職業としての科学 マックス・ウェーバー

学問の前提―できないこと、してはならないこと


こんにちしばしば、「前提をもたない」科学についてよく耳にします。そのようなものなど、はたして存在するでしょうか。ここでは、それがなにを意味するのかが問題となります。いかなる科学的研究においても、論理的かつ方法論的な規則の妥当性は前提とされています。これらは、世界に対するわたしたちの態度の、一般的基礎をなすものです。ただし、これらの前提については、少なくともわたしたちの問いに関する限り、最も議論する必要のないことです。しかし、前提はさらに続きます:科学的研究によってもたらされる結果は、「知るに値する」という意味で重要なことがらである。明らかに、ここにこそ、わたしたちの問題のすべてがつまっています。なぜなら、このような前提は、科学的手段によっては決して証明できないからです。それはただ、個々人が生に対する究極的な立場にしたがい、拒絶あるいは採択することになる、各々の究極的な意味にそって判断されるものです。

さらに、科学的研究がそれぞれの前提に対する関係のしかたは、その構造によって、おおいに異なるものとなります。物理学や化学、そして天文学のような自然科学は、それらがたどりつき、描きうる限りの宇宙の事象に関する最終法則が、当然ながら知るに値するものだということを前提とします。これは、これらの知識により技術的な成果が達成できるため、というばかりではなく、むしろこれらが「職業」たりうべき以上、「それ自身のために」こそ、そうだといえます。まさしくこれらの前提は、科学自身によって証明できるものではありません。いわんや、科学が記述する世界はそもそも存在に値するのか、それは「意味」をもつのか、そこに存在することに意味はあるのか、ということがらにいたっては、なおさら不可能です。これらは一切問題になりません。あるいは、現代医学のような、科学的に高度に発達した実用的な技術職を例にとりましょう。医療経営の一般的「前提」は、まったく自明です。純粋に生命そのものの維持、そして、苦痛そのものを可能な限り軽減することを職務とします。しかし、ここには議論の余地があります。医者は手段をつくして重体の患者を看病します。たとえ彼が生からの解放を嘆願しても、身寄りの者たちにとって彼の命が価値のないものであっても、彼のためにも苦痛からの解放を願うとしても、維持すべき命に値せぬほどの費用に耐えられないとしても、ひょっとして貧しい狂人であっても、死をみずから認める認めないにかかわらず、望む望まないにかかわらずです。ただ医学の前提と刑法典だけが、医者による逸脱行為を阻みます。それらは、生命が生きる価値をもつかどうか、そしてどういう場合に、といった問いには一切答えません。あらゆる自然科学は、生命を技術的に支配するためにわたしたちはなにをすべきか、という問いに対して答を与えてくれます。しかしながら、技術的に支配すべきか、支配したいか、さらにそれは究極的かつ本来の意味をもつものか、こうしたことについては、ただそのまま手をつけずにおくか、さもなければ、目的に対する前提として認めるほかはありません。

あるいは、芸術学のような分野を例にとりましょう。美学は、芸術品は存在する、という事実を前提とし、これがいかなる条件のもとで問題となるかを解明しようとします。しかしながらそれは、ひょっとすると芸術界とは悪魔的栄華をきわめた領域ではないのか、ここから生まれる世界は最深部において神に反し、最底流をなす貴族主義的精神ゆえに友愛精神に背くものではないのか、こういった疑問を投げかけることはありません。したがってまた、芸術作品は存在すべきものか、ということは問題とはされません。--あるいは法律学の場合は、ある法規や法解釈上の手法が効力をもつものと認められる場合に、ときには意固地な論理により、ときには、慣例により与えられた型に縛られた法律学的思考様式にしたがい、妥当なことがらを確定します。そもそも法律は存在すべきか、これこれの規則は設定されるべきか、こうした問いには一切答えません。むしろ、法学が示すことはただ、ひとがある結果を期待するときに、法律学的な思考規範によると、こういう法規が目的達成に適した手段を与える、ということだけです。--あるいは歴史文化科学の場合を例にとりましょう。ここでは、政治的、芸術的、文学的、社会的な文化現象を、それぞれの発生条件をもとにどう理解するかについて教えます。しかし、これらの文化現象がかつて存在するに値したか、そしていま存在するに値するか、という問いには答えませんし、また、それを知ることに、努力にみあう価値があるのか、という別の疑問にも答を与えません。この取り組みを通じて「文化人」共同体に参画することは興味あることがらである、ということは前提となります。これが正しいかどうかは、決して「科学的に」証明はできません。かといって、これを前提とみなしたとしても、これが言うまでもなく自明だということにはなりません。事実、これは決して、まったく自明ではありません。

それはさておき、社会学、歴史学、経済学、国家学、そしてこれらを科学的に解釈するための文化哲学など、わたしに最も近い分野について取り上げましょう。政策論議は講堂には馴染まない、とはよく言われますし、わたしもそう思います。学生の側からすると、それは講堂に似つかわしくはありません。たとえば、残念なことですが、ベルリン大学のわたしのかつての同僚、ディートリヒ・シェーファーの教室では、平和主義の学生たちが教壇を囲み、いろいろ騒ぎ立てたことがありました。フェルスター教授は多くの点でわたしとはまったく見解を異にしますが、彼のところでも、反平和主義の学生たちによって同じようなことがありました。しかし、なにはともあれ、政策は講師の側から取りあげられるべきではありません。すくなくとも、とりわけ政治を学問的に研究している場合においては絶対にいけません。なぜなら、実践的政策的な所信の表明と、政治組織や政党に関する学問的分析とは、別のことがらだからです。公衆向けの集会で民主主義について語るのでしたら、個人的立場を覆い隠すことはないでしょう。というより、まさに自分の政治的態度を鮮明にすることは、強いられた義務であり責任でもあります。そこで求められる言葉は、学問的分析の手段というよりは、むしろほかの人々の態度をこちらに向けるための政策的プロパガンダです。それは沈思黙考の豊かな土地を耕す、すきではなく、敵に向けられた剣であり、闘うための武器です。講義中や講堂において、この種の言葉が用いられるとすれば、それは暴挙です。たとえば、「民主主義」について語る場では、まず様々な形式を取り上げたうえで、それらがどう機能し、生活環境にどういう結果をもたらすかを確認し、ほかの非民主的な政治体制と対比しつつ、聞き手が自分の究極の理想にもとづき、みずからの立場を決める上での出発点を見出せるようにします。ところが、真の教育者ならば、陰にも陽にも、教壇上からはなんらの政治的態度をも強いることのないよう、大変な配慮を欠かさぬことでしょう。いうまでもなく、「事実に語らせる」というやりかたは、最も公正さに欠くものです。

ではなぜ本来、このようにされるべきではないのでしょうか。あらかじめ言っておきましょう。高く評価されているわたしの同僚のうちにも、こうした控え目な態度を自己に要求することは、総じておこなわれがたく、仮にうまくいったとしても、それは気まぐれにすぎないと考えるひとがたくさんいます。さても、大学教師としての義務を学問的に具体的に示すことは、誰にできることでもありません。できることといえば、ただ知的に誠実であることのみです。これは、一方では、文化的価値における数学的、論理的な関係や内部構造を決める事実を確定し、他方では、文化の価値やその個別的な内容、そして文化共同体や政治団体のなかでどう行動すべきかという問いに答を与える、これら2つをまったく異質のことがらとして見極めるということです。もしさらに、なぜ講堂では両者を同時に扱ってはならないのか、とたずねるのでしたら、それにはこう答えましょう。講堂の壇上は預言者や煽動家にとってふさわしい場所ではない。

予言者や煽動家に対してはこう言われます。「街頭に出て、公然と語りなさい。」というのも、そこでは批判が可能だからです。講堂では、聴衆は沈黙を強いられ、教師に耳を傾けねばなりません。意見を異とする批判者もなく、学生が進級のためには教師の講座を履修せねばならないという、こうした状況を食い物にする行為は無責任だと思います。教師の使命とは、知識や科学的経験をもって、生徒たちの助けとなることであり、個人的な政治的見解を生徒に刷り込むことではありません。たしかにひとによっては、主観的共感を排除することがうまくできない場合もありえます。そうした場合、彼は良心の呵責というかたちでの痛烈な批判にさらされることでしょう。そしてこれは、なにも義務を反証することにはなりません。これは、単なる事実誤認が真理探求の義務と相容れないわけではないのと同じことです。純粋に科学のためにも、わたしはこれを退けます。わたしたち歴史学者の研究をもとに、わたしには、科学のひとが個人的な価値判断を扱うときにはいつも、事実の完全な理解が妨げられてしまうことを証明してみせることもできます。しかしそれでは今晩の主題から離れてしまいますし、もろもろの長い説明が必要となってしまいます。

ただこう問うことにしましょう。一方で敬虔なカトリック教徒が、他方でフリーメーソン会員が、教会および国家の形態、もしくは宗教史に関する同じ講座にいたとして、これらのことがらについて、ともに共通の価値認識に達することができるでしょうか。それは不可能です。しかしながら、大学教師は彼の知識と手法を駆使して、双方に対して役立つよう希望をもち、要求を貫徹せねばなりません。さて、あなたがたは当然のことながら、次のようにいうでしょう。敬虔なカトリック教徒は、教義的前提から自由な教師が説くような、キリスト教成立当時にはたらいていた諸要素に関する意見など、絶対認めないでしょう、と。確かに!相違点は次のところにあります。「前提から自由な」科学は、宗教上の束縛を一切拒否するという意味で、「奇跡」や「啓示」については、事実なにも知りません。もし知りうるとすれば、科学はその「前提」に対して不忠実となります。信者は両方とも知っています。そして、「無前提な」科学が認めうることは、次の点以上でも以下でもありません。もしキリスト教発生当時の一連の出来事が、経験的解釈としては排除されるような超自然力の介在をゆるさないかたちで説明されうるとすれば、それは科学が試みるように説明されねばなりません。これでしたら信者も、信仰に背くことなく認めることができるでしょう。

しかしそうだとすると、事実そのものには無関心で、ただ現実的な見方だけを重視する者にとっては、科学の成果はまったく意味のないものなのでしょうか。たぶん、そうではありません。まずひとつ。有用な教師の第1の使命は、生徒たちに認めたくない事実、たとえば彼が所属する政党の見解にとって不都合な事実を認めるよう教えることです。そしてどの政党見解にも、わたしにも、とりわけ具合の悪い事実はあるものです。もし大学の教師が聴衆に対して、そうしたことに慣れるようしむけられたとすれば、彼は知的業績以上の成果をなしとげたと、わたしは確信します。少し厚かましいですが、これをあえて「倫理的成果」と表現しましょう。もっとも、これは言うまでもなく単純至極なことがらであって、ひょっとすると、すこし荘重にすぎる感もあるのですが。


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