社会契約論――政治的権利の諸原則 第三篇, ジャン・ジャック・ルソー

第十八章 政府の僭権を防ぐ手段


上述の説明は、第十六章に述べた事柄を確認し、政府の設立は決して契約ではなくて一つの法律であり、行政権の委託者は国民の支配者ではなくて、国民の吏員であること、国民は、その欲するままにこれを任命しあるいは解任することができるということ、委託者にとっては問題は契約することではなくて服従することであること、並びに彼等が国家から課せられた職務を司るのは、ただ市民としての義務を果しているだけであって、その条件をかれこれ言う権利は彼等にないのであるということを明かにする。

だから、国民が世襲政府を打ちたてた場合には、それが一王族の君主政府であろうともあるいは市民の一階級の貴族政府であろうとも、国民はこの場合契約をしたのではない。国民が別の政体を選ぶまで、その政治に暫定的の政体を与えただけである。

国民の欲するままに政体をかえるというようなことは、常に危険であることは真実である。国民は一旦きめた政府は、それが公安と両立しなくなるまでは滅多に手を触れてはならぬということも真実である。しかしこの注意は政策上の要諦であって、法律上の原則ではない。国民は軍権を将軍の手に委ねておく義務をもたぬと同様に、政権を支配者の手にまかせておく義務ももたぬのである。

更にまた、かような場合には、正当な合法的な行為と暴動とを区別し、全国民の意志と暴徒の不平とを区別するに必要な手続をどんなに慎重に守ってもなお足りないということも真実である。それから、特にかような場合には、どんなに法律を厳格にしてもどうしても避けることのできないことだけしか忌わしい事態の起る余地を許してはならぬのである。ところが政府はこの拘束を利用して、国民の意志を無視してその権力を維持し、国民をして政府の僭奪を糾弾することができないようにする。何となれば、政府は外見上その権限を守っているように見せかけて、その実その権限を拡張し、公共の平和を口実として、秩序回復のための集合を容易に妨げることができるからである。その結果政府は沈黙を破ることを禁じておきながらこれを利用し、あるいは自分でわざと不正を犯させながらこれにつけこみ、恐怖のために沈黙しているものを、政府を是認しているものとし、沈黙を破るものはこれを罰するようなことになるのである。ローマの十人官が初め一年の任期で選挙されたのであるに拘らず、次の年まで居据り、民会の召集を許可しないで、永久に政権を保持しようとしたのは、これにあたる。しこうして、世界各国の政府は皆一度び政権を委ねられると、早晩この容易な方法によりて主権を僭奪するのである。

私が前に述べた定期会議は、この不幸を防ぎ、あるいはその到来を延引さすに適当な方法である。特にこの会議が正式召集の必要のない場合にそうである。何となれば、かかる場合には、政府は法律の蹂躙者であり、国民の敵であることを公然と宣言しないでは、この会議を妨げることができないからである。

社会契約の維持を唯一の目的とするこの会議の開会には、その冒頭にあたって、常に、次の如き二個の議案を提出しなければならぬ。これは決して略することはできぬ。そして各個別々に投票に付すべきである。

第一議案『主権者は現在の政体の維持を欲するか』

第二議案『国民は現在の政府に政治を委ねることを欲するか』

私はここで、私が既に証明したと信じている事項、即ち、国家には廃止することのできないような基本法はなく社会契約でさえもその例外ではないということを仮定しているのである。何となれば、もし市民全体が集会して、満場一致をもってこの契約を破棄したならば、この破棄が極めて合法的なものであることは疑いの余地がないからである。グロチウスは、国家を構成している各人は、故国を脱出することによりて、故国を捨て、自然の自由と自己の財産とを回復することができるとさえ考えている。〔註〕しかるに、各個人が別々になし得ることを、市民全体がなし得ないというのは不合理ではないか。

〔註〕但し、義務を回避するためや、国家が我々を必要としている時に、祖国に対するつとめを免れるために脱出することは許されない。かかる場合の脱出は犯罪行為であり、処罰すべき行為である。それは脱出ではなくて逃亡である。