メイカーズ コリイ・ドクトロウ 第一部

第四章


ティジャンが二度目にペリーにやらせた仕事は一度目よりはいくらかましな成功をおさめ、その出来もなかなかのものだった。ティジャンがペリーとレスターにキッチン小人の設計を開始させたのは一週間も経たない頃だった。それは国土安全保障省が開発した歩行認識ソフトウェアと大きな半導体ディスク、それにマイクと小さなカメラを組み合わせて二、三百はあった六インチほどの背丈の庭園装飾用の小人の人形に組み込んだものだった。そいつは家族全員の歩き方を識別してそれぞれに宛てたボイスメモを再生することができた。子供に対しては皿洗いをするように言い聞かせ、夫や妻やルームメイトにはお互いをいらいらさせることなしに小言を言えるまさに状況によって動作を切り替えられるリマインダーの決定版だった。ティジャンはずいぶんそいつにご執心のようだった。そいつは彼の考えるアメリカの人口動態変化理論、つまり都心での三人以上の成人の共同生活による混成世帯というトレンドと密接な関係があると言うのだ。

「豊かな鉱脈です」彼は手をこすり合わせながら言った。「共同生活というのは大変なものですがテクノロジーを使えばそれを容易におこなうことができます。ルームメイトウェアですよ。将来的なトレンドだ」

サンフランシスコには他にもコダセルのグループがいた。その一つである数人の縫製職人を抱えたデザイナー集団は小人のデザインに手を貸してくれた。できばえはすばらしいものだった。小人は少しばかり猥雑な外見で、それは一体ごとに異なる自動生成アルゴリズムによって生み出されたものだった。アルゴリズムによって生み出されたデザインの中にはとんでもなく奇妙なものもあった……ペリーが自分の机に飾るためにとっておいたものなどは目が三つ、腕が六本ついていた。まず百個、それから千個、それから一万個と彼らは小人を生産をしていった。一体ごとに異なるということが彼らの利益を守っていたが、小人が人気を博するに従って売上は着実に模造品によって侵食されていった。その多くが東ヨーロッパ製だった。

模造品の見かけはそれほどいいできではなかった……とはいえそれも十分に奇妙な姿ではあった。ノルウェーのトロールとアニメに出てくるロボットをかけ合わせたような姿だ……が機能は本物より多かった。ロシアの優秀なハッカーが全ての機能を一枚のチップにまとめたのだ。そのおかげでそのトロールは低コストでより多くの機能を実現できていた。防犯ベル機能、子供の見守り機能、インターネットラジオのストリーミング再生、簡単な医療診断機能までついていた。目の色彩や舌の表皮、それにニューエイジ系(リズム・ウィズ・スウェイジ、つまりカリフォルニアやニューメキシコで広くおこなわれているスピリチュアルな運動だ)の健康指標を即座に解析するのだ。

一ドルショップから十二個のそれぞれ違うモデルのトロールがはいった大きな袋を手に戻って来るとレスターは作業場のキャットウォークにつながるかつての現場主任室に置かれたティジャンのデスクの上にそいつを放り投げるようにして置いた。「まったく。こいつを見たか? 俺たちの手間賃より安い値段で売ってやがる。どうやってこいつと戦うんだ?」

「戦いません」ティジャンは言って腹をさすった。「次のものにとりかかりましょう」

「次のものって?」ペリーが聞いた。

「そうですね。最初の商品はコダック、デュラセルの事業部門の二十倍の投資収益率を記録しました。どちらの会社をとっても今までこんな利回りを記録したことはありません。しかし次は三十倍から四十倍を狙いたい。あなたたちさえよければですが。そういうわけで君たちが今週発明したものを見にいってどうやればそれを商品化できるか検討しようじゃありませんか」

ペリーとレスターは互いに顔を見合わせた。堪りかねずにレスターが口を開いた。「もう一度言ってくれないか?」

「過去のコダセルの事業での典型的な投資収益率は約四パーセントです。百ドル投資すれば百と四ドル手に入って、手に入るまでには約一年かかります。もちろん過去においては一億ドル投資して一億と四百万ドルが手に入るめどが立たない限りは新しい事業に着手するようなことはありませんでした。どちらにしても四百万ドルは四百万ドルです。

しかしこの会社では五万ドルを三ヶ月前に投資して七万ドルを手に入れました。私たちの給料とボーナス分を引いてですよ。四十パーセントの投資収益率です。七万ドルは四百万ドルじゃありませんが四十パーセントは四十パーセントだ。もちろん私たちのビジネスがほとんど同じだけの利益を他の三つの事業部門にももたらしたことは言うまでもない」

「俺たちはこのぱくり野郎ども相手に大失敗しちまったように思うんだが。俺たちのランチを横取りされた」レスターが一ドルショップのトロールを指さしながら言った。

「そんなことはありません。私たちは利幅の高い期間に参入していい稼ぎを得ました。そして利幅が下がるとともにそこから離脱します。決して大失敗なんかじゃなく、正しい行動です。次はもっと資本集約的なことをやってもっと高い利益をあげましょう。ですから始めるのに二十万ドルかかるものを見せてください。そうすれば十六万ドルの儲けを三ヶ月でコダセルにもたらすことができる。今回は何か大がかりなことをやりましょう」

スザンヌはキャンパスノートにメモを取っていた。最初の一、二週間、彼女のメモや撮影したビデオにはどこかぎこちないものがあった。しかしいったん彼女が彼らの住む建物に引っ越して一階上の部屋に居を構えるようになってからは彼女はまさにチームの一員だった。とはいえ彼らが口に出す言葉をほとんど全てツイートしてしまうようなメンバーだったが。ツイート先のフィードには新しい購読者が一万人も増えていた。

「それでペリー、何をティジャンに見せるの?」彼女が尋ねた。

「前のは俺が考えたやつだった」彼は言うとにやりと笑った……ティジャンが経済学の講釈を終えるといつも彼らは最後ににやにやと笑うのだ。「今度はレスターにやらせてやってくれ」

レスターは恥ずかしげなそぶりを見せた……彼はスザンヌに誘いを断られたショックからいつまでたっても回復せず、彼女が部屋にいる時にはいつもどこか別の場所に行きたがっているように見えた。しかし彼女のブログのコメント欄には姿を見せ、何千人もいる熱心な投稿者の中でも最も頻繁にコメントを繰り返していた。彼がコメントをポストすると他の者はそれを静聴した。彼のコメントは機知に富んでいて面白くていつだって正しかった。

「そうだな。俺はルームメイトウェアについてずっと考えていた。ティジャンのお気に入りだしな。ことこいつに関して言えばあんたらがすばらしいルームメイトだってことは俺にとってはハンデだ。それで大学時代に戻って気に食わないルームメイトってのはどんなだったか、どんな時にもめ事が起きるのか思い出そうとした。ほとんどの場合、問題になるのはリソース争いだ。料理を作りたいけどルームメイトの使った皿が流しの中にある、洗濯をしたいけどルームメイトのパンツが乾燥機の中にある、テレビを見たいけどリビングルームのソファーの上にはルームメイトのがらくたが散らばっている。そんな具合だ」

彼らの部屋の上の階で生活をするようになってコダセルの方針の狙いが彼女にはよく理解できるようになっていた。ケトルウェルは共同生活が大好きなのだ。ピザばかり食べている昔ながらのギークのすみかのように常に人々を一緒にいさせ、前線の塹壕で育まれるような仲間意識を芽生えさせようとしている。カリフォルニアの家にある大事なものを倉庫に移して賃貸契約の段取りをつけてくれる不動産屋に鍵を手渡すのには週末いっぱいかかった。不動産屋から月々にはいる賃料はフロリダで物件を借りるのには十分でお釣りが返ってくるくらいだ。彼女が選んだ五箱分の身の回りの品を宅配便の配達人から受け取ると後はほとんど我が家にいるのと変わらない状態になった。

毎晩、彼らの部屋の上の階で彼女は一人座りって作業をした。彼らのくぐもった話し声を漏れ聞くことができるように窓は開けられ、それをBGM代わりにコラムを書くのだ。彼女が耳をそばだてているのは彼らの起こしているムーブメントだけが理由ではなかった……この相対主義の時代におけるジャーナリスト的客観性を持つ分別ある代理人としての務めだ。

「リソース争いは固有の解決策をもつ小さな問題に簡単に分割できる。皿の問題を例にしよう。全ての食器洗い機は『洗浄済み』と『汚れ物』の二つの区画を持つように設計されるべきだ……つまり論理的には二つの食器洗い機だ。洗浄済み側からきれいな皿を取り出す。皿を使う。使い終わったら汚れ物側に入れる。汚れ物側が満杯な時には洗浄済み側はからっぽだ。そうしたら食器洗い機を動かして洗浄済みだった側が汚れ物側になる。逆もまたしかりだ。そう考えて設計図を何枚か書いてみたんだがどうもしっくりこない。食器洗い機を作るってのは俺たちからするとちょっと工業的すぎるんだ。どちらかっていうと俺はでっかい芸術作品とかポケットに入るくらい小さなつやつや光るようなものを作るのが好きなんだ」

彼女は思わずほほえんでしまった。自分の周りで繰り広げられる驚くような会話を彼女はほとんど手を加えずにそのまま描写して一日あたり五十万人の読者を獲得していた。一ヶ月かけて彼女はサイトに広告を載せるか検討した……マネージャー役を務めて彼女のブログを自分たちの広告ネットワークに組み込もうとするブログの「マイクロレーベル」からは何度もご機嫌伺いがあった。そしてその一人が小さなスプレッドシートを彼女に見せた時に彼女は陥落したのだった。そこには小さなバナーを二、三個貼った時に彼女が期待できる収益が事細かに書かれていた。そのうえネットワークに参加しているどの広告主に対しても彼女は自分の判断で広告掲載の拒否をすることができた。最初のひと月で彼女はマーキュリー・ニューズで最も役職の高いライターに迫るほどの稼ぎを得た。次のひと月には以前の自分の給料を追い抜いた。彼女もこれまで商業ブログのチェックはしていた。馬鹿げた車とおかしな格好の頭の弱そうな女性を売り物にしたこれみよがしに人々の関心を惹こうとする売春婦のようなブログだ。しかしいつも三文新聞記者とは縁のない世界だと考えていた。収入のめどが立った以上、ジミーに電話して正式に辞職すべきだろうと彼女は思った。しかし退職したのか休暇中なのかはっきりさせずにきた状態をやめて過去の人生にきっぱりと別れを告げるのには尻込みしていた。

「だから次に万引き防止タグのことを考えた。ラジオフリーケンシーID装置RFIDだ。憶えてるか? 十年ほど前にそいつが登場した時にはプライバシーに敏感なやつらはみんな怒り狂って、これは問題だと信じ込んだ。ギークたちはそいつの技術的な概要を理解せずに退けちまった。仕様上、RFIDを読み取れる距離は二、三インチってところだ……もし誰かが個人情報の書き込まれたRFIDを読み取ろうと思ったら装置を相手に突きつけなくちゃならない。そうなれば相手はすぐそれとわかる」

「ああ、馬鹿げた話だ」ペリーが言った。「電磁波で励起してやらなくちゃRFIDは読み取れないし百ヤード離れたとこからそんなことをしようと思えば目標とそいつの間にあるものは間違いなく全部、燃え尽きちまう。だがもし地下鉄の回転バーに励振機を埋め込むことができれば離れた屋根の上から指向アンテナを使って全てのタグの番号を抜き取ることができる。もしあれが一般化していたらそこら中に励振機が取り付けられて誰でも好きなやつを追尾できるようになっていただろう……驚いたことに一時期は百ドル紙幣にRFIDをつけようという話さえあったんだ! そうなりゃすりのやつは半マイル向こうにいても誰の財布が狙うに値するのかわかるようになっていただろうな」

「ああ、その通りだ」レスターが答えた。「だけどそれは業者を止める助けにはならなかった。今でもそいつを扱っているやつはあちこちにいる。たいして客もいなくて死に体だがな。やつらはインクジェットを使ってタグを印刷する。大きさも米粒の三分の一にまで小さくなっているんだ。供給チェーン管理みたいなことに使われるのがほとんどだ。やつらは安い値段でそいつを供給できる。

そいつのことを考えていて思いついたんだ。共同住宅にあるもの全部にタグをつけたらどうだろうって。誰が流しに皿を放置してるのか、誰がハンマーを持って行って元に戻さなかったのか、誰が空の牛乳パックを冷蔵庫に戻したのか、誰がテレビのリモコンを持っているのか。調べるためにタグを使ったらどうだろう? それでリソース争いが解決するわけじゃないが原因の一つであるソーシャルな要因を制限することができるだろう」彼はみんなを見回した。「俺たちならこれを面白いものにできる。わかるだろ。クールなRFIDステッカーをデザインして流行の小人人形をレポート取得用の端末として動かすんだ」

無意識にスザンヌはあいづちを打っていた。彼女は一人暮らしだったがぜひそういう物が欲しかった。どこにメガネやテレビのリモコンを置きっぱなしにしてきたのか探す助けになるだろう。

しかしペリーは頭を振った。「子供の頃、俺は母親とすごい仲が悪かった。母さんは本当に頭が良かったけど物事を俺に説明するだけの時間が無かったんだな。よく自分の言ったことを曲げて俺との口論を終わらせた。俺が『母さん。午後からショッピングモールに行っていい?』って聞くと『いいわよ』って言うんだ。それで後で出かけようって時になって俺にどこに行くのか尋ねる。俺が『ショッピングモールだよ。いいって言ったじゃない!』って言うとだめだって言うのさ。きっぱりとね。

自分が今何をやっているのかさえ母さんはわかっていないんじゃないかと思ったよ。行っていいか尋ねた時には上の空でいいって言うんだけど実際にその時になると終わらせていない家の手伝いだとか宿題だとか何かしら俺が家にいなきゃいけない理由を突然思い出すんだ。子供だったら誰でも経験することだとは思うんだ。だけど俺は頭にきちまった。それで小さなテープレコーダーを手に入れて母さんが俺に許可を出した時に録音するようにしたんだ。次に言ってることが変わったら彼女自身の言葉を聞かせて言い逃れできないようにしてやろうと思ったんだ。

それで実際にやってみた。どうなったと思う? 俺が盗聴器を仕掛けたことに対してさんざん怒鳴り散らした挙句にこう言ったんだ。朝なんと言ったかは問題じゃない、私は母親でおまえにはやらなきゃならない家の手伝いがあるってね。結局、俺は出かけられなかった。録音機を隠し持ってこっそり家の中を歩きまわったせいでな。母さんは俺からそいつを取り上げるとごみ箱に放り込んじまった。そのうえ俺のことを一ヶ月も『J・エドガー』って呼び続けた。

そこで俺からの質問だ。もし今度おまえが流しに皿を置きっぱなしにした時に俺が皿の追跡記録を取り出しておまえの顔の前で振って見せたらどんな気分になると思う? そんなことがあって愉快で仲の良い共同生活を送れると思うか? 俺が思うにおまえは問題の結果と原因を取り違えてるんだ。流しに置かれた皿の問題点はたんに料理したい時に面倒ってだけじゃない。流しに皿を置きっぱなしにするってのは相手に対する思いやりに欠けた行為だってことが問題なんだ。置きっぱなしにしちまう理由はおまえが指摘したとおり、食器洗い機に入れるのが面倒くさいからだ。しゃがみこんだり中身を取り出したりしなきゃならない。俺たちが食器洗い機を食器棚に入れられるようにして、半分を汚れ物、半分を洗浄済みにすれば皿の放置なんて簡単になくせるぜ」

レスターが笑い、ティジャンもそれに続いた。「ああ、そうだな……OK。おまえの言うとおりだ。だがRFIDタグがとんでもなく安くて利用価値を秘めてることは確かだ。これから先、抗いきれない魅力的な利用方法が一つも見つからないなんてちょっと信じられんね。そいつはちょっともったいなさすぎる」

「たぶん行き詰まるさ。羽ばたき飛行機みたいなもんだ。発明家たちは羽ばたいて飛ぶ飛行機を作ろうと百年を費やしたができたものは全部がらくただった」

「そうかもしれない」レスターは言った。「だがその考えは気に入らんな」

「気に入ろうが気にいるまいが」ペリーが答える。「真実かどうかには影響しない」

しかしレスターは目に火花を散らせたかと思うとそれから一週間、作業場にこもりっきりになって誰も中に入らせようとしなかった。あの穏やかで社交的な巨人の行動としては前代未聞のことだ。何か注目に値するものが完成した時にはいつでも他の者を引きずりこんでまるで大きな子供のようにそれを披露するのが彼のお気に入りだったのだ。

それが日曜日のことだった。月曜日、彼女は契約している不動産屋から電話を受けた。「賃借人が消えた」相手の女性は言った。

「消えた?」彼女の家を借りたカップルは彼女が今までシリコンバレーで会った誰よりも信用できる人物だった。男性の方は広告代理店、女性の方はグーグルのマーケティング部門で働いていた。いや男性の方がマーケティング会社で、女性の方がグーグルの広告部門だったかもしれない……とにかく裕福で話し方にも品があり、彼女の物件の目の飛び出るような賃料を眉一つ動かさずに払っていたのだ。

「最初は普通にPayPalを使って賃料を払っていたんだけど今月は支払いがなかったんです。支払日の翌日に電話してボイスメールを残して、メールも送っておいたんだけど。昨日になって家に行ってみるともぬけの殻だったんですよ。彼らの持ち込んだ家具は全部消えてます。冷蔵庫には食べ物も無し。あなたのホームシアターセットも持っていったんじゃないかと思うんだけど」

「ふざけてるんじゃないでしょうね」スザンヌは言った。時間はフロリダ時間で午前十一時、太陽が空気を焦がし始める中で彼女は二杯目のレモーネードを飲んでいた。カリフォルニアは午前八時だ。不動産屋は長々と説明を始めた。相手の女性に落ち度はなかった。「ごめんなさい。わかった。大丈夫。保証金はどうなってるの?」

「取らないとあなたが決めたはずです」

確かにそうだった。その時には大したことじゃないと思ったのだ。フロリダで彼女が借りているマンションの遠くに住む所有者はそんなことは口にも出さなかった。「そうだった。これからどうなるの?」

「彼らを告訴したいですか?」

「警察に?」

「ええ。契約違反と、もし彼らがホームシアターセットを持っていったなら窃盗で。取り立てのために彼らを捕まえることもできます」

いまいましいマーケティング屋ときたら蛇蝎のような倫理観しか持ち合わせていない。能なしで狡猾で浅はかなやつばかりだ……決して信用すべきじゃなかった……。

「わかった。それで家の様子は?」

「今月末までには別の借り手を見つけられます。それはお約束します。もう少し早くなるかも。お売りになるお考えはないんですよね?」

不動産屋と話すといつもその話になったが彼女にその気はなかった。「今はタイミングとしてはどうかしら?」

「シリコンバレーにいる大勢の富豪が家を買っていますよ。スザンヌさん。ここ何年か見てきた中でもないことです」前にそれについて話した時より三分の一ほど高い値段を相手は口にした。

「これ以上、高くはならない?」

「誰にそれがわかります? さらに上がるかもしれないし、また下がるかもしれない。けれど売るのでしたら今はここ十年の中では最高のタイミングです。そうされた方が賢明でしょう」

彼女は深く息を吸った。シリコンバレーは死んだ。腐ったマーケティング屋と金の亡者でいっぱいだ。ここフロリダで彼女は新しい時代の幕開けに立ち会っている。これはシリコンバレーでは起きていないことなのだ。他のあらゆる場所で起きているがシリコンバレーでだけは起こっていない。安い賃貸物件を舞台にイノベーションが起きるのは物価が安い場所だ。水漏れのする浴槽、信じられない額の固定資産税、それに異常なほどの浮き沈みの激しさ……今月二十パーセント上昇したと思ったら来月は四十パーセント下がる。バブルはいつか弾ける。売るなら今だった。

「売るわ」彼女は言った。

「裕福な淑女になれますわ」不動産屋が答えた。

「そうね」スザンヌは言った。

「買い手に心当たりがあります。スザンヌさん。急かしたくはありません。ですが金曜日までには売れます。来週中に第三者預託を終了して十五日以内にはお手元に現金をご用意できます」

「まったく」彼女は言った。「冗談でしょう」

「冗談ではありません」不動産屋は答えた。「空き家の順番待ちリストがあるんです。あなたの家のある区画の」

そういうわけでスザンヌはその夜、飛行機でサンノゼに舞い戻るとタクシーに大枚をはたいて自分の家へと戻ったのだった。マーケティング屋は家を荒らすことなく立ち去っていた。室内は清潔で整然としていてリンネル用の棚には清潔なシーツが残されていた。彼女はベッドにシーツを敷きながらこのベッドにシーツを敷くのも今晩が最後、と考えた……次に彼女がこのシーツを剥いだら後は長い間、倉庫にしまい込まれるのだろう。デトロイトから出ていく時にも同じことをした。生活用品を箱に詰め込んで倉庫に押し込んだ。ティジャンはなんと言ってたっけ? 「個人向け倉庫産業はレコード産業よりも規模が大きい。彼らがやっていることは置き場所のない所有物の保管場所を提供することです……まさに超過剰だ」

ベッドの前で彼女は箱詰め作業を手伝ってくれる作業者を二、三人募る求人広告をクレイグリストに投稿し、よかったら昼食を一緒にとらないかという誘いのメールをジミーに出し、それが終わると訴えを起こすために中央警察署のアドレスを調べた。彼女のホームシアターからはアンプ、スピーカー、A/Vスイッチャー全てが消え去っていたのだ。

翌朝には十人ほどの手伝いの申し込みがあった。時給十ドルでの突然の求人がシリコンバレーで可能なことに驚きながら彼女はその中からちゃんとした信用照会のついてる二人を選んだ。彼女の訴えを聞いた巡査部長は同情の念をあらわにしながら街を出ていくという彼女の選択に賛成してみせた。「この場所にはうんざりです。私の子供たちが高校を卒業したらすぐにモンタナに戻るつもりですよ。あの気候が懐かしい」

まさかあのマーケティング屋が次の日に戻ってくるとは彼女は思ってもいなかった。それは彼女と手伝いの者が残されていた彼女のものを箱詰めしてUホールのレンタルトラックに運び込んでいる時のことだった。一台のBMWのオープンカーがブレーキをきしませながら角を曲がって現れるとタイヤを焦げ付かせるようにしながら彼女の家の前に停まったのだ。

運転していたのはあの女のマーケティング屋でひどく怒っているようだった。髪を振り乱して、目は泣きはらしたように真っ赤、靴を見るとヒールの片方が折れていた。

「どんなくそったれな文句があるっていうのよ。あんた?」車から飛び出してスザンヌの方に大股で向かって来ながら彼女は言った。

思わずスザンヌは後ずさりして手にしていた本の箱を取り落とし、庭の芝生の上に本が散らばった。

「フィオナ?」彼女は言った。「どうしたって言うの?」

逮捕された。やつら、職場に現れて私に手錠をかけて連行したわ。保釈金を払わなきゃならなかった」

スザンヌの胃が小石のように縮こまり、ひどく重くなった。「どうすれば良かったっていうの? あなたたち二人は私のホームシアターセットを盗んだ!」

「ホームシアターセットがなんですって? 私が出て行った時には全部、ちゃんとあなたが置いていった場所にあったわ。私はここに二週間もいなかった。トムとは先月別れて私は引っ越したの」

「引っ越した?」

「そうよ。くそったれ。引っ越した。あなたの借家人はトムで私じゃない。もしあいつが何か奪っていったのなら、それはあなたとあいつとの間の問題でしょ」

「ちょっと、フィオナ、ちょっと待って。少し落ち着いて。私はあなたに電話しようとしたしメールも送った。誰も家賃を払わないし誰もあなたが引っ越したなんて教えてくれなかった。何が起きたのか私が調べようとしている時に誰もそれに答えてくれなかったのよ」

言い訳しようっての」彼女はヒステリックに叫んだ。「私が聞きたいのはくそったれな謝罪の言葉よ。やつらは私を刑務所に入れたのよ」

留置場は刑務所とは大違いだということはスザンヌにもわかった。「謝るわ」彼女は言った。「コーヒーをいれましょうか? シャワーやなんかを使いたいんじゃない?」

女性はずいぶん長い間、彼女をにらみつけていたがゆっくりと崩れるように倒れこみ、咳き込みながら芝生の上ですすり泣いた。

スザンヌは腰に手をあてたまましばらく立ち尽くした。クレイグリストの手伝いは既に帰ってしまい、彼女は一人だった。それにこの女だ。以前、一度だけ会ったきりの通りすがりのこの女は明らかに現実的な問題に直面していた。彼女の手に負えるようなものではない……差し向かいで誰かを介抱するのは彼女の人生ではあまりなかった経験だった。

しかし何ができるというのだ? 彼女は草の上に倒れ込んでいるフィオナの横にひざまずいてその手を取った。「中にはいりましょう?」

最初はまるで何も聞こえていないかのようだったがゆっくりと彼女は立ち上がり、スザンヌは彼女を家に導き入れた。女は二十二、三歳で、もしスザンヌに子供がいればスザンヌの娘といっても十分通じるくらいの若さだった。スザンヌは彼女をソファーまで連れていき、レンタルトラックに積み込まれるのを待つ箱の間に座らせた。キッチンの荷造りは終わっていたがクーラーボックスにダイエットコークが何本か入っていたので彼女はその一本を女に渡した。

「本当にすまなかったわ。フィオナ。だけどなぜ私の電話にもメールにも答えようとしなかったの?」

彼女はスザンヌを見つめた。マスカラがとれて筋になっている。「わからない。そのことは話したくない。彼は先月、仕事をくびになってからおかしくなったみたいだった。もう何の責任もとりたくないって言ってた。責任って何のこと? だけどそう言って私に出ていくように言ったの。別れるのが二人にとって一番いいんだって。他に女ができたんじゃないかと思ったけど本当のことはわからなかった。たぶん本当に頭がおかしくなったのよ。ここで知り合いになった人たちはみんな頭がおかしいもの。週に百時間も働いて、五ヶ月おきに仕事をくびになったり自分から辞めたりしてる。何を買うにもたくさんのお金がいる。私の家の家賃は給料の四分の三もするのよ」

「本当に大変ね」スザンヌは言った。頭の中では気楽で自堕落なフロリダやペリーとレスターが仕事場で楽しんでいるハッカーののんびりした生活を考えていた。

「トムは抗鬱薬を飲んでいたけどそのことについて話すのを嫌っていた。薬が効いているときは本当にいい人だったけど、そうじゃないときはまるで……なんて言ったらいいのか。よく泣いたり、怒鳴ったりした。いい関係だったとは言えない。だけど私たちはオレゴンから一緒にここにきたし、私は今までの人生でずっと彼と一緒にいたの。前も少しは気分屋なところがあったけどここに来てからの彼みたいじゃなかった」

「彼と最後に話をしたのはいつ?」スザンヌは既に薬箱に入っている抗鬱薬のパックを見つけていた。それがトムの最後の薬でなければいいけど、と彼女は心配したのだ。

「私が引っ越してからは一度もない」

謎が解けたのは一時間後だった。警察はトムの職場に行って彼が前の週に解雇されたことを知らされたのだ。彼らが彼の車のGPS座標を調べたところ、かつての職場の近くのショッピングモール跡地にいることがわかった。彼は運転席で銃を手に心臓を撃ちぬいて死んでいたのだった。

スザンヌは電話でそれを知った。電話での会話が終わるまで平静を装おうとしたがフィオナ……ソファーに座ったままぬるくて気の抜けたコークを飲んでいた……は気づいた。彼女は蹴りつけられた犬のようなうめき声を漏らした後で絶叫した。スザンヌには全て非現実的でよくわからないことだった。車のトランクからホームシアターセットが見つかったと警官は彼女に教えた。遺書は無かった。

「神様、ああ神様、なんてことなの。なんてことをするの。ひどいわ」フィオナは泣きじゃくった。ぎこちない動作でスザンヌは横に座り、彼女の肩を抱いた。レンタルトラックから荷物を下ろすのを手伝ってもらうために明日は手伝いの人たちと貸し倉庫で会う予定だった。

「今晩、あなたと一緒にいてくれる人は誰かいる?」いる、という答えが返ってくることを祈りながらスザンヌは尋ねた。家を引き払わなければならないのだ。全く、なんて冷血なのかと彼女は思った。しかしいまいましいスケジュールというものがあるのだ。

「ええ、たぶん」フィオナは握りこぶしで目を拭った。「大丈夫」

スザンヌはほっと息を吐いた。見え見えの嘘だ。「誰なの?」

フィオナは立ち上がってスカートの皺を伸ばし、「すみませんでした」と言うとドアに向かって歩き出した。

心の中でうめき声を上げながらスザンヌは彼女の前に立ちはだかった。「ソファーに戻って」彼女は言った。「そんな状態では運転できないわ。ピザを頼む。ペペロニマッシュルームでいい?」

根負けしたようにフィオナはきびすを返してソファーに戻った。

ピザを食べながらスザンヌはもう少し詳しい事情を彼女から引き出した。彼のオフィスでレイオフが始まって以来、トムはふさぎ込んでいた……レイオフはシリコンバレー全体に広がる風土病でそれが彼らの中で発症したのだ。彼の振る舞いは日に日に悪化し、ついに彼女はここを去ったのだった。あるいは放り出されたと言った方がいいかもしれない。どちらともはっきりとは言えない。彼女はグーグルで薄氷の上にいた。そこでもレイオフが始まっていたのだ。そして手錠をかけて連行されたことが最後の決め手になってしまった。少なくとも彼女はそう確信していた。

「オレゴンに戻ることになると思う」ピザの一切れを蓋の上に落としながら彼女は言った。

ここに移り住んでからシリコンバレーを去った人の話は耳にたこが出来るほど聞いた。よくある話だ。ベイエリアの生活に打ち負かされたのだ。なにか励ますような話をするべきだった。思いとどまらせるような、ここで得られるチャンスについての話を。

「そうね」彼女は言った。「それはいい考えだと思う。あなたは若いし向こうでやっていけるわ。事業を始めたっていいし、他の人のやってるスタートアップで働くことだってできる」シリコンバレーやテクノロジーのメッカへの部族的忠誠心を裏切るような言葉が口から出るとは奇妙なことだった。しかし結局のところ、彼女も家を売り払って東部へ移ろうとしているではないか?

「オレゴンには何もない」フィオナは鼻をすすりながら言った。

「どんなところでも何かはある。フロリダにいる私の友達の話をさせて」そう言って彼女は相手に話を始めたがその言葉は次第に自分自身に向かって話かけるようなものになっていった。何度も何度もそれについて書いた後であっても、そこで実際にそれをやった後であっても、声に出して語られる言葉を聞くのは全く違うものだ。自分が関わっていることがどれだけクールで新しくて、起業家精神にあふれ独創的で驚くべきことであるのか彼女は理解した。機敏に動きまわるソフトウェア会社が巨大な荒ぶる自動車会社と競争するときの対比を彼女は愛していた。しかし彼ら若者たちがおこなっていたのは結局のところ、ぎくしゃくしてのろまなソフトウェア会社を作り、五十人の従業員と一緒になって巨大な専用オフィスで騒がしく動きまわることだったのだ。

はじめフィオナは信じようとしなかったが次第に興味を示し、最後には興奮しっぱなしだった。「その人たちは作品を完成させたらまた違うものを作るの?」

「そうよ……ずっと同じことをするわけじゃない。変わらないのはチームが存続するということだけ。互いに助けあって一緒に仕事をする。一緒に生活して一緒に働いていたら上手くバランスが取れないんじゃなかいと思うでしょう。大違い。夕方の四時、時にはもっと早い時間に仕事をやめて映画に行ったり外に遊びに行ったり本を読んだりキャッチボールをしたりしてる。本当にすごいと思うわ。私がここに戻って来ることは二度とないでしょうね」

その気もなかった。

彼女は同じことを担当の編集者に話した。まだ頻繁にオフィスに顔を出していた時によく行っていたバーでおこなわれた送別会に来た友達にも。彼女を空港まで運んでくれたタクシー運転手にも、マイアミへ戻るフライト中にずっと隣に座っていた困惑気なエンジニアにも同じことを話した。とは言え支払額のゼロが一つ多い気がする、と家を売った相手の夫婦に言わない程度には冷静だった……いや二つだったかもしれない。

そうしてマイアミに戻ってくるとガソリンスタンドでレンタカー……ここに長い間いることになったのだし、レスターに手伝ってもらってどこかの中古車置き場で中古のスマートカーを買わなければならないだろう……にガソリンを入れてくれた男が信じられないくらい太っていることにもほとんど気がいかなかったし、通りすがりに見たバラック街のブリキ製の屋根も熱帯地方のユニークなものにしか見えなかった。湿地と潮の匂い、むっとするような濃い霧、まわりを走るスピーカーを積んだ車の放つ重低音……まるで懐かしい我が家に帰ってきたような感覚に彼女は襲われた。

彼女が自分の家にたどり着いた時にマンションにいたのはティジャンだった。日向ぼっこ中のバルコニーで彼女に気がついた彼は倉庫に入りきらなかった彼女の荷物が詰まったスーツケースを運ぶのを手伝ってくれた。

「一段落したら私たちの部屋に降りてきてください。お茶にしましょう」そう言って彼は出て行った。サンノゼからマイアミへの長いフライトで毛穴に詰まった飛行機の油を洗い流すとサンダーバードのノミ市で買った安物のサンドレスとゴムサンダルに着替えて彼女は彼らの部屋へ向かった。

ティジャンが華麗な身振りでドアを開け、彼女は中へ入ったがそこで思わず立ち止まった。彼女が去った時、そこは彼らの乱雑な生活を映し出すような状態だった。電子ガジェット、皿、部品、工作具、それに衣服がいたるところに散らばっていた。まるで興奮状態。目から涙がこぼれるようなとんでもない汚らしさで、ちょうど台所のがらくたがつめ込まれた引き出しを巨大にしたような状態だった。

それが今ではシミひとつ無かった……それだけではない。最小限のものしかないのだ。単に床がきれいになっているだけではなく物が置かれていない。壁ぎわには半透明の白いプラスチック容器が天井まで積まれていた。

「どうです。気に入りましたか?」

「驚いた」彼女は言った。「まるでイケアがバーバレラに出会ったみたい。何が起きたの?」

ティジャンが小さく二歩前に進み出た。「レスターのアイデアです。箱の中を見てください」

彼女は容器をいくつか引っ張りだしてみた。本や工作具、雑多ながらくたや汚れ物がいっぱいに詰まっている……みんな以前は棚や床やソファー、それにコーヒーテーブルの上に散らばっていたがらくただ。

「これを見てください」言うと彼はテレビの横からワイヤレスのキーボードを取り出して文字を打ち始めた。T、H、E、C、O……。入力欄が自動補完される。THE COUNT OF MONTE CRISTOモンテ・クリスト伯。するとウェブショップへのリンクやレビュー、そして本の全文と共にくたびれたペーパーバックの写真が表示された。ティジャンがあごの先で示す方を見ると一つの容器の前面で柔らかい青い光が脈動しているのが見えた。ティジャンはそこまで行って容器を開くと少し中を探ってからその本を取り出した。

「試してみてください」キーボードを差し出しながら彼が言った。彼女は試しに文字を打ち込んでみた。U、Nと入力するとUNDERWEAR下着(十四)と表示された。「やめとくわ」彼女は言った。

「やってみましょう」ティジャンが言ってリターンキーを打つと十四枚のパンツのサムネイルが画廊のように表示された。タブキーで一枚ずつ移動すると彼はシンプソンズの絵が入ったボクサーパンツを選びリターンキーを叩いた。すると別の容器が光りはじめた。

「レスターはついに社会的に有用なRFIDの利用方法を見つけたんです。これで一儲けできる!」

「まだ良くわからないわ」彼女は言った。

「こちらへ」彼が言った。「ジャンクヤードへ行きましょう。レスターが詳しく説明してくれます」

もちろん彼は説明してくれた。ちょっと度が過ぎるくらい詳しく。彼女の記憶にあった彼の内気さは完全に消えてその目は輝き、ソーセージのように太い指が踊りまわった。

「今までハードドライブをアルファベタライズさせたことはある? つまりどのハードドライブのどのセクターに自分のファイルが保存されているか考えるのに時間を使ったことはある? コンピューターはそんな退屈で物理的なファイルの性質を取り去って、俺たちがファイルを参照するために使うことができるハンドルを提供してくれる。そいつを使えば今、ハードドライブのどの部分に特定のビットが保持されているのか考えなくて済む。俺は同じことが現実の世界でもできるんじゃないかと考えた。RFIDを使ってね。全てのものにタグを付けて家財道具がどこにあるのか追跡するのさ。

共同生活の調和を妨げる大きな要因の一つは物の正しい配置だ。君が自分の本をソファーの上に置いて席を外したら、俺が座ってテレビを見るためにはそれをどかさなきゃならない。君が戻ってきたら俺がどこに本を置いたか尋ねるだろう。そして口論になる。問題はそいつがどこに行ったのか君にはわからないこと、どこに置かれたのか君にはわからないこと、どこかに消えちまったっていうことだ。だがタグとスマートな収納を使えばいつでも部屋に物を放置できるし、そいつが時々刻々どこにあるかを追跡すれば物理空間上の位置を検索することができる。

全てのものをタグ付けして記録するという問題は残るがそいつはサービス業のビジネスチャンスになる。ISBNみたいな他の共通識別子が使えるところでは携帯のカメラでバーコードを撮っておいて公開データベースから検索することもできるようになるだろう。『春の大掃除』の時に全ての物の写真を撮って、タグ付けして、記録しておけばいい……強盗に襲われた時の保険と捜査のためにも有効だ」

彼は喋るのを止めて腹の上で指を組んだまま満面の笑みを浮かべた。「基本的なとこはまあこんなもんだ」

ペリーが彼の肩をぴしゃりと叩き、ティジャンは彼らが集まって取り囲んでいる作業台の側面をヘビーメタルのドラマーのように人差し指で打って見せた。

みんな彼女の言葉を待っていた。「ええ。とてもクールだわ」彼女は言った。「だけどあの白いプラスチック容器は問題ね。あれのせいであなたたちの部屋はイケアのショールームみたいよ。非人間的なミニマリストってところ。私たちアメリカ人は自分の持ち物を飾るのが好きなのよ」

「ああ、OK。それはもっともだ」レスターが言って頷いた。「もちろん全てを片付ける必要はない。飾りたいものは全部そのままにすることもできる。こいつはがらくたを扱うためのものなんだ」

「その通り」ペリーが言った。「レスターのラボを見に行くといい」

「OK。これはすごいわ」スザンヌは言った。がらくたは無くなっていた。あの積み重ねられた白い容器の中へと消え、作業台の上はきれいになっていた。しかしレスターの作業中の作品や記念品、彫刻や三連パネルは外に出たままだ。整頓された殺風景な中に置かれ、まるで他の物を圧倒する美術館の貴重な収蔵作品のように見える。

ティジャンは彼女にスプレッドシートを渡して見せた。「ネットワークにはクローゼットの整理をおこなうチームが十チーム、それにかなりの数の出荷業者、梱包業者、引越し業者、倉庫業者がいます。家具会社も少しいる。私たちはインターフェイスをフリーの在庫管理用アプリケーションソフトウェアから拝借していて、そいつは文字を読めないような従業員でも扱えるように作られています。たくさんの大きな絵と自動補完が使われているんです。さらにある会社からRFIDプリンターを百台購入しました。新しい顧客を得られてありがたく思ったらしく彼らは百五十台も送ってくれた。おかげで私たちは一時間に約百万個のRFIDを印刷することができます。計画では家具会社向けの展示会でお披露目をおこなうのと同時にコンサルティングをおこなって売上を立てる予定です。既にいくつかの地元の老人ホームから大きな注文をもらっています」

彼らはお祝いの昼食をとるためにIHOPまで歩いていった。フロリダに戻ってきたことは間違っていなかった、そう彼女は感じた。AARP全米退職者協会の自警団一派のリーダーであるフランシスは彼らに敬礼を送り、彼女には投げキスをした。レスターが面倒を見てやっているジャンキーの友人でさえどこか機嫌良さ気だった。

食事が終わると彼らはあのジャンキーと掘っ立て小屋地区にいるフランシスのための食事をテイクアウトした。

「ここの連中のためになるようなものを作れればと思うんだけど」フランシスのRVの前に座り、かたわらにあるへこんだ薪ストーブで煎られたカウボーイコーヒーを飲みながらペリーが言った。

フランシスが組んでいた骨ばった足首をほどき、虫さされの跡を掻いた。「たいていの人は俺たちはものを買わないと思っている。だけどそれは正しくない」彼は言った。「バーゲン品を買うのは難しいがちゃんとした家に住んで安定して電気を使えたときよりもむしろ俺の生活スタイルの方が金がかかるんだ。大型冷凍庫を持っていたときはひき肉をまとめ買いできた。今スーパーに行って夕食一回に必要な量を買うのに使う額の十分の一の値段でな。プロパンガスを使って一晩中冷蔵庫を冷やすこともできるがこいつは安くない。つまり俺は金払いのいいお客様ってわけだ。ボーイングにいたときには俺たちも小さな金額の注文をする客が大好きだった。同じように料金の上乗せができるからな。ところが大きな航空会社はとんでもなく安い値段で物資を調達するから俺たちは取引でしょっちゅう損をしていたってわけだ」

ペリーは頷いた。「それだよ……ホームレスのためのルームメイトウェア。未開拓の巨大な市場だ」

スザンヌは首を傾げ彼を見た。「純粋無垢なエンジニアの割に恐ろしく商業指向なことを言うのね。あなたは」

彼は首をすくめてにやりと笑った。その様子はまるで十二歳の少年のようだった。「伝染病さ。あの小さなキッチン小人だけど俺たちは五十万体近くを売った。模造品を含めればもっとだ。つまりたんにクールなものを考えてそれを実現するだけで俺たちは五十万の生活……五十万の家庭……を変化させたってことだ。レスターのRFIDを使った発明だが……そいつで俺たちは二、三百万人の顧客と契約を結べるだろう。みんな生活の仕方を隅から隅まで完全に変えてしまうだろうさ。あのジャンクヤードでレスターが考えだしたもののおかげでな」

「ソーシャルワーカーどもが『限界家屋』と呼ぶものの中で生活している俺たちみたいな人間は三千万人いる」フランシスが皮肉っぽく笑いながら言った。彼は奇妙な笑い方をした。スザンヌはその笑い方にどこか愛らしさを感じたがそれも彼が自分には治すだけの金がなくて放置したままの歯の膿瘍があるのだと説明するまでのことだった。「つまりあんたらは大きな変化を起こせるってわけだ」

「ああ」ペリーが言った。「そうだな。その通りだ」

夜、気がつくと彼女はまだブログの記事書きとメールへの返信をしていた……遠出をした後はいつも作業が積み上がってすっかり消化してしまうまで二、三日は夜中まで作業するはめになるのだ……時間は午後九時を過ぎ、レスターの作業場の奥の一角を仕切って作った彼女の仕事場で照明の光の下、彼女は一人きりで座っていた。あくびをしながら彼女は伸びをし、老いた背骨が音をたてた。歳を感じるのは大嫌いだったが夜遅い時間にはいやおうなく老いを感じた……腹についた贅肉を一オンスごとに感じ、口の両側の皺と顎の下のかすかな皮膚のたるみを感じた。

彼女は立ち上がってライトジャケットを着ると明かりのスイッチを切って家路へとついた。ティジャンのオフィスを覗くと夜遅くまで働いていたのが自分だけではないとわかった。

「もしもし」彼女は言った。「帰らないの?」

彼はまるで針で刺されたように飛び上がって小さな悲鳴まで上げた。「失礼」彼は言った。「いるとは思わなかったので」

彼の机の上には段ボール箱が置かれ、その中は彼の身の回りの品でいっぱいだった……あの青年たちが彼のために作ったちょっとした発明品、個人的な趣味の品に装飾品、彼の子供の写真が収められた写真立て。

「何事なの?」

彼はため息をつきながら指の関節を鳴らした。「今言っても明日の朝言っても同じことでしょうから言いますが私は辞めます」

一瞬、頭に血がのぼるのを感じたが彼女はそれを抑えて無理やりプロフェッショナルな冷静さと興味へと置き換えた。心のなかで鉛筆の先を舐めると取材ノートの空白のページを開く。

「まあ、本当に?」

「別のオファーがはいったんです。ウェストチェスターカントリーでの。ウェスティングハウスが自社バージョンのコダセルを始めるんでその部門を運営するための新しい副社長を探していた。それが私に決まったんです」

「出世ね」彼女は言った。「おめでとう。副社長殿」

彼は頭を振った。「ケトルウェルには三十分前にメールしました。明日の朝には発ちます。あの青年たちには朝食の後にさよならを言うつもりです」

「全然気が付かなかったわ」彼女は言った。

「いやはや」彼が声に怒りをにじませながら言った。「契約ではコダセルは一日前に通告すれば私を解雇できるんです。だから全く同じ条件で私には辞める権利があるはずです。たぶんケトルウェルは自分の弁護士にもっとうまい契約書になるようにひな形の書き直しをさせるでしょうね」

怒りながらインタビューするとき、彼女には話題を何か慎重に扱うべきものに持っていく癖があった。怒っている人間は時に自分が思ってもみないことを口にするものだ。それは無意識なものでティジャンに対する心理作戦などでは決してなかった。彼のことは友人だと思っていたがそれとこれとは話が別だった。「ウェスティングハウスの計画というのは確かなことなの?」

「一年以内にコダセルの事業と同じ規模になるでしょうね」彼は答えた。「ご存知のようにジョージ・ウェスティングハウスはテスラの研究に対して個人的に資金提供しました。あの会社は個人起業家に対する資金提供というものを理解している。私は才能をスカウトする人間のトレーニングと財務管理者への助言をおこなうことになります。それから彼らを解き放ってウェスティングハウスのネットワークのための起業家と契約させるのです。今やガレージ発明家の競争市場が存在するようになったわけです」そう言うと彼は笑った。「知らせて回るといい」彼が言った。「今晩中にブログに書けばいい。もう競争は始まっています。私たちにはコダセルのネットワークよりも有利な点が二ポイント、不利な点が半ポイントある」

「驚いたわ。ティジャン。あなたとは連絡を取り続けたい……話の続きが知りたいの」

「そうしましょう」彼は言って笑った。「私は八週間ごとに一週間休んでロシアの視察に行きます。ロシア人たちは驚くべき起業家精神の素養を持っている」

「それに子供たちに会える」スザンヌは言った。「とてもいいことだわ」

「ええ。子供たちにも会える」彼は認めた。

「ウェスティングハウスはどれだけの資金をこのプロジェクトに注ぎこむの?」頭の中のノートを閉じてハンドバッグから本物のノートを取り出しながら彼女は尋ねた。

「具体的な数字はわかりませんが彼らは予算を確保するために全設備部門を閉鎖するそうです」彼女は頷いた……既に彼女はネットでレイオフのニュースを見ていた。二十年間働いた後で職から放り出された人々の大規模デモだ。「それじゃあとても大きな額でしょうね。

彼らがコダセルの四半期報から影響を受けたことは間違いないわ」

ティジャンは箱の蓋を閉じると指でそれをドラムのように叩き、横目で彼女を見た。「冗談でしょう?」

「どういうこと」

「スザンヌ。彼らはあなたから影響を受けたんです。四半期決算の数字なんて簡単に化粧できることは誰でも知っている……少なくとも二年分の年次報告書を見なければ本当に利益を出しているのかそれともエンロンの再来なのかどうかなんてわかりようがありません。しかしここから送り出されたあなたの記事は別だ……あれが彼らに決断させたのです。あれはみんなを納得させるものだった。新しくプロジェクトに参加しようとする人間の四分の三はこの場所について書かれたあなたの記事を読んでいたとケトルウェルは言っていました。そしてがここを辞める理由もそれだったというわけだ」

彼女は頭を振った。「とても光栄だわ。ティジャン。だけど……」

彼は手を振って彼女の言葉を遮ると驚いたことにデスクを回りこんで来て彼女を抱擁した。「だけどは無いんです。スザンヌ。ケトルウェルにレスターにペリー……彼らは本質的には大きな子供です。興奮とひらめきに溢れ、情動面での成熟とまるで五歳児のような活動性を手に入れています。あなたと私は大人です。人々は私たちのおこないを真面目に受け止める。子供を興奮させるのは簡単です。しかし大人がそれを追認すれば誰もがそこには何かがあると考えます」

スザンヌはしばらく時間をかけて気を取り直すと手にしていたノートを置いた。「私は全てを記録するだけの人間です。行動を起こすのはあなたたちだわ」

「十年後に人々が憶えているのは私たちじゃなくあなたです」ティジャンは言った。「ケトルウェルに自分を雇うよう言うべきです」

翌日になるとなんとケトルウェルがじきじきに姿を現した。今ではスザンヌは西海岸からのフライト時間が感覚的にすぐにわかるようになっていたのでしばらくの間、どうやって彼が現れたのか彼女には理解できなかった……午前七時に到着するサンノゼ発、マイアミ着の便は存在しないのだ。

「プライベートジェットだよ」彼は言って少し恥ずかしそうなしぐさを見せた。「コダックは八機、デュラセルは五機持っていた。全て売り払おうとしたんだが最近じゃ中古のジェット機を欲しがる者はいない。サウジアラビアの王子やコロンビアの麻薬王でさえ欲しがりはしないんだ」

「要するにそんなもの浪費にしかならないってことね」

笑った彼はまるで十八歳のようだった……それを見るとときどき彼女は自分がただ一人の大人であるような気がした……それから彼は言った。「間違いない……環境負荷を考えればね。ティジャンはどこに?」

「下で二人にさよならを言っていると思うけど」

「OK」彼は言った。「一緒に来るかい?」

彼女はノートとペンをつかむと自分が借りている部屋の戸口から彼を追い立てた。

「いったい何事です」ティジャンが困惑したように言った。二人の方はばつの悪さと好奇心、それに少しばかりのケトルウェルに対する畏敬の念を隠せない様子だった。ケトルウェルは小さな身振りで彼らに楽にするように促すとティジャンをじろじろと見つめた。

「退職者面接ですよ」彼が言った。「社の方針でね」

ティジャンは目をむいた。「勘弁して下さい」彼は言った。「一時間後には飛行機に乗り込まなきゃならないんですよ」

「乗せていってあげることもできますよ」ケトルウェルが答える。

「ここから空港までの間に退職者面接をおこないたいと?」

「JFK空港まで乗せていったっていい。ジェット機のエンジンを暖めたまま待たせてあります」

ときどきスザンヌはコダセルが数十億ドルの経営規模でケトルウェルがその総指揮官であるということを忘れてしまいそうになる。しかし時にはその事実があらわになることもあるのだ。

「さあ」彼が続ける。「一日ご一緒しましょう。途中で飛行機の中で食べるバーベキューの材料を調達しましょうか。離陸や着陸の時だって座席を後ろに倒したままで問題なしだ。ああ、それにこれはどうです。携帯電話の電源を切らなくていい……輸送安全管理者に言わなきゃいいだけだ」

追い詰められたティジャンはとうとう降参した。「いいお話のようですね」彼が言うと同時にケトルウェルはドアの横に置かれていた二つの大きなダッフルバッグの一つを持ち上げて肩にかけた。

「おい。ケトルウェル」ペリーが言った。

ケトルウェルはダッフルバッグを下ろした。「ああ、すまない。レスター、ペリー会えて本当に嬉しいよ。今夜、スザンヌを連れて帰るからそうしたらみんなで夕食にいこう。いいだろう?」

スザンヌは瞬きした。「一緒に行っていいの?」

「そうしてもらえたらと思うんだが」ケトルウェルが答える。

ペリーとレスターはエレベーターで降りる彼らについてきた。

「プライベートジェットだって?」ペリーが言った。「そんなもの乗ったことない」

ケトルウェルはコダセルのプライベートジェットを空軍に売り払おうとしたときの冒険譚を彼らに話して聞かせた。

「それじゃあ一機、俺たちに送ってくれよ」レスターが言った。

「操縦免許はあるのか?」ケトルウェルが尋ねる。

「いいや」ペリーが言った。「レスターはそいつを分解したいのさ。そうだろ。レス?」

レスターは頷いた。「プライベートジェットにはクールな部品がたくさんあるからな」

「数百万ドルの価値があるものなんだぞ。君ら」ケトルウェルが言う。

「違うね。それは誰かがそれに数百万ドル払えばの話さ」ペリーが答える。「そいつを売ることができるときにだけ価値があるといえる」

ケトルウェルは笑って言った。「ずいぶん影響を与えたものです。ティジャン」ティジャンはなんとか小さく固い笑みを浮かべた。

ケトルウェルは建物の外に運転手を待たせていた。運転手はダッフルバッグをシミひとつ無い黒いハイヤーの広々としたトランクに積み込み、車のドアはいかにも高級そうな音を立てて閉まった。

「まず私が全く怒っていないということを理解して欲しいんです。いいですか?」ケトルウェルが言った。

ティジャンが頷いた。まるで取調室に連れ込まれる覚悟を決めた人間のようだ。ケトルウェルの到着以来、ほとんど言葉を発しようとしない。一方、ケトルウェルは全くそれに無関心なように見える。スザンヌの見るかぎりではそれがティジャンの不安を煽っていることを彼は完全に理解しているというのにだ。

「六ヶ月前、ほとんど誰もが私のことをいかれた能なしだと確信していました。人々から得た百億ドルもの金を馬鹿げた失敗するに決まっている思いつきに浪費しようとするなんて、と。今では彼らは私の模倣をして私の貴重な人材の引き抜きをおこなおうとしている。まあ私にとってはいい知らせです。例えあの二人が飛行機をばらばら分解してしまう前に彼らのための新しい経営者を探さなきゃならないはめになったとしてもね」

スザンヌのPDAは自分やコダセルやケトルウェルを取り上げたオンラインニュース記事の数が大きく増えたり減ったりした時にバイブレーションでそれを知らせるように設定してあった。以前は全てに目を通そうとしていたが全てを追い続けるのは不可能だったのだ……今では人々の関心を図る指標が上昇しているのか下降しているのか確認するだけで彼女は満足していた。

それがうなり始めたのが朝のことだった。その間隔は次第に狭くなって終いにはポケットの中に入れているのが不快になるほどにまでなった。苛立ちながら彼女はそれを引っ張りだしてスイッチを切ろうとした。その時、記事の見出しが彼女の目に飛び込んできた。

コダセル、ウェスティングハウスにティジャン氏を奪われる

署名欄にあるのはフレディの名前だ。まるでベッドの下を覗きこむ衝動に抗えないホラー映画の登場人物になったようだと思いながらスザンヌはPDAのホイールを回して記事の全体を表示させた。

::コダセルの経営マネージャーであるティジャン・リー・タン氏。
::その冒険を私たちはスザンヌ・チャーチ氏の感傷的で興奮気味の
::ブログ記事を通して追ってきたが

彼女は目をそらすと反射的に削除ボタンに指を伸ばした。彼女が空想的になりすぎているという当てこすりは彼女がこのテーマについて書き始めて以来、彼女のブログのコメント欄やディグに繰り返し書き込まれていた。物事の重要性を目利きして記事を書くことのできる女などいるはずがない……彼女は「バンドについてまわる」追っかけか売春婦に違いないと言いたいわけだ。

その主張を出っ歯のフレディの嘲るような口調で言われたことを想像して一瞬のうちに彼女は激しい怒りに襲われた。記事を削除すると彼女は窓の外を眺めた。PDAがまた何度か振動したので彼女は目を向けた。同じ記事だ。ブログやもっと大きなディグドット、それにAP通信に取り上げられている。

彼女はなんとか我慢してもう一度その記事を開いた。

::その彼が多国籍巨大企業ウェスティングハウスの新しい事業部門の
::責任者として雇われたのだ。ドットコム企業の未熟なやり方を
::シリコンバレーから死に絶えて空白地帯となったアメリカの郊外にゆっくりと
::浸透させるという空虚な主張で男たちの思考力を低下させている
::チャーチ氏の能力をこの指名はおおいに証明しているものと
::言えるだろう。

催眠術だ。まるで悪魔の目に魅入られたようだった。しばらくの間、耳の中で心臓の鼓動が聞こえ彼女は何回か深呼吸をして記事を最後まで読むだけの落ち着きを取り戻そうとした。たんなるいつもと同じ記事だ。汚らわしい個人攻撃や中傷、当てこすり。フレディは彼女がプロジェクトのメンバー全員と寝たとさえ暗にほのめかしていた……そこにケトルウェルが含まれていることは言うまでもない。

ケトルウェルが肩越しに覗きこんで記事を読んだ。

「やつにメールすべきだ」彼が言った。「汚らわしい。こんなものは報道じゃない」

「こんなやつと真面目に争うことなんてないわ」彼女は答えた。「フレディが私にやらせたいことは自分にメールを送らせることよ。そうすればその内容と一緒にもっと皮肉を効かせたコメントを載せられるもの。私の意見を口論の相手が好きにいじれるようにしたら勝つことは絶対できない」

「それじゃあブログにやつのことを書くんだ」ケトルウェルは言った。「この記録を正すんだ」

「記録は正されている」彼女は答えた。「間違っている部分なんて全くない。私はみんなが見られるように徹底的な記録を書いてきた。もしこの記事を人々が信じるなら、どんな修正をしたって何の役にもたたない」

ケトルウェルはまるでおもちゃを買ってもらえなかった小さな子どものような表情をした。「あの男は有害だ」彼は言った。「このやつの自称ブログとやらもだ」

「やりたいようにやらせておきましょう」彼女は言った。「一日に私の記事を読む読者の数は今週のマーキュリー・ニューズの有料購読者の数よりも多いのよ」それは本当だった。URLを新しくしてから読者数は短期間に急増加し、彼女はマーキューリー・ニューズでのかつての給料がちっぽけなものに見えるほどの広告収入を得るに足る十分な数の読者を獲得したのだ。とはいえ思いがけない出来事のおかげで彼女の預金口座残高は既にいっぱいになっていたのだが。彼女は手短にキーをクリックした。「それに今のところこの記事に張られている三十いくつかのリンクは全部やつを批判する内容だわ。私たちが自分で反撃する必要はない……世界中の人がやってくれる」

彼女の気分も落ち着いてきた頃、彼らは空港にたどり着いた。マイアミ国際空港の前面に建つ軍の収容所じみた建物を後にして彼らを乗せた車はゆっくりとプライベートジェット用のゲートへ向かって進んでいく。礼儀正しい守衛が誘導する前を通り過ぎ、運転手は落ち着いた様子でかわいらしいずんぐりとした小さな玩具のようなジェット機の横の搭乗ブリッジまで車を運転していった。ジェット機の側面に目をやるとそこに筆記体で飛行機の名前が書かれていた。そこにはこう書かれていた。スザンヌ。

彼女は非難の目をケトルウェルに向けた。

「会社を買った時にはもうこの名前だったんだ」彼は無表情に言ったが丸みを帯びたサーファー用サングラスの下でどこか愉快そうな様子だった。「しかしそのままさせておいたのは私だ。内輪ねたが好きなんでね」

「どうでもいいけどあなたが飛行機に私の名前をつけていることを誰もフレディに言わないといいわね。もしそうなったらあのくそったれの舌はもう止まらなくなるわよ」

彼女は自分の言葉を後悔しながら口を覆った。ケトルウェルが笑い、ティジャンもそれにならった。どうやらみんなの間の緊張が解けたようだった。

どうやろうがこいつを飛ばすのは費用対効果が悪いようですね」ティジャンが言った。「あなたの会社のCFOはあなたのけつを蹴飛ばすべきだ」

「小さなわがままです」ケトルウェルはそう答えながらタラップを駆け上がると小柄で身奇麗な女性パイロットと握手した。アフリカ系アメリカ人で高級そうなつば付きキャップの下からは編みこんだ髪が覗いている。「一度自分の飛行機で飛んだら二度と止められませんよ」

「こいつは高く付きますよ」ティジャンが飛行機に乗り込みながら言った。「格納庫の手数料だけで楽に三、四チームの資本金になる」彼は大きすぎるバーカラウンジャー製のシートに座るとパイロットが注いでくれたオレンジジュースのグラスを受け取った。「ありがとう。気分を悪くしないでください」

「まさか」彼女が答える。「百パーセント同意しますわ」

「そいつはよかった」ティジャンは言った。

スザンヌは自分のシートに座ってグラスを受け取りシートベルトをつけるとメインイベントのウォーミングアップをしている二人の方を見た。自分は前座役として連れてこられたのだと彼女は気がついていた。

「向こうはもっと高い報酬を払うと?」

「ええ」ティジャンが答える。「潤沢な支援もです。私が指導したチームやメンバーによってもたらされた全収入に対して〇.五パーセントの報酬も」

ケトルウェルは口笛を吹いた。「そいつは気前のいい話だ」そう彼は言った。

「もし私の目論見通りことを進めることができれば今年中に百万ドルを手にできます」

「あなたならできるでしょう。いい取引だ。なぜ私たちに同じ条件を提案しなかったんですか?」

「あなたはその条件を飲んだでしょうか?」

「あなたはスターだ」ケトルウェルはスザンヌに頷きかけながら言った。息を潜めて会話を聞いていた彼女は不意に引っ張りだされた形になった。「彼女のおかげでね」

「ありがとう、スザンヌ」ティジャンが言った。

スザンヌは顔を赤らめた。「よしてください」

ティジャンは頭を振った。「彼女はよくわかっていない。実に魅力的な記事だった」

「私たちにはあなたへのオファーに対抗する準備もあります」

「あなた方は市場への最初の参入者です。たくさんの手順を踏んできた。私はその車輪の再発明をしたいんです」

「あなたにとっては私たちは保守的すぎたと?」

ティジャンはいたずらっぽくにやりと笑った。「ええ、その通り」彼は続けた。「私はロシアでビジネスをやるつもりです」

低いうめき声を上げるとケトルウェルは音を立ててオレンジジュースのグラスを置いた。彼らの周囲では雲を割って突き進むに従ってジェット気流が白くはためき、高度一万フィートに達したことを知らせるベルが鳴り響いた。

「自重で崩壊しないものをロシアで作れるとでも?」

「確かに汚職は問題です」ティジャンは答えた。「しかしそれは起業家精神で埋め合わせのできるものだ。あそこには中国人がなまけもので平凡に見えてしまうくらいのやつらもいます。彼らの努力の向かう先のほとんどが賄賂であることは恥じるべきことだ。しかし彼らがまっとうな金稼ぎに集中できない理由は一つもないんです」

それから話はペリーとレスターのビジネスの細部についての議論に移っていた。それはスザンヌがこれまで聴いたどのビジネスの議論よりもあけすけなものだった。ティジャンは彼らが失敗するであろう状況や大成功するであろう状況、それに彼がウェスティングハウスやロシアにいる彼の人脈のために作り上げた計画について語った。さらにはサンクトペテルブルクにいる自分の子供と前妻についてまで語り、ケトルウェルは自分が既にそのことを知っていると白状した。

ケトルウェルの番になると彼はいわゆる胸襟を開いた話し方というやつをした。取締役会の中での衝突やひどいお役所仕事をおこなって会社を内部から破壊しようとするコダセル以前からの有害な残留者たち、さらには家族とともに長年取り組んでいる自分の家庭問題についてまでティジャンに打ち明けた。ミニバーを開けると彼はティジャンの新しい門出の祝杯をあげるためにシャンパンの栓を抜き、彼らはそれをオレンジジュースで割った。そしてクリームチーズを塗ったベーグルパンや新鮮な果物、パワーバー、致死量に達するのではないかという量の砂糖とカフェインがはいったスターバックスの缶コーヒーが取り出された。

ケトルウェルが小さな……しかし大理石で内装された……トイレに消え、気がつくとスザンヌはティジャンと二人きり、ほとんど膝と膝が接する近さで座っていた。寝不足とシャンパンと高度のせいで頭がくらくらとする。

「少し酔ったわ」彼女は言った。

「あなたは最高です」少しふらふらとしながら彼が言った。「自分でわかっていますか? 本当に最高だ。あの二人についてあなたが書いたものを見て私は立ち上がって喝采を叫びたくなった。あなたのおかげで自分たちのことがひどく誇らしく思えました。あなたが私たちに与えてくれた刺激のおかげで最後には私たちは世界を手に入れるでしょう。こんなことは言うべきではないのかもしれません。なにしろ今のところあなたはあまり自覚がないようですから。それにスザンヌ、あなたはとんでもなく謙虚ですから私の言うことも信じないでしょう。あなたが書いたものがどれだけ正しく、どれだけ信頼に足る……」

ケトルウェルがトイレから姿を現した。「もうすぐ着陸だ」彼は言うと二人の肩を叩きながらシートに腰掛けた。「まあ話はこんなところだよ」そう言うと彼は後ろにもたれて目を閉じた。スザンヌはいつも彼を二十歳かそこらのように考えるのに慣れ切っていた。そのキャリアが始まった頃、彼が雑誌の表紙になっていた少年の頃のように。今、自分のプライベートジェット機の中で目を閉じて射るような上空の太陽光に照らされた彼の顔を見るとその目尻の小じわと口の周りに深く刻まれた溝は否応なく彼が若々しくは見えるが四十代間際の人間なのだということを晒していた。運動と陽気さと旺盛なアイデアによってその若さを保っているのだ。

「そのようですね」ティジャンがうなだれながら答えた。「今回のことは私の人生の中でも深く記憶に残る経験の一つになりそうです。ケトルウェル、スザンヌ。愉快なことばかりでは無かったが全体的に見れば楽しかった。雲の中での魔法の時間でした」

「一度プライベートジェット機に乗ると二度とエコノミー席には戻れませんよ」ケトルウェルが目を閉じたまま笑って言った。「私がこいつを売らないことを我が社のCFOが責めなければならないとまだ考えてますか?」

「いいえ」ティジャンは言った。「もし私たちが仕事をやり遂げれば十年後にはこんなものを持つことができる余裕のある会社は世界で五社も無くなるでしょう……こいつは宗教改革の後の世界で大聖堂を建設するようなものになる。まだそうできるうちはこいつらを飛ばせ続けるべきです。しかし分解用にレスターとペリーに一台はやるべきですね」

「そのつもりです」ケトルウェルは答えた。「ありがとう」

スザンヌとケトルウェルは飛行機から降り立った。ティジャンは彼らがJFK空港に降り立った時も振り返ろうとはしなかった。「街まで行ってマイアミに持って帰る丸パンを買わないか?」駐機場に降り注ぐ日光に目を細めながらケトルウェルが言った。

「マイアミへ食事を持って行こうっていうの?」

「その通り」彼は答えた。「頼んでおくのを忘れた。そうだ。渋滞に巻き込まれずにマンハッタンまで行って戻って来るにはバイクを借りなきゃならない」

開いた搭乗口を通して入り込む光か音か香りか……とにかく口では言い表せないニューヨークの何かが……彼女にマイアミへの郷愁を思い起こさせた。ニューヨークやサンフランシスコのような巨大な商業都市は彼女にはあまりに現実的すぎた。フロリダの郊外は終わらない夏のキャンプやあるいは全てが可能になる夢の世界のように思えるのだ。

「行きましょう」彼女は言った。シャンパンの酔いも醒め、かすかな頭痛が始まっていた。「疲れたわ」

「私もだ」ケトルウェルが言った。「ティジャンが行ってしまう前にマイアミへと思ってサンノゼを昨日の夜出発したんだ。あまり寝てない。シートを倒してちょっと仮眠をとろう。いいかな?」

「いい考えだわ」スザンヌは答えた。

あきれたことにシートを完全に倒すと二人のシートはほとんど触れん合わんばかりでまるでダブルベッドのような状態だった。ジェットの唸るような音の中で横たわっているとかたわらに生きた人間がいることをスザンヌは意識させられた。少なくともここ一年ではベッドを共にするようなことをした唯一の男だ。高度一万フィートに達したことを知らせるベルの音が消えたことまでは憶えていたがその後、彼女は眠りの中へと落ちていった。


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