科学的世界把握――ウィーン学団, オットー・ノイラート

科学的世界把握


科学的世界把握を特徴づけるのは、固有のテーゼというよりも、むしろ基本的な考え方、論点、研究の方向性などである。目的としては統一科学が考えられている。様々な研究領域の成果を統合し、一つにまとめあげるための努力がなされており、この目的を設定したことで、共同研究に重点が置かれている。このことから、間主観的に把握可能なものが重要になる。ここから、中立的な形式的体系、つまり、歴史的言語の曖昧さから自由な記号体系の探究が始まり、また、概念の全体的体系も求められている。精密性と明晰性が求められ、不明瞭な遥遠や不可解な深遠は否定される。科学に「深遠(Tiefen)」は存在しない。あるのはただ表面(Oberfläche)だけである。複雑で、常に見通せるわけではなく、しばしば部分的にしか把握できない網を構成しているのも、全て体験されるものである。人間は全てのものに到達しうる。人間が全てのものの尺度である。ここには、プラトニストよりはソフィストとの、ピタゴラス学派よりはエピクロス学派との、この世の事物と現世を支持するすべての人々との親近性が現れている。科学的世界把握に解けない謎はない。伝統的な哲学の問題を明晰化することで、それらの一部は疑似問題であることが暴露され、一部は経験的問題へ変換されて経験科学の判断を仰ぐことになるだろう。哲学の仕事は、この問題と言明の明晰化にあるのであって、独自の「哲学的」言明を立てることにあるのではない。この明晰化の方法が、論理的分析である。ラッセルはこれについて次のように述べている。論理的分析は「数学者の批判的探究に依拠することで、徐々に成立してきた。私見によれば、ここにはガリレイが物理学に持ち込んだ進歩との類似性がある。証明可能な個々の結論が、証明不可能で、想像力に訴えるしかない包括的な主張に取って代わる」。

この論理的分析の方法は、新しい経験主義と実証主義を、多分に生物学的-心理学的志向を有する旧来の経験主義と実証主義から、本質的に区別するものである。誰かが「神は存在する」とか「世界の根源は無意識である」とか「生物には基本原理としてエンテレヒーがある」などと言うとき、私たちは「君の言うことは間違っている」とは言わない。代わりに「君はその言明で何を意味しているのか?」と訊ねる。そうすることで、次の二種類の言明の間に厳密な境界を引けることが明らかになる。第一の種類には、経験科学の中でなされる言明が属する。その意味は、論理的分析によって経験的所与についての最も単純な言明へ還元することによって、より厳密に確定される。すぐ上で述べたような言明が属する第二の種類の言明は、それを形而上学者が考えているような言明として考えるなら、全く無意味であることが明らかになる。もちろん、この種の言明は、しばしば経験的言明として再解釈することができるが、そのときには、形而上学者がまさに本質的と考える感情的内容は失われる。形而上学者と神学者は、こうした命題で何かを述べている、つまり、ある事態を記述していると勘違いしている。だが分析を行なうことで、これらの命題は何も語らず、ただ生活感情のようなものを表現しているに過ぎないことが明らかになる。そのような感情を表現することが、人生において重要な活動であることは確かである。しかし、そのための適切な表現手段は、叙情詩や音楽といった芸術である。芸術の代わりに理論という言語的衣装が選ばれると、本当は理論的内容などないのに、あたかもあるのかのように見せかけられる危険が生じる。形而上学者と神学者が言語に普通の衣装を被せておきたいのなら、彼らは、自分たちが記述ではなく表現を与えているのであり、理論という認識手段ではなく、詩や神話を与えているのだということを明らかにし、これを自覚せねばならない。もし神秘主義者が、私は全ての概念を超越したところにある体験をした、と主張するならば、その真偽について当人と争うことはできない。しかし神秘主義者は、その体験について語ることはできない。なぜなら、語るということは、概念において把握し、科学的に分析可能な事実状態へと還元することを意味するからである。

科学的世界把握は、形而上学的哲学を否定する。では、どうすれば形而上学の間違い方を明らかにできるだろう? この問いは、心理学、社会学、論理学など、様々な観点から述べることができる。心理学的な方向の研究は、まだ始まったばかりである。より深い解明への手がかりは、恐らくフロイトの精神分析の中にあるだろう。同様に、社会学的研究も始まったばかりである。こちらでは「イデオロギー的上部構造」の理論が挙げられよう。ここには、研究する価値のある未開の分野が広がっている。

これよりさらに盛んに行なわれているのが、形而上学の間違い方の論理的根源を解明する作業である。これは特に、ラッセルとウィトゲンシュタインの仕事によるところが大きい。形而上学の理論においては、既に問題設定に二つの論理的な根本的誤謬がある。一つは、伝統的言語の形式の非常に強い束縛に囚われていることであり、もう一つは、思考が論理的に成し遂げたことについての不明瞭さである。例えば日常言語は、物(「リンゴ」)も性質(「固さ」)も関係(「友情」)も過程(「睡眠」)も、全て同様に、主語として扱う言語形式を持っている。これに惑わされて、日常言語では、関数概念を事物として把握する間違い(実体化、物象化)を犯してしまうのである。言語に眩惑された似たような事例は、多く挙げることができる。そしてそれは不幸にも、哲学にも当てはまる。

形而上学の第二の根本的な誤謬は、思考がいかなる経験的材料も使用せずに、自ら認識へ到達することができるか、あるいは少なくとも、所与の事態から推論によって新しい内容に到達することができるという考え方にある。だが、論理学の研究の結果、全ての思考、全ての推論は、ある命題から、その命題の中に既に含まれているものしか含まない別の命題へ移行すること以外の何物でもない(トートロジー的変形)ことが明らかになった。従って、「純粋思惟」から形而上学を発展させることは不可能である。

このような論理的分析によって、本来の古典的な意味での形而上学、とりわけスコラ形而上学とドイツ観念論の体系的形而上学、それに加えて、カントと現代のア・プリオリズムの隠れ形而上学も克服された。科学的世界把握は、カントの認識論やカント以前および以後の存在論と形而上学が基礎を置くような、純粋理性によって無条件に正当とされる認識や「ア・プリオリな総合的判断」を認めない。カントがア・プリオリな認識の例と見なした算術と幾何学の判断、それに物理学のある種の基本命題については、後で論じる。現代的経験主義の基本テーゼは、まさに「ア・プリオリな総合的認識」の可能性を否定することにある。科学的世界把握によって知られるのは、あらゆる種類の対象についての経験的命題、および論理学と数学の分析的命題のみである。

科学的世界把握の支持者は、あからさまな形而上学とア・プリオリズムという隠れ形而上学を否定するという点で一致する。だがウィーン学団は、さらに、外界と他人の心的なものについて実在するとか実在しないと述べる(批判的)実在論観念論の言明にも、形而上学的な性格があると主張する。なぜなら、それらは、古い形而上学を論駁したのと同じ批判を受けるからである。そのような言明は、検証不可能なゆえに、つまり、事実内容を含まないがゆえに、無意味である。事物は、経験の全体構造の中に組み入れられることによって、「現実的」になるのである。

形而上学者が認識の源泉とみなして重視した直観は、科学的世界把握によって全く否定されるわけではない。しかし、直観によって得られえた認識一つ一つを、後から合理的に正当化することが求められるし、また必要でもある。認識を求める者には全ての手段が許されるが、それで得られた結果は、追試験に堪えるものでなくてはならない、ということである。直観の中に、感覚的経験内容を超えることができ、かつ、概念的思考の狭い拘束に縛られる必要のない、高貴で深遠な認識方法が見つかるという見解は、否定される。

科学的世界把握を本質的に特徴づける二つの規定がある。一つは、経験主義的実証主義的であるということである。つまり、直接的所与に基づく経験的認識しか存在しない、ということである。これによって、適切な科学の内容についての境界が引かれる。科学的世界把握を特徴づける第二の規定は、論理的分析の方法を用いることである。科学的研究は、統一科学へ到達するという目的を目指して努力しているが、それは経験的材料にこの論理的分析を適用することで実現される。個々の科学的言明の意味は、所与についての言明へ還元することによって与えられなければならない。そのため、どの科学分野に属していようとも、個々の概念の意味もまた、所与そのものと関係する最も低位の概念へ、段階的に還元することによって与えられなければならない。全ての概念にこの分析を適用すれば、諸概念は一つの還元体系、すなわち「構成体系(Konstitutionssystem)」に組み入れられることになるだろう。このような構成体系の構築を目的とした研究、いわば「構成理論」は、科学的世界把握が論理的分析を適用するための枠組みを形成する。この研究を推進しようとするとすぐに、伝統的なアリストテレス-スコラ的論理学では、この目的のためには全く不十分であることが判明する。日常的に考える際の直観的な推論プロセスを定式化するためには、すなわち、記号メカニズムによって自動的に制御される厳密な形式を作るためには、概念の定義と言明を明晰にする必要がある。これは現代の記号論理学(「論理計算」)において初めて可能になった。構成理論の研究が明らかにするように、理論体系の最下位の層には、自己の心に関する(eigenpsychisch)体験と性質の概念が属しており、その上に物理的対象が位置する。それらから他人の心に関する(fremdpsychisch)対象が構成され、一番最後に社会科学の対象が構成される。様々な科学分野の概念をこの構成体系に組み入れるには、その厳密な実行のために、多くの分野でまだなすべき課題が山積み状態である。概念の全体的体系の可能性を証明し、その形式を提示することで、同時に、全ての言明の所与に対する関連と、統一科学の構造形式が認識可能になる。科学的記述に含まれうるのは、事物の構造(秩序形式)だけであって、その「本質」は含まれない。人間を言語において結び付けているものは、その構造形式である。人間の共通認識の内容は構造形式の中に表現される。主観的に体験する性質――赤さ、快楽――は、それ自身はただの体験であって、認識ではない。物理的光学においても、基本的には、盲人にも理解できることだけが含まれるのである。


©2006 ミック. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 4.0 国際