クリスマスキャロル, チャールズ・ディケンズ

最後の精霊


精霊はゆっくりとおごそかに音をたてず近づいてきた。精霊がやってくるあいだ、スクルージはこの精霊が動きながら陰鬱さと神秘さを振りまいているように思えたのでひざまずいていた。

精霊は漆黒の上着にすっぽり身をかくし、頭も顔も姿も見せず、伸ばした片方の手以外は何も見えなかった。この手がなければ、夜からもまわりを囲む闇からもその姿を見分けることは難しかっただろう。

ただスクルージは精霊がそばにきた時、背が高く威風堂々としていることは感じ取ることができ、その神秘の存在は畏敬の念で彼を満たした。精霊は口も開かなければ、動きもしなかったのでスクルージにはそれ以上のことはわからなかった。

「私の前にいらっしゃるのは、これからくるクリスマスの精霊でしょうな?」とスクルージは口をひらいたが、精霊は何も答えず、ただ先の方を指し示した。

「まだ起こっていない事、これから起こる事の影をわしに教えてくれるんでしょう」とスクルージは続けた。「そうじゃないんですかい、精霊さま?」

まるで精霊がうなずいたかのように、その瞬間、上着の上の方がくしゃっとなった。それがスクルージに与えられた唯一の返事だった。

スクルージはこの時にはずいぶん精霊の相手をするのにもなれていたとはいえ、これほど押し黙った姿にさすがに恐怖をおぼえ、足はぶるぶるふるえ、あとをついていこうとしても立っていられないほどだった。その様子を見た精霊はしばし待って震えを止める猶予をくれた。

しかしスクルージの震えは止まるどころかいっそう悪くなり、なんともいえない恐怖にすっかり身を縮ませた。とくにあの暗いおおいの後ろでは精霊の目がじっと自分の方を見ているのに、自分ときたらどんなに目をこらしてもぼんやりした片手と黒い塊しか見えないのだから。

「未来の精霊さま!」スクルージは叫んだ。「今までの精霊さまよりあなたをずっと怖く感じます。ただあなたがわしによくしてくれようとしていることは知ってますし、今までの自分とは違う自分になろうとも思ってます。だから我慢してあなたにお供して、感謝しようとも思ってますが、ずっとしゃべらないおつもりですかい?」

なんら返答はなかったが、手は前を指し示していた。

「行きましょう! 行きましょうや!」スクルージはつぶやいた。「夜はすぐあけてしまいますし、わしにとっても時間は貴重ですから。わかってます、精霊さま、行きましょう!」

精霊はスクルージに近づいてきたときとおなじように動いていき、スクルージはその上着の影にくるまれるようにしてついていった。というか、持ち上げられて運ばれているようだった。

二人はたぶん街の中に入ったようだった。というより、むしろ街のほうがまわりに浮かんできて、ぐるりと二人の周りをとりかこんだかのようだった。二人は街の中心部、商人たちで混みあう市場に入っていった。商人たちは忙しそうに動き回りながら、ポケットの中でお金をちゃりちゃりいわせ、集まってなにやら話しては、時計を見て、思案にふけりながら大きな金色の印鑑をいじくったりしていた。スクルージもよく見知っている者たちだ。

精霊は商売人たちのあるかたまりのそばで立ち止まった。手はその集まりを指し示していたので、スクルージはその会話に耳を傾けた。

「いいや」でっぷり太ってぞっとするようなあごをした男はこう続けた。「どちらにせよよく知らんのだよ。知ってるのは死んだってことだけだよ」

「いつ死んだんだい?」別のものが尋ねた。

「昨晩だと思うよ」

「どうして、何がおこったんだい?」大きなカギ煙草入れからたっぷりとカギ煙草をつまみながら、また別のものが口をはさんだ。「殺しても死なないと思ったがな」「知るもんか」最初の男があくびをしながら答えた。

「やつの金はどうなるんだろう?」鼻に大きなできものができている赤ら顔の男が、まるで鶏があごのたるみをゆらすようにしながらそう尋ねた。

「聞いてないな」大きなあごの男はまたあくびをしながら答えた。「会社にでも遺したんでしょう。わしには遺してない。それだけは確かですな」

一堂はそこでどっと笑った。

「とても安上がりな葬式になるんでしょうな」同じ男が続けた。「わしは葬式に行くって人を誓ってまったく一人も知らんですから。いっそわしらみんなで有志を募りますかい?」

「昼飯がでるなら行ってもいいがね」鼻にできものがある男が口をはさんだ。「腹が減ってはいくさができぬとね」

一堂はふたたび笑った。

「さてこうしてみると、みんなの中で私が一番関心がないみたいだね」最初の男が言った。「黒い手袋もしてなきゃ、昼飯も食べる気がしないからね。ただ誰かが行くなら葬式には出てもいいな。考えても見れば、やつにとっては一番仲のいいほうの友人だったと言ってもいいぐらいかもしれないし。あえば立ち止まって話ぐらいしたもんですしね。では!」

かたまって話をしていたものは散り散りになり、他の人たちと話し始めた。スクルージはその人たちを知っていて、説明をもとめるかのように精霊の方を見た。

精霊は通りを進んでいき、二人の男が話しているのを指さした。スクルージはそれが説明になるのだろうとふたたび耳をかたむけた。

スクルージはその二人の男もよく知っていた。二人も商売人で、とても裕福であり、有力者だった。スクルージはこの二人に覚えよろしくしようとがんばっていたものだった。もちろん商売のため、純粋に商売のためだけにそうしていたのだが。

「こんにちは」と一人がいうともう一人も挨拶をかえし、「そういえば! 老いぼれもとうとうくたばったみたいだね?」と最初の男が続けた。

「うん、聞いたよ、寒さでやられたんだろうな」

「クリスマスの時期にふさわしいな。ところであなたはスケートはするんですっけ?」

「いいや、他にも考えることがあるんでね、ごきげんよう!」

他には何もなく話はまさしくこれだけで、二人は別れた。

スクルージは始め、精霊が一見したところこれほど意味のない会話に重きをおいたのに驚くばかりだった。ただ心ではそこにはなにか隠された意味があるにちがいないと思っていたので、腰をおちつけてどういうことなのかよく考えてみた。自分の共同経営者だったジェイコブの死とはなんら関係があるようには思えなかった。それは過去のことであり、この精霊の受け持ちは未来のことなのだから。ただ自分と深いかかわりのある誰かということではすぐには浮かんでこなかったし、浮かんできても前の会話には当てはまらなかった。ただ当てはまるのが誰であろうと、自分がよくなるための教訓がかくされていることはあきらかだったので、耳にする言葉、見たもの一つ一つを心にきざもうとした。とくに自分自身の姿があらわれたときはそれを見逃すまいとした。なぜなら自分自身の将来の行動が、みすごしているなんらかの徴をしめしてくれるにちがいないし、こうしたもつれた謎をほどいてくれるのではと思ったからだ。

その場所で自分の姿をもとめてさがしまわったが、いつも自分が立っている場所には別の男が立っていた。時計を見るといつも自分がそこにいる時間をさしていたが、入り口からながれこんでくる群集のなかにも自分の姿はこれっぽっちもみとめることができなかった。ただそれにもスクルージはほとんど驚かなかった。心の中では人生を一変させることを思い描いており、その人生ではまったく新しく行いを改めることを考え、希望していたからである。

スクルージのそばには陰鬱に押し黙った精霊が手を伸ばして立っていた。じっと物思いにふけっている状態から我にかえってみると、手の方向から見えない視線が自分を鋭く射抜いているように思われ、身震いがして肝を冷やした。

二人は喧騒をはなれ、街のへんぴな場所へと移動した。その場所は、だいたいの状況や悪いうわさは耳にしていたが、スクルージも足を踏み入れたことがないところだった。道はぬかるんでいて狭く、店や家々はぼろぼろだった。人々の身なりもひどく、よっぱらっており、だらしがなく、汚かった。路地や道からは、まるでそこが汚水溜めかのように、人にあふれた道へとくさい臭い、泥、ひどい生活が吐き出されていた。そうした一画全体に、犯罪、ゴミ、不幸が満ち満ちていた。

このような悪名高いゴミための奥ふかくまですすんでいくと、片流れ屋根の下にせまっくるしく出っ張った店が一軒あった。そこには鉄くず、くず、あきびん、骨、べたべたした廃物が運び込まれていた。店の中では床の上に、さびたカギ、釘、くさり、ちょうつがい、とじ金、はかり、おもりといったありとあらゆる鉄くずがうずたかく積みあがっていた。好き好んでみるものもいないような秘密が、ひどいくず、廃油のかたまり、骨のお墓で醸成され隠されていた。そういったものに埋もれるようにして、七十歳にもなろうかという白髪の老人が古びたレンガでできた木炭ストーブのそばに座っていた。寄せ集めのぼろきれからつくった汚らしいカーテンをつるして寒さよけにしており、暖かな状態ですっかりくつろいでパイプをふかしていた。

スクルージと精霊がこの男の目の前までやってきたとき、ちょうど一人の女が大きな荷物をしょって店にこっそりと入ってきた。その女が店に入るかどうかというときに、もう一人の同じように大きな荷物をしょった女も店に入ってきた。そのすぐあとに色あせた黒い服の男が続いた。男は女二人の姿を見て、女二人がお互いに驚いているのとおなじくらいびっくりぎょうてんしていた。一瞬の間のあと、パイプをくわえた老人もくわわって、みんな大笑いをはじめた。

「家政婦が最初にきて!」最初に入ってきた女はそう叫んだ。「洗濯女が二番目で、葬儀屋が三番目だ。見てごらんよ、ジョー、なんてこったい! もののひょうしで出くわすこともあるんだねぇ!」

「ここほど出くわすのにうってつけの場所もなかろうよ」ジョーはパイプから口をはなすと言った。「さあ中へ入ってくれ。ずっと前からおかまいなしじゃないか、他の二人とて全く知らぬというわけでもなし。店の戸を閉めるまでまってくれ。まったく! なんてきしむんだろうな。ここにもこのちょうつがいほどきしんでる奴はあるまいよ。はっはっは! みんな天職だな、いい組み合わせだよ。応接室へ入ってくれ、応接室へ」

応接室とは、ぼろきれのあちらがわの場所だった。老人は階段の敷物を押さえる棒で火をあつめ、すすけたランプの芯をパイプの柄でととのえ(夜になっていたので)、ふたたびパイプを口にくわえた。

老人がこうしているあいだ、すでに口をひらいていた女は荷物を床に降ろして、これみよがしにひざの上でうでぐみしながら、軽蔑のまなざしを残りの二人にむけて椅子に腰をおろしていた。

「なにがおかしいんだい! なにが。ディルバーさんよ?」女は口火をきった。「誰だって自分の取り分は気にするものだろ。ま、やつはいつもいつもそうだったけどね」

「まさしくその通り!」洗濯女も同意した。「比べようがないくらい」

「じゃあなんだって、まるで怖がってるみたいにそんなににらむのさ、おまえさん。誰も秘密を知りやしないよ。あら捜しをしようってわけじゃあるまいし」

「そうとも!」ディルバー夫人と男は声をそろえた。「やめとこう」

「よしよし!」女は叫んだ。「それでいいよ。こんなささやかなもんがなくなったところで誰に損が及ぶというんだい? 死んだ男だってね」

「まさしくそうだぁね」ディルバー夫人も笑いながら答えた。

「もし死んだあともそのままにしてほしけりゃ、あのごうつく爺は」女は続けた。「なんだって普通の人生をおくんないんだろうね? そうしていれば、死ぬときくらい誰かに看取ってもらえそうなもんだよ。あんなふうに一人きりで息を引き取るかわりにね」

「それこそまさに真実をいいあててるね」ディルバー夫人はもらした。「それこそ奴に下された審判というわけだ」

「願わくばもっと審判が重くてもよかったねぇ」女は答えた。「そうすればそれに従って、もっと別のものを手に入れていたかもね。包みをあけな、ジョー、そんで中のものに値段をつけとくれ。ざっくばらんに頼むよ。最初でもかまわんし、別に誰に見られててもかまいやしない。おたがいさまだってことはここで会わずともよーく承知してるよ。別に悪いことじゃないよ、さぁ包みをあけてくれ」

ただ仲間の侠気がそうはさせなかった。色あせた黒い服の男が最初に荷物をほどき、盗品をぶちまけた。そう高いものはなく、印鑑が一つ二つ、ふでばこ、一対のカフス、たいして価値のないブローチでぜんぶだった。ジョーは一つ一つ詳細に調べて値踏みし、壁に一つずつ値段を書いていき、それ以上品物がなくなったところで合計をだした。

「これが取り分だよ」ジョーは言った。「足をもって逆さにつるされても、これ以上はびた一文出せないね。お次は誰だい?」

ディルバー夫人が次だった。シーツ、タオル、下着とスプーンが二本、砂糖はさみが一つにブーツが二、三足。その取り分もおなじように壁に書かれた。

「女にゃいつも甘いんだ。それがわしの弱いところだよ。で、身をもちくずすというわけだ」ジョーはそうこぼした。「これが取り分だ。もっとほしいなんてぬかしてごねるようだったら、こんなに奮発したのを後悔して、半クラウンは少なくするぞ」

「じゃ私の包みをほどいとくれ、ジョー」と最初の女がしゃしゃりでた。

ジョーはそっちのほうがほどきやすいので両膝をつき、いくつも結び目がある包みをほどき、大きななにか黒いものがぐるぐるまきにされているものを引っ張り出した。

「なんだいこれは?」ジョーは尋ねた。「寝室のカーテンかな!」

「ああ!」女は手を組んだまま身を折って大笑いしながら答えた。「寝室のカーテンだよ!」

「やつが横たわったまま、輪っかやなんかごとそっくりこれをもってきたというわけじゃないだろうね?」

「その通りだよ」女は答えた。「いけないかい?」

「金儲けの星の下にうまれついたようなやつだな」ジョーはこぼした。「そんなことまでするなんて」

「手の届くものが手に入るときに、手控えるなんてとんでもない。しかもあんなやつのものならなおさらだ。誓ってもいいくらいだよ、ジョー」と女はいたって平静に答えた。「油を毛布にたらすんじゃないよ」

「やつの毛布だって?」ジョーは尋ねた。

「他のどいつのものだと思ってるんだい?」女は答えた。「なくても風邪をひくわけでもあるまいし、ま、言わせてもらえばだがね」

「なんかの病気で死んだんじゃないことを祈りたいもんだ」ジョーはそうこぼすと、手をとめて視線をあげた。

「そんなこたあ心配しなくてもいいよ」女は即答した。「やつがそんなことになってるってのにあたりをうろついて、いっしょにいるほど物好きじゃないんでね。そうだろ! しっかりシャツを見ておくれよ。ま、どんなに見たところで穴なんてありゃしないし、すりきれてもないけどね。持ってた中じゃ一番いいやつだし、なかなかものもいいよ。私が手に入れなきゃ、無駄になるところだったんだからね」

「無駄になるっていうのはどういうことだい?」ジョーは尋ねた。

「そのまま着せといたら確実にいっしょに埋葬されちゃうってことだぁね」女は笑いながら答えた。「どっかのばかどもはそうするもんだよ。だから私が脱がせたんじゃないか。もし更紗が十分じゃないっていうなら、他のなにが十分なのか知りたいもんだね。やつの体にぴったりでね。そいつを着たあいつの姿のみっともないことったらなかった」

スクルージはこの話を恐怖におののきながら聞いていた。老人のランプの薄暗い光の中で彼らは略奪品を囲み、スクルージは嫌悪と吐き気をもってその様子を見ていた。この恥ずべき悪魔どもが死体そのものを売り買いしていたってこれ以上、気分が悪くなることはないだろう。

「はっはっは!」ジョーがお金の詰まったフランネル製のかばんから、おのおのの取り分を床の上でかぞえあげたとき、女が笑い声をたてた。「これで決まりでさぁな! やつは生きてるときは人を遠ざけてたもんだが、死んだときになってこちらを潤してくれるとはね! はっはっは!」

「精霊さま!」スクルージは足の先から頭までぶるぶる震えながら言葉をしぼりだした。「わかりました、わかりました。この不幸な男のことはわしにもあてはまるということですな。確かにわしの人生はこんなふうでした。慈悲ぶかき神よ、なんたることか!」

風景が一変したのでスクルージは恐ろしさでたじろいだ。今いるところはほとんどベッドにさわれるところだった。そっけない、カーテンもとりはらわれたベッドで、みすぼらしいシーツがかかっており、その上になにかがよこたわっていた。それは物音一つたてなかったがそれゆえ何であるかを語らずとも物語っていた。

部屋はとても暗く、暗すぎて何があるかも分からないほどだった。ただスクルージは内心の衝動にかられてそこがどこかを確かめようとあたりをしかと眺め回した。外から朝日のあおじろい光がベッドに差し込んだ。そしてそこには、身の回りのものをすべて強奪され、見捨てられた、涙を流すものもいなければ看取るものもいない男の死体が一つあるだけだった。

スクルージは精霊の方をじっと見た。そのゆるがざる手は死体の頭の方を指し示していた。顔のおおいはとりあえずといった感じで、わずかに指一本ででももちあげれば、その死体の顔をおがめそうだった。そうは考えたが、自分のそばから精霊をおっぱらう力が残っていないのと同様、そのおおいをはずす力も残っていなかった。

寒く、寒く、硬直した恐ろしい死がここに汝の祭壇をつくり、汝のおもいのままに恐怖でもってその祭壇を飾り立てる。ここが汝の領土だからだ! ただ、愛すべきもの、あがめられるもの、尊敬されるものは髪の毛一本たりとも汝の恐ろしい目的のために動かせないし、姿かたちをおどろおどろしいものにすることもない。それは今、手が重くなり、はなせば落ちてしまうからでもなければ、心臓や脈がとまっているからでもない。過去に手が開かれていて、やさしく、真実味にあふれていたからであり、心は勇敢であたたかく、優しさにみちていたからだ。脈がまさしく人のものだったからだ。去れ、影よ、去れ! そしてよい行いがこの傷からうまれ、永遠の命で世界へ種撒かれるのを見るがよい!

どこからか声がしてスクルージにこのようなことを言ったわけではない。ただベッドを見ていたとき聞こえてきたわけだ。スクルージはもしこの男が今立ち上がれば、まずなにを考えるだろうと思った。金儲け、冷酷な取引、あるいは嫌がらせか? こうしたものがこんな結末をまさしくもたらしてくれたわけだ!

まったくの一人っきりで、一人の男も女も子供さえもあれやこれやと彼がよいことをしてくれたというものはおらず、またその一言の思い出ゆえにお返しをするんだというものもいなかった。猫が一匹ドアをひっかいており、暖炉の下ではねずみがかじる音がした。この死の部屋でなにをしたいのか、どうしてそんなに落ち着きがなく騒がしいのか、スクルージにはあえて考えてみるだけの勇気はなかった。

「精霊さま!」スクルージは声をふりしぼった。「ここは恐ろしい場所です。ここを離れても教訓は忘れません。信じてください。さぁ行きましょう!」

しかし精霊は微動だにせず、指はじっと頭の方を指し示していた。

「わかります」スクルージは答えた。「できればそうしたいんですが、力がないんです、精霊さま。力がでてこないんです」

精霊はまたスクルージのことを見据えているようだった。

「この街でもしひとりでも、この男が死んだことで感情を動かされているものがいるなら」スクルージは必死に言葉をつないだ。「その姿を見せてください、精霊さま。お願いします!」

精霊は黒い上着をスクルージの前に翼のように一瞬拡げ、引っ込めると、日の光がさしこむ部屋に母親と子供が姿をあらわした。

母親は誰かを待ち受けていて、それもかなり気をもんでいるようだった。というのも部屋を気もそぞろにあちこち歩きまわり、あらゆる物音にはっとして、窓から外をながめていて、時計をみつめていたからだ。針仕事をしようとしていたがそれも手につかないようすで、子供たちがあそんでいる声でさえ我慢がならないようだった。

とうとう待ち受けていたノックが聞こえた。いそいでドアのところに行き夫を出迎えた。夫の顔はまだ若いにもかかわらず、やつれ疲れがにじみでていた。ただ今はその表情には自分では恥じていたが隠しようのない心からの喜びがうかがえた。

暖炉のそばで温められていた夕食が出された食卓につき、妻がどうだったと力なげに尋ねたとき(それほど間をおいてというわけではなかったが)、夫はどう答えていいのやら戸惑っているようだった。

「よかったのそれとも悪かったの?」妻は助け舟をだした。

「悪かった」夫は答えた。

「じゃあ破滅ね」

「いいや、まだのぞみはあるよ、キャロライン」

「あの人の態度が軟化すれば、そりゃ望みはありますけど」妻はなげいた。「そんな奇跡がおきるだなんて、望みにもほどがありますわ」

「軟化どころじゃないんだよ」夫は答えた。「死んだんだ」

妻は温和な我慢強い性格で、表情がよくそれを伝えていた。ただ死んだということを聞いて心から感謝の念を抱き、両手をたたいてそれを口にした。もちろん次の瞬間にはその許しをこい、謝ったが、最初の反応こそが本心からのものだった。

「昨晩話したあのよっぱらいの女が言ったんだ。そうぼくが彼に会って一週間の猶予をもらおうとおもったときにだよ。単にぼくを避けているんだと思っていたけれど、まったくの本当のことだったとわかったんだ。病状がかなり悪いだけじゃなく、死にかけていたんだよ」

「誰に私たちの借金はいくのかしら?」

「わからないよ、ただそれまでにお金も用意できるだろうし。用意できないにしても、あれほど慈悲のかけらもないやつにいくほど運が悪いって事もないだろうよ。今夜はやすらかな気持ちで床につけるよ、キャロライン!」

そう確かに、隠そうとしても隠せないくらい、彼らの心は軽くなっていった。子供たちの顔も明るくなっていき、自分たちはまったくわからないことを聞こうといそいでまわりに集まったりしていた。これがあの男の死によって幸せになった家庭だった! このできごとによって精霊がスクルージに示すことができた唯一の感情といえば、それは喜びだけだった。

「どうか死に関係があって、心やすらかになるようなことをお見せください」スクルージは口にした。「そうでもないと、精霊さま、あの今までいた暗い部屋が今にも自分の眼前に迫ってくるんです」

精霊は、スクルージが歩きなれたいくつかの通りを抜けていき、スクルージはあちらこちらに自分の姿をおいもとめたが、どこにもその姿はなかった。二人は貧しいボブ・クラチェットの家に入っていった。前にも訪れたことのある住居で、母親と子供たちが暖炉をかこんでいた。

誰一人音をたてるものはおらず、とてもしずまりかえっていた。さわがしい二人の兄弟でさえ片隅でまったくしずかにしていて、本をひろげているピーターを見守っていた。母親と娘たちはぬいものをしていたが、一言も口をきかなかった!

「『そして一人の幼な子をかかえあげ、みんなの真ん中に立たせた』」

スクルージはどこでこの言葉を聞いたのだろうか? 夢に見たわけでもあるまい。スクルージと精霊が敷居をまたいだときに、ピーターが読み上げたのに違いない。それにしてもどうして先を続けないのだろう?

母親は仕事をテーブルになげだすと、顔に手を当てた。

「この色は目を疲れさせるね」母親は口にした。

この色? あぁかわいそうなちびっこティム!

「ずいぶんよくはなってきたけど」母親は続けた。「ろうそくの光じゃなおさらよくないよ。お父さんが帰ってきたときには絶対目をしょぼしょぼさせたくないものね。さてそろそろお帰りの時間だよ」

「もう過ぎてるよ」ピーターは本をとじて答えた。「でもここ数日はいつもよりゆっくり歩いているんだと思うな」

ふたたびみんなは黙り込み、とうとう母親はただ一度だけふるえたがしっかりした明るい声をふりしぼった。

「そう、いっしょに歩いていたものね。ちびっこのティムを肩車して早足で歩いていたものねぇ」

「僕もよく見たよ」ピーターも続け、

「私も」と他のものも続け、みんなが賛同した。

「ずいぶん軽かったものねぇ」母親は仕事に取り組みながら思い起こすようにいった。「お父さんはずいぶんかわいがっていたものねぇ、だから苦でもなかったのよ、まったくね。あらお父さんが帰っていらしたわよ!」

母親は迎えに出た。ボブは帽子をかぶったまま入ってきた。かわいそうにボブには少しでもあたためてくれるものが必要だったのだ。暖炉ではすでにお茶が用意されていて、みんなでせいいっぱい父親をはげまそうとした。クラチェット兄弟はひざのうえにのぼり、ちいさなほっぺたを顔におしあて、まるで「大丈夫、大丈夫だからお父さん、そんなに嘆かないで!」とでも言ってるようだった。

ボブは家族にすっかりはげまされ、明るく家族にはなしかけた。テーブルの上の仕事を見ては、妻と娘たちのできばえと仕事のはやさをほめたてた。日曜よりずっと前に終わってしまうな、と父親はもらした。

「日曜ですって! じゃあ今日行ってきたんですね、ロバート?」妻は口にした。

「あぁおまえ」ボブは答えた。「いっしょに行けるとよかったんだがな。あそこの場所がどれほどいきいきとしてるか見せてやりたかったよ。でもすぐにたくさん見ることになるよ。毎日曜日に行くことを約束したからな、ちびっこ、ちびすけや!」ボブは嗚咽した。「かわいそうに!」

ボブはその瞬間、我慢できなくなって泣き崩れた。どうにも我慢できなかった。我慢できるようであれば、ちびっこティムと今以上にいっそう遠くに離れているように感じたことだろう。

部屋をはなれ、二階へあがっていき、上の部屋に入っていった。そこは明るくなっていて、クリスマスの飾りがぶらさがっていた。子供のそばには椅子が一脚おいてあり、誰かがすぐ前までずっとこしかけていたようなあとがあった。ボブはそこにこしをおろすと、物思いに少しふけり、気を取り直すと子供の顔にキスをした。起こってしまったことと折り合いをつけ、平穏な気持ちになって階下へと降りていった。

みなが暖炉のそばに集まり、話をした。娘たちと母親はまだ針仕事をしていて、ボブはみなにスクルージの甥のこれ以上ない親切さについて話した。一回ほどしか会ったことがないのに、あの日道ででくわして、自分がすこし気を落としているのを見ると、「ちょっとばかり気を落としているだけだったんだけど」とボブは言ったが、なにか気を落とすことでもあったのかと尋ねたのだった。「とにかく彼は楽しそうに話す人だからね、私は話したよ」とボブは語った。「『心からおくやみを申し上げます、クラチェットさん。あなたのすばらしい奥さんにも気を落とさないようにお伝えください』と言ってくれたよ。ところでどうしてそのことを知ってたのか、わからないな」

「何を知ってたの?」

「なんだって、おまえがすばらしい奥さんだってことを知ってたのかってことだよ」ボブは答えた。

「誰でも知ってますよ!」ピーターは答えた。

「よく言ってくれた、息子よ!」ボブは声を大きくした。「みんなに知ってもらいたいもんだな。『心からおくやみを』って言ってくれたよ。『すばらしい奥さんに』って。『もしなにかお役にたつことがあればって』名刺をくれたよ。『そこにかいてあるのが住所で、どうか来てくださいよ』って言ってくれたんだ。なにかをしてくれるからってこんなに嬉しがってるわけじゃない。まるでちびっこティムを知ってくださっていたかのようなのが心をうったんだよ」

「私もその人は本当にいい人だと思うわ!」妻も賛成した。

「もし会って直接話せば、いっそうそう思うだろうよ」ボブは答えた。「そうよくお聞きよ! ピーターに職を世話してくれたってぜんぜんおどろかないな」

「ピーター、よくお聞きよ」クラチェット夫人は言った。

「それで」娘たちの一人がはやしたてた。「ピーターは誰かと結婚して、家庭をもつのね」

「いつまでもおまえと暮らしてやるよ!」ピーターはにこにこしながら言い返した。

「すぐにはそうもいかんだろうが」ボブは付け加えた。「そうするまでにはまだずいぶん間があるだろうし。でもいずれはどちらにせよみんなばらばらにならなきゃいかん。でもちびっこティムのことは誰一人として決して忘れちゃいかん。そう、私たちの間のこの最初の別れをだ」

「忘れませんとも、お父さん!」みんなが声をあわせた。

「私もだ」ボブも答えた。「あんなに小さかったのに、ちびっこだったのにどれほどティムが我慢強くて穏やかだったか思い出すと、私たちはお互いにすぐに喧嘩するようなことがあっちゃいけないし、ちびっこティムが我慢強くておだやかだったのも忘れちゃいけないよ」

「絶対に。お父さん!」みんなは再び声をあわせた。

「私はとても幸せだよ」ボブはもらした。「本当に幸せだ!」

妻と娘たちと二人のクラチェット兄弟が父親にキスをして、ピーターとは固く握手をした。ちびっこティムの魂よ、汝の幼い魂は神からつかわされたものなのだ!

「精霊さま」スクルージは口にだした。「わしたちの別れる時間がせまってることがなんとなく分かります。どうやってかは分かりませんが、とにかく分かるんです。それで、あそこに横たわって死んでいた男は誰なのか教えてください」

未来のクリスマスの精霊はスクルージを商売人が集まるところへとつれていった。時間が違うだけで、それが未来であることを別にすれば変わらず雑然としているように思えた。ただいずれにしても自分の姿はみあたらなかった。精霊はどの場所にとどまるわけでもなく、どんどん進んでいき、スクルージがちょっと待っていただけませんかと嘆願するまで、望みのままの場所へと足をむけているようだった。

「この場所は」スクルージは口をはさんだ。「今通り過ぎようとしているこの場所は、私がいる、ずっといた所なんですよ。この建物がわかります。未来のわしがどうなっているか見せてください」

精霊は立ち止まったが、その手は別の場所を指し示していた。

「建物はあっちです」スクルージは説明した。「どうして別のほうを指し示すのですか?」

ただ無常にも手の指し示す方向は変わらなかった。

スクルージは自分の事務所の窓の方へといそいで、中をのぞきこんだ。そこは元の事務所だったが、スクルージの事務所ではなかった。家具が変わり、椅子に座っている人物も彼ではなかった。精霊は前と同じ場所を指し示していた。

ふたたび精霊に追いつくと、なぜ、そしてどこへ行くのだろうと怪しみながら、最後に鉄の門にたどり着くまでついていった。門を入る前に立ち止まってスクルージはあたりを見回した。

そこは墓地だった。名をあかされようとしている不幸な男は埋葬されていたのだ。そこはなんともご立派な場所だった。家々に囲まれていて、草や雑草におおわれていたが、それは生きたものではなく枯れたものだった。多すぎる埋葬で窒息し、飲み込んだものではち切れんばかりだった。まったくもってご立派な場所だ!

精霊は墓のあいだに立つと、一つの墓を指し示した。スクルージは身震いしながらそこへ歩をすすめた。精霊はいままでと変わりなかったが、その厳粛な姿にはなにか新しい別の意味があるようにも見え、不安にかられた。

「あなたさまが指し示している墓に近づく前に」スクルージは聞いた。「一つ質問があるのですが答えてもらえますでしょうか。こうしたものの影が現実になる可能性は高いのですか、それとも低いのですか、どうなんでしょう?」

精霊はだまってただ同じ墓を指し示すばかりだった。

「人の行く末はきまりきった結果になるのでしょう。もし同じ事を続けていればそうなるにちがいありません」スクルージは語った。「でももしそのきまりきった道からそれれば、結果もちがってきましょう。あなたさまが見せてくれたものについても同じだと言ってくださいまし!」

精霊はぴくりとも動かなかった。

スクルージは依然としてうちふるえながら前に足をすすめた。指し示す先を見ると、なおざりにされている墓石に自分の名前、エベネーザー・スクルージと書いてあるのを認めた。

挿絵:最後の精霊

「あのベッドに横たわっていたのはわしだったのか?」スクルージはひざをがくりと落としてつぶやいた。

指し示す指は墓から彼自身に移り、それから再び墓へ戻った。

「いいえ、精霊さま! いやです、いやです!」

指は動かなかった。

「精霊さま!」スクルージは、その上着をしっかりつかみながら叫んだ。「聞いてください。わしはいままでのわしとは違います。この精霊さまとのふれあいがなかったらなっていただろう自分とは違う自分になります。もう希望がまったくないとしたら、どうしてこれをわしに見せるんですか!」

このときはじめて手がふるえたように思われた。

「よき精霊さま」スクルージは地面にひれふして続けた。「どうかわしのためにとりなしてください。わしを可哀想におもってください。わしに見せてくれたこうした影を、生まれ変わった人生でかえてみせますとも!」

そのやさしい手はうちふるえた。

「クリスマスをこころから敬いますし、毎年そうしますとも。わしは過去、現在、そして未来に生きていきます。三人の精霊さまもわしとともに生きてくれるでしょう。教えてくれた教訓を忘れることはありません。この墓石の文字を消し去ることが出来るといってください!」

感情がたかぶり、スクルージは精霊の手をにぎった。精霊はそれをふりほどこうとしたが、スクルージの懇願も負けてはおらず、にぎりしめた。ただ結局は精霊の力の方がつよかったので、スクルージは退けられた。

運命をかえてもらおうという最後の祈りで両手をかかげたスクルージが見たのは、精霊のフードと着ているものが変化したことだった。ちぢんで、姿を変え、どんどん小さくなり、一つのベッドをささえる柱へとすいこまれていった。


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