科学的世界把握――ウィーン学団, オットー・ノイラート

科学的世界把握のウィーン学団


前史

形而上学的・神学的思考が、生活においてのみならず、学問においても再び盛んになってきていると、多くの人が主張している。ここで問題なのは、それが一般的現象なのか、それとも単に特定の限られた領域における変化なのか、という点である。この主張自体が正しいことは、大学の講義のテーマや公刊されている哲学書のタイトルを一瞥すれば容易に確認できる。しかしまた、啓蒙と反形而上学的な事実研究という反対の精神が、自らの存在と使命を自覚することによって、勢いを増してきている。幾つかの領域においては、思弁を排した経験に基づく思考方法が有力になってきている。この傾向は、最近高まりを見せている[形而上学への]反対によって一層強められている。

経験科学の全ての部門における研究活動には、この科学的世界把握の精神が息づいている。しかし、この精神を体系的に考え抜き、根本的に主張したのは、ごく少数の指導的な思想家だけであり、そのうち、同じ考えを持つ協力者を自分の周りに集められる立場にいる人間は、ごく僅かである。とりわけ形而上学に反対する努力が見出せるのは、いまだ偉大なる経験主義の伝統が健在なイギリスである。ラッセルとホワイトヘッドによる論理学および実在分析についての研究は、国際的な意義を持つ。アメリカでは、この努力は異なった形をとって現れている。ある意味では、ジェームズもこの中に含められよう。新生ロシアでも、部分的には古い唯物論的思潮に依拠しているとはいえ、科学的世界把握が強く求められている。ヨーロッパ大陸では、科学的世界把握の方向における生産的な仕事が、特にベルリン(ライヘンバッハ、ペッツォルト、グレリンク、ドゥビスラフなど)とウィーンに集中的に見出せる。

特にウィーンがこのような発展に適した土壌であった理由は、歴史的に理解できる。19世紀後半のウィーンでは、長らく自由主義が政治において支配的であった。自由主義の思想世界は、啓蒙主義、経験主義、功利主義、およびイギリスの自由貿易運動から生じたものである。ウィーンの自由主義運動においては、世界的名声を持った学者が指導的な地位にあった。そこで反形而上学的精神が涵養されたのである。ミルの著作を翻訳したテオドール・ゴンペルツ(1869-80年)、ズュース、ヨードルらの名前が思い起こされる。

ウィーンが科学的な方針による成人教育において指導的たりえたのは、この啓蒙精神のおかげだった。当時、ヴィクトール・アドラーとフリードリッヒ・ヨードルの協力の下に成人教育協会が創設され、発展していった。「市民大学講座」と「市民大学」が、ルード・ホフマンによって設置された。彼は著名な歴史家で、その反形而上学的な見解と唯物史観は、彼の全ての活動から明らかである。この同じ精神から、「自由学校」運動が生じたのであり、この運動が今日の学校改革の先駆となった。

エルンスト・マッハ(1838年生まれ)は、このような自由な雰囲気の中を生きた。彼はウィーン大学の学生および私講師(1861-64)であった。年を取ってから、彼のために帰納科学の哲学の教授職が作られたとき(1895年)になって、ようやく彼はウィーンへ戻ってきた。マッハは、経験科学、何よりもまず物理学を形而上学的思考から解放することに特別の努力を払った。絶対空間に対する彼の批判――これによって彼はアインシュタインの先駆となった――、物自体および実体概念の形而上学に対する闘い、感覚与件という究極要素から科学的概念を構築することについての探究などが思い出される。若干の点においては、科学的発展を彼に帰すことは正しくない。例えば、彼の原子論に対する態度や、感覚性理学によって物理学が促進されることを期待したことなどである。しかし、彼の見解の本質的な部分は以後の発展に積極的に利用された。後に、マッハの講座はルートヴィヒ・ボルツマンが引き継いだが(1902-06)、彼ははっきりと経験主義の考えを主張した。

物理学者マッハとボルツマンが哲学の講座に影響を及ぼしたことによって、物理学の基礎と結びついた認識論と論理学の問題に強い関心が寄せられたことは、当然の成り行きだった。人々はまた、これら基礎論の問題を通じて、論理学を革新する努力へと導かれた。これらの努力は、ウィーン大学においても全く別の方面から、ブランツ・ブレンターノが土壌を整地することによって、なされていた(彼は1874年から80年まで神学部の哲学教授、後に哲学部の講師を務めた)。ブレンターノはカトリックの聖職者としてスコラ哲学を理解してた。彼はスコラ論理学を直接ライプニッツの論理学改革と結びつける一方、カントと観念論の体系的哲学者たちを無視した。ブレンターノと彼の学派が、論理学を厳密に新しく基礎付けようと努力したボルツァーノ(『知識学』、1857年)その他の人々に理解を示していたことは、よく語られることである。あるとき、科学的世界把握の支持者はマッハとボルツマンの影響下にあると強力な主張の行なわれた集会があったが、その集会において、特にアロイス・ヘフラー(1853-1922)は、ブレンターノ哲学のこの側面を前面に押し出す発言をした。ウィーン大学の哲学会では、ヘフラーの司会によって、物理学の基礎論の問題とそれに関連する認識論と論理学の問題をテーマとする多くの討議が催された。哲学会の編纂によって『力学の古典への序論』(1899)およびボルツァーノの幾つかの論文(ヘフラーとハーンによる編集、1914年、1921年)が出版された。ウィーンのブレンターノ・サークルには、若きマイノング(後にグラーツ大学教授)がいた。彼の『対象論』(1907)は、確かに現代の概念論にある種の親近性があり、彼の弟子エルンスト・マリ(グラーツ大学)もまた論理計算の領域で仕事をした。ハンス・ピヒラーの初期の著作も、この思想サークルから生まれたものだ。

マッハとほぼ同時期のウィーンでは、彼と同世代の友人ヨーゼフ・ポパー=リュンコイスが活動していた。彼には、物理的・科学技術的業績のほかに、体系的とは言えないが壮大な哲学的な考察(1899)と合理的な経済計画(『国民生産隊』、1878)の仕事がある。彼は、ヴォルテールについての本で表明しているように、意識的に啓蒙の精神に貢献した。彼は、他の多くのウィーンの社会学者、例えばルドルフ・ゴールドシャイトらとともに形而上学を排斥した。注目すべきことに、ウィーンにおける国民経済学の領域においても、限界効用学派が厳密な科学的方法を発達させた(カール・メンガー、1871)。この方法はイギリス、フランス、スカンディナビア半島には根付いたが、ドイツは例外だった。ウィーンでは特にマルクス主義の理論が重点的に育成され、拡張されていった(オットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファディング、マックス・アドラーなど)。

こうした様々な分野からの影響を受けて、ウィーンでは特に世紀転換期から、より多くの人々が一般的問題を経験科学に緊密に結びつけて、熱心に議論する機会が増えた。とりわけ、物理学の認識論的・方法論的問題、例えばポアンカレの規約主義やデュエムの『物理理論の目的と構造』(彼の翻訳者は、マッハの支持者で当時チューリッヒ大学で物理の私講師をしていたフリードリッヒ・アドラーである)が問題となった。さらに、数学基礎論の問題、公理論、論理計算その他の問題も重要と見なされた。科学史と哲学史の観点から見ると、特に次にまとめたものが重要である。これらの特徴は、主にその著作が読まれ、議論の対象となった代表的な論者から知ることができる。

  1. 実証主義と経験主義:ヒューム、啓蒙主義、コント、ミル、リヒャルト・アヴェナリウス、マッハ。
  2. 経験科学の基礎、目的、方法(物理学や幾何学などにおける仮説):ヘルムホルツ、リーマン、マッハ、ポアンカレ、エンリケス、デュエム、ボルツマン、アインシュタイン。
  3. 論理計算とその実在への応用:ライプニッツ、ペアノ、フレーゲ、シュレーダー、ラッセル、ホワイトヘッド、ウィトゲンシュタイン。
  4. 公理論:パッシュ、ペアノ、ヴァイラーティ、ピエリ、ヒルベルト。
  5. 幸福論と実証的社会主義:エピクロス、ヒューム、ベンサム、ミル、コント、フォイエルバッハ、マルクス、スペンサー、ミュラー=リール、ポパー=リュンコイス、カール・メンガー(父)。

シュリックを中心としたサークル

1922年に、モーリッツ・シュリックがキール大学からウィーン大学へ招聘された。彼の活躍は、ウィーンの科学的雰囲気の歴史的発展の時宜を得たものだった。彼は、もともと物理学者として出発したが、マッハとボルツマンが創始し、ある意味では反形而上学的傾向を持ったアドルフ・シュテールが発展させた伝統に新しい命を吹き込んだ。(ウィーンには相次いで次のような人々が現れた。マッハ、ボルツマン、シュテール、シュリック。プラハには、マッハ、アインシュタイン、Ph.フランク。)

シュリックの周りには、次第に、様々な科学的世界把握の試みを一つの方向に統一しようとするサークルが形成された。人々はこうして集結することによって、互いに刺激しあい、実り多い成果を挙げた。サークルのメンバーは、著作が存在する限り、文献表に名前が載っている[編注:文献表は省略]。みな、いわゆる「純粋」な哲学者ではなく、個々の科学分野で活動している。しかもその出自も多様な分野に及び、もともと保持していた哲学的見解も様々であった。しかし、次第に統一感が醸成された。これには、「およそ語りうるものは明晰に語らなくてはならない」(ウィトゲンシュタイン)という特殊な科学的態度の影響もあった。意見が分かれていても、最終的には一致させることが可能であり、それゆえまた、一致は要求もされるのである。こうして、単に非形而上学的なだけでなく、反形而上学的な態度が全員の共通の目的を意味することが、ますます明確になってきたのである。

人生についての問題は、このサークルで議論されたテーマの中で重要なものではなかったが、これについてもまた、注目すべき意見の一致を見た。その意見は、純理論的観点からそう見える以上に科学的世界把握と強い親近性を持っている。例えば、経済学と社会学を改革する努力や、社会的関係を改善し、人類の統一を求める試みや、学校と教育を改革しようという企ては、科学的世界把握との内的な関連を示している。サークルのメンバーはこうした努力に賛同し、共感をもって考察した。そして幾人かの者は、これを強力に支援したことも知られている。

ウィーン学団は、閉鎖的なサークルとして共同研究をするだけでは満足しない。学団はまた、現在行なわれている諸活動が科学的世界観に好意的で、形而上学と神学に敵対するものである限り、それらと接触を持とうと努力している。今日、エルンスト・マッハ協会は、学団がより広い世間に語りかける場となっている。協会の目的は、その綱領に述べられているとおり、「科学的世界把握を育成し、広めること。協会は科学的世界把握の目下の状況について講演を行ない出版物を公表する。それによって、社会科学および自然科学の厳密な研究の意味を示すこと。こうして現代的な経験主義の思考の道具が形成されることになるが、これはまた、公的および私的な生活形成のためにも必要となるのである」。エルンスト・マッハ協会という名前を選んだのは、形而上学にとらわれないという基本的方針を表そうと意図してのことである。しかしこれは、マッハの個々の学説に賛成して綱領として受け入れた、ということではない。ウィーン学団は、エルンスト・マッハ協会との共同作業によって、時代の要請に応えられるものと信じている。すなわち重要なことは、研究者の日々の活動のための思考の道具を作り出すとともに、何とかして意識的に生活を形成しようとしている全ての人のための思考の道具を作り出すことである。社会と経済の秩序の合理的改革を推進しようとする努力の中に見られる活力は、また科学的世界把握の運動をも貫くものでもある。1928年11月のエルンスト・マッハ協会の設立において、シュリックが議長に選ばれ、彼を中心として科学的世界把握の分野における共同研究が極めて集中的に行なわれたことは、ウィーンの現状に呼応しているのである。

シュリックとPh.フランク共編の『科学的世界把握のための論文集』には、これまでのウィーン学団の主なメンバーの主張が収められている。


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