統治二論 前篇 ロバート・フィルマー卿の誤れる原理及び根拠の摘発並びに打倒, ジョン・ロック

第七章 主権の起源としての「父たる身分」及び所有権の考察


七三 これまでの章で、私は、われわれの著者がアダムの絶対君主権をどう考えているか、また、これをどういう資格の上に置いているかを調べた。われわれの著者が、後世の君主に絶対君主権を与える根拠の中で、最も導き出し易いものとして、主に強調しているのは、「父たる身分」と「所有権」との二つである。従って、彼が「天賦の自由という不合理、不都合な説」を抹殺するために考え出した方法は、「アダムの天賦の個人的支配権」を主張することである(『覚書』二二二)。われわれの著者は、この主張に合わせるように、「支配権の原理、原則は必然的に、所有権を源としてこれに依存する」(同上一〇八)。「子の親への隷属は、一切の王権の起源である」(『パトリアーカ』一二頁)。「地上の一切の権力は、父権から由来したか、簒奪したかのいずれかであり、他には、その起源を見出すことは出来ない」(『覚書』一五八)などと言っている。私は、ここで、どうして、「支配権の原理、原則は必然的に、所有権を源としてこれに依存する」ことと、しかも「一切の権力の起源は父権以外には見出されない」こととが両立するのか調べるつもりはない。「所有権」と「父たる身分」とが異なることは、「采邑さいゆうの領主」と子供等の父という言葉の相違と同じであり、「父たる身分」より他に源はあり得ないと言いながら、どうして「支配権の原理、原則は、所有権を源としてこれに依存する」のかわかりにくいからである。更に、これら両者がどうして、われわれの著者が神のエバへの宣言(『創世記』第三章一六節)について言う「これが、支配権の最初の授与である」という言葉(『覚書』二四四)と両立するのか私にはわからぬ。もし、神のこの言葉が支配権の起源であるならば、支配権はその起源を「所有権」にも、「父たる身分」にも仰いでいないことを、われわれの著者自身告白しているわけである。彼がアダムのエバに対する権力の証拠としてあげるこの聖書の本文は、彼が「父たる身分」について、「これは一切の権力の唯一の起源である」と言っているのと矛盾せざるを得ない。アダムがもし、われわれの著者の主張するような」王権をエバに振っていたならば、それは、子を儲けるという資格以外によってで、なければならぬから。

七四 すこしく注意してわれわれの著者を読む者ならば、他にも無数の矛盾した文章を発見することが出来るが、それらと共に、この矛盾の解決は彼自身にやらせて、「アダムの天賦の支配権と個人的支配権」という二つの支配の起源が、両々相俟あいまって、われわれの著者によれば、その権力をこの二つの源の中に求めざるを得ぬ後の君主達の資格を証明し、確立する上にどう役立っているかを調べよう。アダムが神の授与によって、ロバート卿の望む程広汎に地球全土の主人、独占的所有者となったと考えよう。また、父たる身分によって、子供達に無制限の至上権を振う絶対支配者となったと考えよう。その場合、アダムが死んだ時、彼のこの「天賦の支配権」と「個人的支配権」はどうなったであろうか。恐らく、「彼の最も近い相続人に伝えられた」と答えるに違いない。現にわれわれの著者は、数箇所でそう言っている。しかし、同一人に、「天賦の支配権」と「個人的支配権」が伝わることは不可能であろう。父のすべての財産と土地は長男に伝わるべきこと(これは証明を必要とする)、また、長男は、その資格によって、父の「個人的支配権」を一切獲得することが認められるにしても、父の「天賦の支配権」即ち、父権は、相続によって伝わることは有り得ないから。この権利は、子を儲けることによって生ずる権利であり、誰も自分が儲けた者でない者にはこの天賦の支配権を振うことは出来ないのである。あることの唯一の根拠となる行為をなさずに、そのものに対し、権利を主張し得るということは、とうてい考えられないから。父が、唯「儲ける」という資格だけで、子供達に「天賦の支配権」を振うならば、自ら子を儲けたことのない者は、この「天賦の支配権」を振うことは出来ない筈である。従って、「生を享ける者は、生まれるという事実のうちに、既に、自分を生んだ親の臣民たるべく約束されている」(『覚書』一五六)というわれわれの著者の言葉が正しいにせよ、正しくないにせよ、兄弟は、生みの親ではないから、人は、生れるという事実そのもののうちに、兄弟の臣民たるべく約束されることはあり得ないと結論せざるを得ない。人が生まれることにより同時に二人の別々の人の天賦の絶対支配下に置かれるということは考えられないし、また、人が生まれることによって、父の「天賦の支配権」下に置かれるのは、父が彼の生みの親だという唯一の理由によると言いながら、彼の生みの親でない長兄の「天賦の支配権」下にも置かれるというのは意味をなさぬから。

七五 アダムの「個人的支配権」、地上の禽獣に対する彼の所有権は、彼の死によって、全部そのまま、彼の相続人である長男に伝ったが、(伝ったとしなければ、ロバート卿の絶対君主権と彼の「天賦の支配権」はたちまち終りを告げる)子を儲けることによって得られる父の支配権は、アダムが死ぬや否や、各々自分の子を持つアダムの子供達が、彼等の父と同じ資格で、相互に平等に、所有するところとなったのである。カイン(アダムの長男)は、相続人として「所有権」を独占し、セス(アダムの三男)と他の子供達は、カインと同様「父たる身分」を持つから、「所有権」に基づく主権と「父たる身分」に基づく主権は分離されるに至るわけである。こう考えるのが、われわれの著者の説一般と、彼がアダムに与えた主権要求の二つの資格の最も好意的な解釈であろう。しかし、それらの資格の中、いずれか一つは、無意味である。どうしても両者の並立を主張するならば、君主の権利を混同させ、アダムの子孫の間に支配権の混乱を招くのが関の山であろう。この支配権への二つの資格は、同時に伝わり得ないものであるが、ロバート卿自身、「アダムの子供達は、個人的支配権によって、別個の領地を持った」(『覚書』二一〇、『パトリアーカ』四〇頁)と言う以上、分離し得ることを自ら認めているものであり、彼がこれを論拠としていることは、どこに主権の所在があるのか、また誰に服従が捧げらるべきかという問題を起すことによって、常に彼の根本主張に疑点を投げかける因となる。「父たる身分」と「所有権」は別々の資格であり、アダムが死ぬや否や別々の人の手に帰するのであるから。それでは、いずれがいずれに優先するのであろうか。

七六 われわれの著者自身の説明を聞こう。彼はグロティウスを引用して、「アダムの子供達は、彼の死ぬ以前に、授与か、譲渡か、あるいは他の何等かの譲与によって、各々個人的支配権によって管理する領地を得た。即ち、アベルは羊とその牧場を獲得し、カインは畑と都市の敷地となるノドの地を所有したと言う」(『覚書』二一〇)。ここで、アダムの死後、この二人の中いずれが主権者になったかは明かである。即ち、カインとわれわれの著者は言う。どういう資格でか。「相続人として。何故ならば、一家の親だった者の相続人は、自分の子だけでなく、兄弟にも主人であるから」と(『パトリアーカ』一九頁)。カインは何を相続したのか。それは、アダムの全財産、アダムの個人的支配権の及ぶすべての物をではない。何故ならば、われわれの著者自身も認めているように、アベルも彼の父から受けついだ資格によって、個人的支配権による牧場の独立的領有を得たのだから。そうすると、アベルが個人的支配権によって所有していたものは、カインの支配から独立している筈である。他人の個人的支配権下にあるものに、自分の個人的支配権を振うということは不可能であり、従って、カインのアベルに対する主権も、この個人的支配権の喪失と共に喪失したのである。そして、直ちに、二つの主権が興り、われわれの著者の仮想する「父たる身分」はなくなってしまい、カインはアベルに対し君主ではなくなる。あるいは、もし、カインが、アベルの個人的支配権にも拘らず、彼に対する主権を保有しているならば、われわれの著者がそうでないと言っても、「支配の根本原理、原則」は所有権とは何の関係もないものになる。勿論、アベルは、彼の父たるアダムに先立って死んでいるが、私の議論は、このことによって何ら影響を受けない。ロバート卿にはお気の毒だが、私の議論は、アベルの子供達にもセスにもカインの一家を除くアダムのすべての子孫にも当て嵌まるのだから。

七七 われわれの著者は、「父より全世界を三分されたノアの三人の息子」(『パトリアーカ』一三頁)についても、同様な矛盾に陥っている。ノアの死後、君主権は三人の中、誰に確立されたのであろうか。われわれの著者は三人共にと言うかの様であるが、それならば、王権は土地の所有に基礎を持ち、「個人的支配権」に由来するわけで、父権、即ち、「天賦の支配権」には基礎を置かないことになる。従って、王権の起源としての父権は存在しないことになり、われわれの著者が、あれ程に書き立てた「父たる身分」なるものも跡方なく消えてしまう。また、もし、ノアの長男であり、相続人であるセムが「王権」を受けついだのであるとしたら、「ノアが息子に世界を分譲するために行った抽籤ちゅうせんも」、「各息子の分け前を定めるため彼が十年間にわたって地中海に試みた航海」(『パトリアーカ』一五頁)も無駄な努力だったであろう。ノアがハムとヤペテになした授与は、セムがこの授与にも拘らず、ノアの死後直ちに、彼等の主人となるのであったら、ほとんど無価値なものとなり、折角、ノアが世界を分割して、これを彼等に与えても、害にこそなれ何の役にも立たなかったろうから。また、もし、この「個人的支配権」の授与が各々割当てられた領地について有効であるならば、ここに、相互に従属的関係のない二つの異なった種類の権力が打建てられることになり、われわれの著者が「人民の権利」を破ろうとして動員する色々の不都合(『覚書』一五八)がそのままここに現れてくる。今、その文章を、「人民」の代りに「所有権」とする他は、われわれの著者の言葉そのままに引用する。「地上の一切の権力は、父権から由来するか、簒奪したかのいずれかで、他にその起源は見出されない。もし、相互に従属的関係のない二つの種類の権力が授与されれば、両者間に絶えず至上権への争闘が生ずるであろう。二つの至上権は両立しないから。父権が至上ならば、個人的支配権を基礎とする権力は従属的となり、これに依存することになる。また、所有権を基礎とする権力が至上ならば、父権はこれに従わねばならず、所有者の許可なくて、父権を行使することは出来なくなる。この結果、自然の秩序は全く破壊されるものと見做さなくてはならぬ」これが、二つの異なった独立権力の存在を否定するわれわれの著者自身の議論で、「人民の権力」を「所有権から生ずる権力」と直した以外は、彼の言葉そのままである。彼が自ら二個の別個の権力の併存を否定する彼自身のこの議論に答えおおせない間は、彼が、どうして全然ノンセンスではなく一切の王権をアダムの天賦の支配権と個人的支配権、即ち、「父たる身分」と「所有権」の両者から導き出し得るかはわからないであろう。この両者は、必ずしも同一の人間が兼有するものではなく、われわれの著者自身も認めているので明かなように、アダム、あるいは、ノアが死んで彼等の子の為に相続の道を開くや否や、分離された別々の資格である。もっとも、われわれの著者は、彼の著書でしばしば両者を混同し、自分に都合のよい時にいずれか都合のよい方を利用することを忘れない。しかし、この説の不合理な点は、次の章で、アダムの主権が後の君主へ譲渡される方法を吟味する時更に明瞭となろう。