社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十五章 議員または代議士


公務の処理が市民の主要な仕事でなくなり、市民が自己の身を挺して公務に尽くすよりも、財嚢をもって公務に尽くすのを喜ぶようになれば、国家は既に衰亡の淵に瀕してしまっているのである。戦争に出なければならぬ時には、彼等は軍隊を傭って、自分は我が家に留まっている。会議に出なければならぬ時には、彼等は議員を任命して、自分は我が家に留まっている。怠惰と金銭とのために、彼等は遂に軍人をこしらえて祖国を他国の奴隷とし、代議士をこしらえて祖国を売るようになるのである。

人間のつとめを、金銭に代用させるようになったのは、商売と種々の職業との多忙、貪婪どんらんな利得の追求、柔惰と安逸を好む風等のためである。彼等が、自己の所得の一部を犠牲にするのは、それによって、安心して利得を増加するためである。金銭を与えれば、諸君はまもなく鉄鎖をもつようになるだろう。財政という言葉は奴隷の言葉であって、都市国家には知られなかったものだ。真に自由な国においては、市民は万事を自分の腕でして、何事も金銭ではしない。自分の義務を免れるために金を払うというようなことはもっての外で、彼等はむしろ金を払っても自分の義務を自分で果たすだろう。私は一般の人々と大分意見を異にしている。私は賦役の方が課税よりも自由と矛盾しないと考えている。

国家の組織が良い程、市民の心の中で私事よりも公事が重んぜられる。加之しかのみならず、私事は遥かに少ないのである。何となれば、共同の幸福の総和が、個々人の幸福よりも多くの部分を提供するから、各人が個人的配慮によって求めねばならぬ幸福は少なくなるからである。統轄宜しきを得た都市国家では、各人はいさんで集会に馳せ参ずるが、悪政府の下においては、何人も集会に赴くために足を踏み出すのを好まない。何となれば、集会で行われることには、誰も一向興味を感じないからである。集会が一般意志に支配されないことが前からちゃんとわかっているからである。最後に自家の仕事にすっかり没頭してしまうからである。良き法律は益々良き法律をつくるが、悪しき法律は、益々これを悪しくする。国家の公務について、そんなことが自分に何の関係があるか? などという人が現れたが最後、その国家は亡びたものと考えねばならぬ。

愛国心の減退、汲々たる私利の追求、国家の厖大、征服、政治の弊竇へいとう等が、人民の会議に議員または代議士をもって代表させることを思いつかせたのである。ある国では市民が第三階級 tiers état などと言われている。こうなると、他の二階級の私利が第一位及び第二位におかれ、公共の利益はようよう第三位にしかおかれていないのである。

主権は譲り渡すことができないと同じ理由で、これを代表することもできない。主権の本質は一般意志に存する。しこうして、意志は決して代表されるものでない。意志はその意志自体であるか、しからざれば別の意志である。中間の意志はないのである。それ故に、議員は、人民の代表者でもなければ、代表者たることもできないのである。彼等は人民の委託者に過ぎないのである。決定的に何事もきめることはできないのである。人民が自ら批准しない法律は一切無効である。それは決して法律ではないのだ。イギリスの人民は自由国民であると思っているが、彼等は大変な思い違いをしているのである。彼等が自由なのは、議員の選挙の時だけに過ぎないのである。議員の選挙がすんでしまえば彼等は取るにも足らぬ奴隷になってしまうのである。彼等がこの短い自由の期間をどんな風に利用するかを見れば彼等が自由を失うのはもっともだということがわかる。

代議士という観念は近代のものである。それは封建政治から来たものである。人間を堕落せしめ、人間の名を汚した、不法にして不合理なる封建政治から来たものである。古代には共和国においてはもとより君主国においても代議士というようなものはなかった。古代人は代議士というような言葉を知らなかったのである。ローマにおいては、保民官は極めて神聖なものと考えられていたが、それでも保民官が、人民の権能を奪うことができるとは誰しも想像だもせず、また、あれ程沢山の平民議会の決議の中で、ただの一つも彼等が自分の権柄づくで通そうとしたものはないということは甚だ不思議なことである。けれども、グラックス Gracchi の時代に、市民の一部分が屋根の上から投票するようなことが起ったことに徴して、時々群集が騒擾そうじょうを惹起することをも考えねばならぬ。

権利と自由とが何よりも尊重されるところでは、かくの如き不便は物の数でもない。かくの如き賢明な国民の間では、全てのものが正当に評価された。彼等は保民官さえも敢えてしなかったことを、供奉警吏リクトルにさせた。そして供奉警吏が彼等を代表しようとするだろうというような心配はもたなかったのである。

けれども、どうして保民官が時々市民を代表することがあるかを説明するためには、どうして政府が主権者を代表するかということを知れば十分である。法律は一般意志の表明に外ならんから、立法権において国民が代表されることのできないことは明白である。けれども、法律を運用する力に過ぎない執行権においては国民は代表され得るしかつ代表されるのが当然なのである。そこで仔細に検査して見れば、法律をもっている国民は極めて寥々りょうりょうたるものであることがわかる。それはさておき、保民官は、行政権を少しももっていないのであるから、彼等に委任された権限によって国民を代表することができるわけではなく、ただ元老院の権限を奪って、国民を代表していたのであることは確かである。

ギリシャ人は、国民のしなければならぬことはことごとく自分でした。彼等は絶えず広場に集合した。彼等は温暖な土地に住んでいた。彼等は貪婪どんらんでなかった。彼等の労働は奴隷が行い、彼等自身の主な仕事は彼らの自由に関する仕事であった(即ち政治のことである)。ギリシャ人のように都合のよい境遇にいない者が、どうしてギリシャ人と同じ権利を維持することができるか? 諸君の国の気候はギリシャよりも寒いから諸君は多くの必要をもっている。〔註〕一年の中で六ヶ月は諸君の広場には人が留まっておれない。諸君の不明瞭な言葉は野外では十分に聞きとれない。諸君は自由よりも利得に汲々としている。そして諸君は奴隷になるよりも貧乏になるのを余計に恐れている。

〔註〕寒国で東方諸国の贅沢と柔惰の生活をせんとするのは、彼等の鉄鎖に屈せんとするようなものである。しかも寒国では鉄鎖に屈することは東方諸国におけるよりも一層必然的である。

ではどうするか? 自由は奴隷の助けを借りなければ維持できぬか? それはそうかも知れぬ。極端と極端とは一致するものである。自然をはなれたものにはそれぞれ欠陥が伴うものだ。特に市民社会はそうである。市民社会には他人の自由を犠牲にしなければ自分の自由が維持できず、市民が完全に自由であるためには、奴隷を極端に奴隷とせねばならぬような不幸な事情がある。スパルタの事情がちょうどそうであった。近世国家の国民たる諸君は奴隷をもっておらぬ。しかし諸君自身が奴隷なのだ。諸君は奴隷の自由を買うために、自分の自由を支払っているのだ。諸君がそれを誇るのは無意味である。私の眼をもって見ればそれは仁慈ではなくて怯儒である。

こう言ったからとて、私は、奴隷が必要であると言うのでもなければ、奴隷権が正当なものだというのでもない。私は既にその反対を証明した。ただ私は、自ら自由であると思っている近世の人民が代議士をもち、古代の人民がそれをもっていなかったのは何故かという理由を述べたまでである。それは兎に角、ある人民が代議士をもつようになるや否やその人民はもはや自由ではないのである。その人民はもはや存在していないのである。

あらゆる事情を十分に調べて見ると、私は今後は、極めて小さい都市国家でない限りは、主権者が我々の国家でその権利の行使を維持してゆくことは不可能であるように思われる。けれども国家があまり小さ過ぎるとその国家は征服されてしまいはしないだろうか? 否、私は大国の有する対外的国力と小国の有する容易な政治と良好な秩序とをどうして調和させるかを後に説明するであろう。〔註〕

〔註〕この書物の続編として私は対外関係を論ずるにあたり、連邦制度を論じこの問題を説明するつもりであった。これは全く新しい問題で、まだその原則は全く知られていないのである(ルソーはこの約束を果しておらぬが「ポーランド政府論」第五章においてこのことに一寸言及している)。