社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十六章 政府の設立は契約ではない


立法権が確立したら、更に進んで執行権を確立しなければならぬ。何となれば、執行権は個人的行為によりてしか運用しないものであるから、立法権の本質をなすものではなく、自然、立法権と分離したものだからである。かくの如く考えられたる主権者が、行政権をもつことができたならば、法律と事実とが混同されて、法律と法律でないものとの区別がつかなくなり、暴力を防ぐために設けられた政治体は、あとかたもなく傷つけられてやがて暴力の餌になるであろう。

市民は社会契約によりてことごとく平等であるから、全ての市民は彼等が何をなすべきかということを前もって定めることはできるけれども、誰も、自分でしないことを他人に強要する権利をもってはいない。政治体に生命と運動とを与えるに欠くべからざるこの権利こそ、正しく、主権者が政府を設立して、政府員に委任するところの権利なのである。

ある人々は、この政府の設立という行為は国民と、国民を支配する元首との間に結ばれた契約であって、この契約によって契約当事者間に条件が定められ、その条件の下に元首は支配の義務があり、国民は服従の義務があるのであると主張した。これは大変な風変わりな契約であるということには誰も異存はあるまいと私は確信する。けれども、かような見解が、果たして支持できるか否かを調べてみよう。

第一に至上権即ち主権は譲り渡すことができぬと同様に、これを変更することもできない。これを制限すれば、それは破壊されてしまう。主権者は自己以上のものに従うということは不合理であり、かつ矛盾である。強制的に支配者に従うということは、とりもなおさず、完全な自由(自然状態)への復帰である。

おまけに、人民と某々個人との契約が個人的行為であることは明白である。そこでこの契約は法律たり得る筈もなく、主権の行為たる筈もなく、従って不法なるのであるということになる。更にまた、契約当事者間には、自然法則があるばかりで、相互の契約を保証するものは何もない。これはあらゆる意味において、市民状態 état civil と相容れないものである。即ち、力をもっている者は常にそれを勝手に行使することができるのだから、我々は他人に向って「私は自分の財産を全部差し上げますから、貴方のお気に召しただけそれを返して下さい」という人の行為にも契約という名前をつけてよいわけだ。

国家にはただ一つの契約しかない。それは連合の契約(即ち社会契約)である。この契約それ自身が、他の一切の契約と相容れぬものである。この契約と撞着しないような公共的契約は一つも想像することができないのである。