもやりかねないものである。こういう状態においては、最も妙なことをする人間が最善の指導者と考えられ易く、最も多くの追随者を獲得するものである。愚かな者や狡猾な者の始めたことも、流行によってひとたび確立されれば、習慣がこれを神聖なものとし、これに反対したり、疑を挟んだりすることは、生意気なこと、狂気の沙汰とさえ思われる様になる。偏見を持たずに世界を眺める者は、諸国家の宗教、政治、風習のかなりの部分が、このようにして始まり、このようにして続けられていることを発見して、人間の間で盛に行われている習慣にあまり敬意を表したくなくなるであろう。理性も教育もなくとも、自然を師匠として正道を踏みはずさぬ住民のいる森林の方が、自ら文明人、理性人と称しながら、先例を楯に邪道にそれる人間の多い都会、宮殿より、人倫の道を教えるに適していると考えるであろう。

五九 そこで、ロバート卿の言う様に「昔は子を売ったり、去勢したりすることが普通だった」(『覚書』一五五)としよう。子を捨て児にしたとしよう。更に、お望みなら、一層大きい権力たる、肥らせ、食膳に供する為に子を生んだとしてもよい。もしこの事実があるということが、直ちに、これをなす権利の証明となるならば、姦通、近親相姦、男色などもその例は古今に多いのであるから、同一論法によって正当化し得る。思うに、これらの犯罪の主な罪状は、血統、家柄を乱さず、最も完全な状態で、そして、その為に必要な結婚という安全な手段で、人口の増加、人類の存続を計ろうとする大自然の意志に反する点にある。

六〇 われわれの著者は、天賦の父権を確証しようと、聖書から神の明確な掟を引用して、その根拠としようとしているが、それは、たどたどしいものである。「十戒の中の『汝の父を敬え』という文句は、『王へ従え』という掟を意味するが、これは、王権が天賦のものたることを確証する言葉である(『パトリアーカ』二三頁)。多くの人は、神の命令を、単に抽象的な支配に過ぎないと解しているが、聖書の中の神のこの種類の命令は、父権として現われたもの以外には証明することは出来ないであろう。従って、長上への服従の命令は、『汝の父を敬え』という言葉となっている。そこで、支配の権力、権利だけでなく、支配の形態、支配者なども、みな、神の定めたところである。人類の最初の親は、神から直接創造された父であるから、単なる権力だけでなく君主的権力をも持っていた」(『覚書』二五四)と。われわれの著者は、同じ目的で、他の箇所でも、この掟を引用している。しかも同じ仕方で、いうのは、「及び汝の母」を、聖典にない疑わしい字句かのように、いつも省略しているのである。これは、われわれの著者がいかに正直であるか(訳註:皮肉な反語)、また、このように自己弁護の為に聖書の神聖な掟をも当面の目的にかなうように歪曲し得る程の熱狂を必要とするとは、彼の主張はいかに正しいかをあますところなく証明するものである。このやり方は、真理が理性と啓示によって示されるが故に、真理を喜ばず、真理以外の目的で主義、党派を支持し、どうしてもこれを護ることに決めれば、自分に都合のよい言葉や意味をプロクラステス(訳註:古代ギリシャの強盗で、旅人が鉄の寝台より長ければ、余った部分を斬り短ければ引き延ばして寝台と同長にしたと言われる)が彼の客にしたように勝手に伸したり縮めたりして自分の考えと大きさを合せようとする連中には決して珍しいやり方ではない。こんな取扱い方を受ければ、どんな言葉でも、かたわで役に立たないものになってしまう。

六一 もし、われわれの著者がこの掟を、勝手に変えずに、神の言葉通り、父と共に母をも記していたら、この掟が彼の説を頭から否定するものであること、即ち「父の君主的権力」を確立するどころか、母を父と同等にし、父にも母にも服従を捧げねばならぬことを命ずる言葉なることは誰の目にもわかるであろう。父母を敬うこと、これは絶えず聖書に繰返されている主題である。「汝の父母を敬え」(『出エジプト記』第二〇章一二節)。「その父あるいは母を打つ者は必ず殺さるべし」(同書第二一章一五節)。これは「その父またはその母をのろう者は、必ず殺さるべし」(『レビ記』第二〇章九節)及び『マタイ伝』第一五章四節のキリストの言葉となって繰返される。「汝らおのおのその母とその父をおそれよ」(『レビ記』第一九章三節)。「人にもしわがままにしてそむきもとる子あり、その父の言にも母の言にもしたがわず、父母これを責るも聴くことをせざる時は、その父母これをとらえて我々のこの子はわがままにしてそむきもとる者、我等の言にしたがわざる者と言うべし」(『申命記』第二一章一八―二一節)。「其父母を軽んずる者はのろわるべし」(『申命記』第二七章一六節)。「我が子よ汝の父の教えをきけ、汝の母ののりを棄つることなかれ」はソロモンの言葉である。この王は父として、王として、自分がどんな権力を持っているかをよく承知していながら、『箴言』全体を通じて、子に教訓を与える時、いつも父と母をいっしょにしている。「父にむかいて、汝何ゆえに生むことをせしやといい、女にむかいて、汝何ゆえに産のくるしみをなししやという者はわざわいなるかな」(『イザヤ書』第四五章一〇節)。「彼等汝の中にて父母をいやしむ」(『エゼキエル書』第二二章七節)。「人もしなお予言することあらば、其生みの父母これに言わん。汝は生くべからず、しかしてその生みの父母これが予言しおるを刺さん」(『ゼカリヤ書』第一三章三節)。ここでは、父だけでなく、父母は共同に生殺の権力を持っている。旧約聖書の掟はこういうものであった。新約聖書でも、同様に、父母は共通に子供から服従を受けている。「子たる者よ両親にしたがえ」(『エペソ書』第六章一節)というのが普通で、私は、「子たる者よ汝の父にしたがえ」とだけあるのを読んだ記憶を持たぬ。聖書の、子に親への服従を命ずる箇所は、母をも含んで居り、もし、父だけが子から尊敬、服従を受けるのであったら、聖書を根拠とし、その上に全理論を構成するわれわれの著者が、これを引用することを怠る筈はないと思う。聖書は、父と母の権威を、彼等が生んだ者に関して同等にして居り、ある箇所では、父を先に出す普通の順序を無視して、母を先に挙げているところさえある(『レビ書』第一九章三節)。このようにいつも、父と母をいっしょにするとは、聖書全体を通じてみられるところであり、従って、父母が子から尊敬を受ける権利は、共同で同等であり、一方が全部を主張したり、全然除外されたりすることはあり得ない。

六二 それでは、われわれの著者はどうして、この十戒の第五から、あらゆる権力は元来父にあったという結論をひき出したのであろうか。ロバート卿はどうして、君主的支配権が「汝の父(母)を敬え」という掟で不動のものとなったと思うのであろうか。十戒の命ずる敬意が、その内容を暫く措いて、生殖行為で、より高等でより主要な役割を論ずる男は、女を支配する権力を持つが故に、父だけの受ける権利であるとするなら、何故、神は後には、母も共にこの敬意に与からせるよういっしょに名を出しているのか。父は、彼の主権によって、子を母に敬意を捧げる義務から解放することが出来るだろうか。聖書は、ユダヤ人にこれを許してはいない。しかもそれでさえ、よく夫婦間には、離婚、別居の因となる程の不和があったのである。誰も、たとえ父がこれを命じても、子は母を敬わない、聖書の言葉で言えば、「いやしんで」(『エゼキエル書』第二二章七節)よいとは考えないであろう。それは、母が、父を敬う義務を怠る子を許さないのと同様である。これで、父は、この掟によっていかなる全権も、いかなる至上権も与えられたのでないことは明かになったと思う。

六三 この敬意を要求する資格が、子を儲けることから生ずる、自然に親に与えられた権利であること、それを神は多くの言明ではっきりと確認していることは、私も著者と同様にそう考える。また、「人間の権力は神、あるいは、自然に由来する授与物、例えば父の権力(私は母の権力も加えたい。誰も神がいっしょにしたものを離すことは出来ない筈だから)に制限を加えたり、規定的な掟を課したりすることは許されない」(『覚書』一五八頁)というわれわれの著者の法則も認める。故に、母は夫の意志とは関係なく、この神の掟によって、子に敬われる権利を持って居り、従って、父の絶対君主権がこの掟の上に建てられているとは考えられないし、これと矛盾しないとも考えられない。自分の他にも、同じ権力を同じ資格で持っているものがあれば、父の権力は君主的、即ちわれわれの著者の主張するように絶対的なものとは凡そ縁遠いものである。従って、「どの子も親に服従する義務から自由な筈はない」(『パトリアーカ』一二頁)ことを、彼自ら認めざるを得ない筈である。親と言えば、普通には父だけでなく母をも含むのであるが、ここでは、父だけを意味するのかも知れぬ。しかし、そんな使い方は私の経験では、これが始めて会った例である。こんな使い方が許されるなら、どんな言葉を使ってもよいことになる。

六四 われわれの著者の説に従えば、自分の子に対し絶対支配権を持つ父は、子の子に対しても同じ権力を持つ。この論理は、父が実際こういう権力を持つことが事実ならば正しい。しかし、われわれの著者に尋ねたいが、祖父が彼の君主権によって、孫を十戒の第五、父への敬意の義務から解放することが出るだろうか。もし、祖父が「父たる権利」によって独占的君主権を持ち、「汝の父を敬え」という掟によって、君主同様な被服従権を与えられているならば、孫がその父を敬わないのを許してもよいであろう。しかし、常識では、そんな事は考えられず、「汝の父母を敬え」という掟は、君主権力への絶対的服従を意味する言葉ではなく、何か他のものを意味するものであることは確かである。従って、親が自然本来に持ち、十戒の第五によって裏書きされているこの権利は、われわれの著者がこれから引き出そうとするような政治的な支配権ではあり得ない。政治的な支配権は、どの政治的社会においても、誰かが至上権として持ち、臣民甲を臣民乙に対する政治的服従から解放する力を持つ筈のものであるから。しかし、為政者のいかなる法律が、子に父母を敬わないでよい自由を与え得るであろうか。父母を敬うということは、純粋に親子の関係に附随する永遠の掟で、為政者の権力的なものは何も含まず、また、これに隷属もしていない。

六五 われわれの著者は、「神は、父に、子に対する支配権を他人に譲渡する権利あるいは自由を与えた」と言う。しかし、父が、子から敬意を受ける権利をすっかり譲渡するということはあり得ることだろうか。それはとにかく、この権力を譲渡しながら、同時にそれを保有することが出来ないのは確かである。従って、もし、われわれの著者の主張するように、為政者の主権がとりも直さず「至高の父の権威」であるならば、為政者がこの父の権利を独占する(父たるの身分があらゆる権威の源泉であるならば、為政者は父権を独占しているのでなければならぬ)時、父である臣民は、彼の子である臣民に権力を振ったり、彼から敬われたりする権利を持ち得なくなるわけである。すつかり他人の手に渡しながら、一部が自分に残るということは有り得ないから。従って、われわれの著者の主張に従えば、「汝の父母を敬え」という掟は恐らく政治的隷属、服従についての言葉とは解釈出来ないだろう。旧約でも、新約でも、「汝の親を敬え、汝の親に従え」と命令された世の子供達の父は、彼等同様、為政者の支配下にあり、その政治上の地位も同等の臣民であるからである。従って、子供達に、われわれの著者の意味で、「汝の親を敬え、親に従え」と命令するのは、服従を要求する資格のない者の臣民たれと言うことになろう。然るに、臣民の服従を受ける権利は、すっかり他の者に与えられているのである。それ故、この命令は、彼等に服従することを教えるかわりに、有りもしない権力を作り上げて叛乱を誘発することになろう。従って、「汝の父母を敬え」という掟が政治的支配権についての言葉だとしたら、この掟によって、われわれの著者のいわゆる絶対君主権は直に覆されるであろう。何故ならば、この敬意は、すべての子によって父に捧げられねばならぬから、父たるものはすべて、必然的に政治的支配権を持つことになり、その結果、すべての父はみな、君主となるからである。加うるに、母も又母の資格を持っているから、至上権を持つ君主は一人しかいないという説はここに破られることになる、一方、「汝の父母を敬え」という掟が政治的権力とは全く別のことを意味するならば、(当然、そうあらねばならぬ)われわれの著者の問題からは離れ、われわれの著者の役には立たないであろう。

六六 われわれの著者は、「十戒の中の『汝の父を敬え』という文句は、『王に従え』という掟を意味するが、これはあらゆる権力が、本来、父にあったことを言っているようである」(『覚書』二五四)と言うが、「汝の母を敬え」という文句もまた同じ掟を含んでおり、これは、あらゆる権力が、本来、母にあったことを言っているようである。旧約、新約を通じ、「親を敬え、親に従え」という文句はすべて、父母を共に含んでいるから、私は、この議論は、どちらも同じ位があると思うが、読者の判断にちたい。われわれの著者は、つづけて言う。「『汝の父を敬え』という文句によって、支配権は確立され、その形態は絶対君生権と定められる」(同上)と。もし、「汝の父を敬え」の意味が為政者の政治的権力への服従であるならば、これは、子の、肉親の父への義務とは関係のない言葉となる。父も臣民であり、われわれの著者によれば、あらゆる権力は君主の手中にあるのだから、肉親の父は、一切の権力を奪われ、子と同等に、臣民であり、奴隷であり、従って、政治的隷属を伴う「敬われ、従われ」る権利は持っていないのである。キリストの解釈(『マタイ伝』第一五章四説、その他)によっても明かな如く、「汝の父母を敬え」という掟の意味が、子の肉親の父母への義務であるのだから、これは政治的服従とは関係がある筈はなく、臣民対為政者の関係のような主権を要求するいかなる資格も、あるいは、政治的権威も持たない者への義務である。私人としての父たる身分と、最高の為政者として、臣民から服従を要求する資格とは相容れない別物であり、従って、この掟は、どうしても、肉親の父に関するものでなければならぬから、為政者への服従とは無関係であり、君主のどんな絶対権力も、われわれをこの義務から解放することは出来ない。この義務が何であるかは、しかるべきところで調べよう。

六七 私は、以上、われわれの著者の説の中で、後の人類を自由への資格を持たぬ、生まれながらの奴隷とさせた、かのアダムの(とわれわれの著者の称する)絶対的、無制限的主権を主張する部分(第八節参照)を一通り吟味した。しかし、存在以外には何物も与えない創造が、アダムをして、彼の子孫の君主とならしめたのではないこと、また、アダムが『創世紀』第一章二八節で、人類の主人に制定されたのでもなく、子供達を押し除けて独占的に個人的支配権を与えられたのでもなく、ただ、「人の子」と共有的に、大地とその下級の禽獣を支配する権利、権力を与えられただけであること、アダムが『創世記』第三章一六節で、彼の妻子に政治的支配権を振うことを許されたのではなく、エバが罰としてアダムに隷属させられただけであること、即ち、家庭内の共同の問題の処理で、女性の地位が隷属的であることを予言されているだけで、夫たるアダムが、本来、為政者のものである生殺の権力を与えられたのではないこと、父が子を儲けることによって、子にこのような権力を振うようになったのではないこと、「汝の父母を敬え」という掟は、このような権力の授与に関わる言葉ではなく、ただ、子が両親に平等に(臣民たると否とを問わず、父だけでなく母にも)負う服従を意味する言葉に過ぎないことは、私がこれまで述べた所で明かと思う。これを認める以上、われわれの著者が自信たっぷりそうでないと言っても、人間は「天与の自由」を与えられているのである。何故ならば、ある特定の個人が至上権を握っていることを示す「万物の上にあって、永遠にむべき主」である神の明白な制定が証拠として提出されるか、あるいは人が自ら進んで目上の者への隷属に同意を与えるのでない限り、同じ性質、才能、能力を持つ者は、本来同等であり、共通の権利、共通の特権に与かるべきであるから。これは明瞭なことで、われわれの著者も「サア・ジョン・ヘイワード、ブラックウッド、バークレー等王権擁護の熱烈な論客もこれを否定し得ないで、異口同音に、人類の天賦の自由、平等を疑うべからざる真理として認めている」と告白している。われわれの著者がこれまで述べて来たことは、アダムが絶対君主であり、従って人間は生まれながら自由ではないという彼の一大主張の証明となるどころか、かえって、自分で自分の説を破った結果となっている。彼一流の論法を用いれば、「この根本原理に欠陥があって役をなさぬ以上、絶対権力、専制という巨大な機構の全骨組も自ら崩壊する」わけである。こんな出鱈目で薄弱な基礎の上に建てられた説に対しては、これ以上の返答は無用であろう。

六八 しかし、われわれの著者は、他人の労をわずらわすまいという好意から、わざわざ、自ら、その矛盾撞着した立論によって自説の弱点を曝露する努力を惜しまない。彼は、アダムの絶対的独占的支配をどの頁にも盛に説き、終始自説の基礎としていながら、「アダムが彼の子供達の主人公であったように、彼の支配を受けている子供達も、また、自分の子供達には命令的権力を振う」(『パトリアーカ』一二頁)と言う。即ち、われわれの著者自身の計算によれば、アダムが父として無制限無分割の君主権を振った期間は、甚だ短く、僅かに最初の一世代だけで、孫が生まれるや否や、流石のロバート卿も、彼の君主権について、甚だみすぼらしい記述しか与えられないようである。何故ならば、「アダムは父として、子供達に絶対的、無制限的君主権を振い、更に、その同じ権力によって子供達の子にもこれを繰返し、全世代の者に及ぶ権力を振っているが、同時に、彼の子、カインとセスもまた、彼等の子に父権を振う」というのであるから。彼等は「絶対的な主人」であると同時に、臣民であり、奴隷である。アダムは「一族の祖父」として一切の権威を持ち、カインとセスは父としてその一部を持つわけである。アダムは、カインとセスを儲けたことにより、彼等と彼等の子孫に絶対権力を振う、と同時に、カインとセスも同じ資格で、彼等の子孫に絶対権力を持っているのだ。ところが、「それは違う」とわれわれの著者は言う。「アダムの子供達が、アダムの支配下にありながら、彼等の子に権力を振うのは、最初の親に対し従属的という条件の下である」いかにもまことしやかに聞える議論ではある。ただ、それが無意味の言で、且つ、彼自身の他の箇所で言う言葉と両立しないことが残念である。むろん、私は、アダムが子に絶対権力を振ったことを仮定すれば、彼の子の誰かが兄弟の一部あるいは全部に対し、彼から委任された権力、即ち従属的な権力を振っていたことを認める用意は十分にある。しかし、それはわれわれの著者がここで言う権力とは異なる。彼の言う権力とは授与、譲渡や委任によって生ずる権力ではなく、父たる身分によって、子に対し振う(と彼の考える)天賦の権力である。何故ならば、先ず「アダムが子供達の主人であったように、子供達もまた彼等自身の子供に対しては権力を持つ」と彼は言うから、従って、アダムの子供達は、彼等自身の子には、アダムと同じ方法、同じ資格、即ち、子を儲けた権利、「父たる権利」によって主人であるわけである。次の理由は、この権力が委任された権力ならば、自身の子だけに限定はされず、彼等以外の者にわたってもよい筈であり、特に「彼等自身の子に対して」と限っているところをみれば、われわれの著者がこれを天賦の父権の意味に用いていることは明かであるからである。第三に、この権力が委任された権力であるならば、聖書に書かれていなければならぬが、彼等が、彼等の子に対し父として当然所有した権利以上の権力を、振っていたことを肯定させるような根拠は聖書のどこにもない。

六九 しかし、われわれの著者がここで言う意味が、父権以外のものでないことは、すぐ次の文句で、「アダムの子にしろ他の誰の子にしろ、その親への隷属から自由ではあり得ない」と推論しているところをみれば、疑いのないところである。これによってみれば、彼が、ここで、一方で「権力」と言い、他方で「隷属」と言っているものは親子間の「天賦の権力」と「隷属」であるらしい。凡そ、子たる者が親に捧ぐべき服従はこれ以外にあろう筈はなく、これをわれわれの著者は絶対的、無制限的と主張しているのである。ところで、われわれの著者は、アダムはこの天賦の権力を彼の子孫に振っており、しかも、アダムの子供達も、アダムの存命中において、彼等自身の子供達にこの同じ親の権力を振っていたと言っている。即ち、アダムが彼の子供に絶対的無制限的な権力を振っていた時、同時に、彼の子供達も彼等自身の子供に絶対的、無制限的な権力を振っていたわけである。二つの絶対的、無制限的な権力が共存しているわけであるが、どうしたらこの両者を両立させることが出来るのであるか、あるいは、両者と「常識」とを両立させることが出来るのであるか、出来る人があったらやってもらいたいものである。彼が持ち出す「従属的」という但し書は、何の役にも立たないだけでなく、かえって彼の説を一層滑稽にするだけである。恐らく、「絶対的、無制限的な」、否、「制限し得ぬ権力」を「従属的」に持つということ以上に明瞭な自己撞着はあり得ないから。また、「アダムは、彼のすべての子孫に無制限の父権を振う絶対君主である」と言っているが、彼のすべての子孫は絶対的に彼の臣民、われわれの著者の言葉で、「彼の奴隷」であるわけである。また、「子と孫は同等に隷属、奴隷の状態にある」が、しかも、「アダムの子供達は、彼等自身の子供に父権(即ち、絶対的、無制限的権力)を振う」と言っているが、これは、平易な言葉で言えば、彼等は、同時に、同一の政体内で奴隷であり、絶対君主であり、又臣民の一部が、親たる天賦の権利により、他の「臣民」に対し絶対的、無制限的権力を振うことを意味する。

七〇 われわれの著者は、ここで、自身父の絶対権力に隷属している者も、自分の子にはある権力を持つことを言おうとしているのだと好意的に解釈する人があるかも知れない。その解釈は、確かに、いくらか理に近づいているが、われわれの著者を支持することにはならないであろう。というのは、われわれの著者が父権を云々するのは、常に、絶対的無制限的権威としてであり、特に、自ら限界を与えて、これがどの程度にわたるものかを示さない限り、ここに限っていつもと別のものを意味すると考えるわけにはゆかぬからである。彼の意味するものが、かの広汎な父権であることは、直ぐ次の「子の隷属は一切の王権の起源である」(『パトリアーカ』一二頁)という言葉から明かである。われわれの著者が前に言った「子の親への」――従って、アダムの孫達対彼等の親の場合も含まれる――「隷属関係」は、「一切の王権」、即ち、われわれの著者のいわゆる、「絶対的な、制限することを得ない権威」の源泉となるものである。かくて、アダムの子供達は、アダムに対しては、彼等自身の子供達と同様臣民の関係にありながら、同時に、彼等自身の子供に対しては「王権」を持つことになる。どういう意味で言ったにせよ、われわれの著者は、アダムの子供達が父権を持っていたこと、同様に、他のすべての父も自分の子に対しこの父権を持つことを認めているのである(『覚書』一五六)。このことから、必然的に、アダムの子供等は、アダムの存命中にさえ、すべての他の父と同様、われわれの著者流に言えば、「父たるの権利によって、彼等自身の子に王権」(『パトリアーカ』一二頁)を振っていたか、あるいは、「アダムは、彼の父たるの権利にも拘らず、王権を持っていなかった」かのいずれかであるという結論が導き出される。何故ならば、父権は、これを持つ者に、「王権」を与えるか与えないかのいずれかでなければならず、もし、与えないとすれば、アダムにしろ、他の誰にしろ、父権によっては、君主となることは出来なくなり、われわれの著者の政治論はここに終りをとげる。また、もし、与えるとすれば、「父権」を持っている者ならば、誰でも「王権」を持つことになり、われわれの著者のいわゆる家長の支配権によって、父の数だけの王が出現することになる。

七一 われわれの著者がつくり上げた絶対君主権が、いかなるものであったか、これは彼と彼の弟子達の研究にまかせるが、各国の君主等は、父の数だけの絶対君主をこしらえたこの新な政治論にさぞ大いに感謝するところがあるであろう。しかし、このために、われわれの著者を責めてはいけない。彼の原理によって議論を行えば、この結果になるのはやむを得ないことだから。父たる者に、子を儲ける権利を通じて「絶対権力」を与えてしまったわれわれの著者は、子が、自身、子を儲けて父となった時、どの程度この権力を持たせるかについては容易に決しかね、その結果、一切の権力をアダムに与えながら、しかも、その一部を彼の子供達のために、彼等が親になった時、たとえ彼の存命中でも、拒み得ない権利として認めるという甚だむずかしいことになったわけである。そのために、われわれの著者の表現は頗る曖昧になり、彼が父たる身分と呼ぶこの天賦の絶対権力がどこに置かるべきかについて甚だ不明瞭である。即ち、

ある時は、『パトリアーカ』一三頁における如く、アダムだけがこれを持つ。(『覚書』二四四―五及び序文)

ある時は、親が持つ。この「親」は父だけの意味にはとうてい取れない。(『パトリアーカ』一二、一九頁)

ある時は、同上一二頁における如く、子供達が彼等の父の存命中に持つ。

ある時は、同上七八―九頁における如く、一家の父。

ある時は、漠然と父。(『覚書』一五五)

ある時は、アダムの相続人。(同上、二五三)

ある時は、アダムの子孫。(同上二四四、二四六)

ある時は、はじめの父達、即ち、ノアの子、もしくは孫達。(同上二四四)

ある時は、最も老齢の親。(『パトリアーカ』一二頁)

ある時は、すべての王。(同上一九頁)

ある時は、すべて至上権を持つ者。(『覚書』二四五)

ある時は、全人類の親であった最初の祖先の相続人。(『パトリアーカ』一九頁)

ある時は、選拳王。(同上二三頁)

ある時は、数の多少に拘らず「国家」を支配する者。(同上)

ある時は、この権力を奪い得る者――「簒奪者」。(同上及び『覚書』一五五)

七二 かくて、将来、一切の権力と権威と支配権を帯びることになるロバート卿のつまらぬ新機軸、即ち、君主を制定しその王位を定め、臣民を服従させる権能を持たせるに至る「父たる身分」は、彼によれば、誰がどんな方法によって獲得してもよいものであり、従ってまた、彼の政治論によれば、民主政治に王権を附与し、簒奪者を正当な君主とするものである。「父たる身分」がこんなに見事に色々の芸当が出来るならば、ロバート卿と彼の追随者等は、この全能の「父たる身分」で以って、世を害すること、まことに測り知れないものがあるであろう。何故ならば、この全能の「父たる身分」は、正当の政府を動揺転覆させ、代りに混乱、専制、簒奪をはびこらせる以外には何の役にも立たぬから。