前章の説明によりて、公務がどんな風に処理されているかという状態の如何は、政治体の徳性及び健康の現状如何を確実に示すものであるということがわかるのである。即ち、会議に異論が少なければ少ない程、換言すれば意見が全員一致に近ければ近い程、一般意志もまた優勢なのである。これに反して、討論が長びいたり、意見が分裂したり、議場が喧騒を極めたりするのは、個人的利益が優勢を占めて、国家が衰運に傾いていることを予告しているのである。
このことは、国家の組織の中に、二つもしくは二つ以上の階級が入って来ると不明瞭になって来る観がある。たとえばローマには貴族と平民との二階級があって、両階級の軋轢は、ローマ共和国の全盛期においてさえも、しばしば民会を騒がした。けれどもこれは一見例外のようであるが事実はそれ程でもないのである。何となれば、当時は政治体に内在的の弊害のために、言わば一国家の内に二国家があったのである。それでこのことは二つを一緒にした場合には真理でなくても、各個別々については真理なのである。実際、国歩の最も多難であった時でも、元老院の干渉がなかった時には人民の一般投票は常に静穏裡に行われ、かつ大多数をもって通過した。市民が唯一の利益しかもたないものだから、国民は唯一の意志しかもたなかったのである。
これと正反対の場合にも全員一致の現象が見られる。即ち市民が奴隷状態に陥って自由も意志ももたなくなった場合がそれである。かかる場合には、恐怖と阿諛とが、投票を喝采に変えてしまい、人々は評議はしないで、崇拝するかあるいは呪うのである。帝制時代におけるローマの元老院では、こういういやしむべき状態で議論が行われたのである。時とすると、それは笑うべき用心をして行われたのであった。タキトゥスの言によると(Histor, I, 85)、カトーの時代に、元老院議員等はウィテッリウスに悪罵の野次を浴せかけたが、それと同時に、万一ウィテッリウスが支配者になっても、誰が何を言ったのかわからないようにするために、議場をおそろしく喧騒せしめたということである。
以上に述べた様々な考慮から、一般意志を確かめることの難易、国家の堕落の程度等に応じて、投票を計算し意見を比較する方法を定むべき種々の原則が生れる。
その性質上、いつでも全員一致を要求する法律は一つしかない。それは社会契約である。何となれば、市民の結合ということは、あらゆるものの中で最も自発的なものであるからである。全ての人は生れながらにして自由であり自己の主人であって、何人も、如何なる口実の下にも、彼の同意を得ずして、彼を屈従させることはできないからである。奴隷の子供は生れながらにして奴隷だと決めてしまうのは、奴隷の子供は生れながらにして人間ではないのだと決めてしまうのと同じである。
だから、もし社会契約が結ばれる時に、反対者があっても、これ等の人々の反対は契約を無効にするものではない。ただそれはこれ等の反対者が社会契約の中に含まれることを妨げるだけである。彼等は市民の中にまじっている異邦人である。国家が建設された以上は、その国土に居住しているということがその国家を承認している所以であって、国土に住むということは、主権者に服従するということなのである。〔註〕
〔註〕このことは常に自由国家について言ったものであると解しなければならぬ。何となれば、自由国家以外の国では、家族や、財産や、住居の欠如や、やむを得ぬ必要や、暴力等の関係上、不本意ながらその国に住っている場合がある。かかる場合には、ただその国に住んでいる事実だけでは、その人が契約を承認しておるということにもならぬし、また契約を破っているということにもならぬのである。
この基本的契約以外の場合には、多数者の投票は常に爾余の全体の人に対して拘束力をもつのである。これは契約そのものの必然的帰結である。けれども、ある人が自由でありながら、同時に自己の意志ならざる意志に強制されるのはどういうわけかという疑問が起こって来る。ある法律の反対者が、自分では自由でありながら、自分の承諾しない法律に服従するのはどういうわけかという疑問が起こって来る。
それは質問の仕方が間違っているのだと私は答える。市民はすべての法律に同意しているのである。彼が反対したにもかかわらず通過した法律にも同意しているのである。法律に違反すれば罰せられるという法律にさえも同意しているのである。国家の全員の不変の意志こそ一般意志なのである。この一般意志によりて、彼等は市民となり、自由になっているのである。〔註〕ある法律が国民の議会に提出された時には、国民の問われた問題は、正確に言えば、彼等がこの提案を承認するかあるいは否認するかという問題ではなくて、それが、国民の意志即ち一般意志に合致するか否かという問題なのである。各人はこれに関する自分の意志を発表するために投票するのである。だから投票を計算して見れば、一般意志の帰趨が奈辺にあるかがわかるのである。故に、自分の意見に反対の意見が優勢を占めた時には、それは自分が間違っていたということ、自分が一般意志だと考えていたものは、実はそうでなかったということを証明しているに過ぎないのである。もし自分一個の意見が通るようなことになったら、自分は自分の欲するのとは別のことをしたことになるだろう。そしてその場合には自分は自由ではなかっただろう。
〔註〕ジェノヴァでは、牢獄の正面と、囚人の鉄鎖とに、自由 libertas という言葉が記してある。この言葉をこういう所に使用したのは、まことに宜しきを得ている。実際市民の自由を妨げるものは、あらゆる種類の悪人である。こういう人が皆牢獄に入っている国には最も完全な自由があるだろう。
もっとも、このことは、一般意志のあらゆる特徴は依然多数投票の中に存することを前提としているものであって、多数投票の中に一般意志が存しなければ、いずれの側についても、もはや自由はないのである。
私は前に、公共の討議において如何にして個人的意志が一般意志に代るかを明かにしこの弊害を避けるための実行し得る方法を十分に示しておいた。私はそのことについては更に後に述べようと思う(第四章参照)。また、どれだけの割合の投票があれば一般意志としてよいかという問題についてもこれを決定する基準となる原則をあげておいた。一票の差でも同数でなくなるし、一票の反対があっても満場一致は破れる。けれども同数と満場一致との間には、多くの投票の比例の差異がある。而してこの比例は国家の状態と国家の必要とに応じて、定めることができる。
この比例を定める助けとなる二つの一般原則がある。その一つは、討議事項が重大問題であればある程、満場一致に近い投票が必要であるということであり、いま一つは、論議される事柄が緊急を要することであればある程、法定の差数を少なくし、速決を要する事項においては一票の多数でも十分としなければならぬということである。この中で、第一の原則は法律をきめる場合に適し、第二の原則は実務を処理する場合に適しているように思われる。それはいずれにもせよ、この二つの原則の適宜な配合によりて、多数決の基準とする最もよき比例が定められるのである。