社会契約論――政治的権利の諸原則 第四篇, ジャン・ジャック・ルソー

第四章 ローマの民会


我々は初期のローマについては、何等正確な記録をもっておらぬ。それどころか、初期のローマに関して述べられている事柄の大部分は、寓話であると思われる点が甚だ多い。〔註〕一般に、国民の歴史の中で最も教訓に富める建国の歴史は最も我々に知られていないのである。経験は毎日我々に如何なる原因から諸帝国の革命が生れるかを教えている。けれども現在ではもはや形成されつつある国民はないのだから、我々は、国民が如何にしてつくられたかを説明するためには推測以外の何物をももたないのである。

〔註〕ローマ Roma という名前はロームルス Romalus から来たのであるといわれているが、これは「力」ということを意味するギリシャ語である。ヌマ Numa という名前もまたギリシャ語であって、これは「法律」ということを意味する。ローマ初代のこの二人の王が、彼等が成しとげた事蹟に深い関係のあるかのような名前を前もって持っていたとどうして考えられようか。

既にできあがっている習慣が存在しているということは、少なくもその習慣には起源があったということを証明する。この起源を説明する伝説の中で、最も有力な典拠を有し、最も有力な理由によりて証拠づけられている伝説は、最も確実な伝説と見倣さなければならない。私は、地上における最も自由にして最も強大なる国家が、その至上権を如何に行使したかを探究するにあたって、この原則に従ってゆこうと思うのである。

ローマの建国後、新興の共和国、即ち、アルバン人 Albains サバン人 Sabins 及び外国人からなる建国の軍隊は、三つの階級に分たれ、分割された各階級は部族 tribus と名づけられた。しこうしてこの部族は各々十ずつのキュリイ curies に分たれ、各キュリイは更にデキュリイ décuries に分たれ、キュリイの首長をキュリオン curions と言い、デキュリイの首長をデキュリオン décurions と言った。

その他に、各部族から百名の騎兵即ち騎士の一団を選抜して、これを百人組 centurie と呼んだ。これによって見れば、この区分は、ローマの町のためにはあまり必要でないから、はじめは軍事上の区分に過ぎなかったことがわかる。ところが、大国たらんとする本能は、このローマの小都市をして、前もって世界の首府にふさわしい政治組織を採用させたように思われる。

この最初の区分からは間もなく不便が生じて来た。即ちアルバン人の部族〔註一〕及びサバン人の部族〔註二〕はいつまでたっても同じ状態に留まっていたが、外国人の部族〔註三〕は、新来の外国人が続々と加わったために不断に膨大し、やがて他の二部族を圧倒するようになった。セルウィウス Servius は、この危険な弊害に対する救治策として、従来の区分法を変え、種族による区分を廃して各部族の居住している町の区画による区分法をこれに代えた。そして彼は三部族の代りに四部族とし、各部族を、それぞれローマの一つずつの丘に住ませ、その部族を丘の名前で呼んだ。かくの如くして、彼は現在の不平等を救治すると同時に、更に将来の不平等をも防いだのである。しこうしてこの区分を単なる地域の区画に止めないで人間の区分たらしめるために彼は一区画の住民が他の区画へ移ることを禁じた。それがために種族の混交を防ぐことができたのである。

〔註一〕ラムナンス Ramnenses

〔註二〕タシアント Tatientes

〔註三〕リユセエル Luceres

彼はまた従来の三組よりなる騎士の百人組を倍加し、更に同じ名称で十二の百人組を増設した。この簡単にして有効な手段によりて、彼は人民に不平を起させずに、騎士の団体と人民の団体とを区別するに成功したのである。

この市部の四部族の他にセルウィウスは別に十五の部族を増した。これは十五区に分割されて村落の住民から成る部族であったから、村落部族と命名された。その後、更に多くの部族が増設されて、遂にはローマの国民は三十五部族に分たれるようになり、ローマ共和国の最後までこの数のままであった。

この市部部族と村落部族との区別は注目に値する結果を生じた。何となれば、これは他に類例のない制度であったのみならず、これによりてローマはその風習を保存しその帝国を拡大することができたからである。世人は市部部族は、間もなく勢力と名誉とを僭奪して、やがて村落部族を無視するに至っただろうと思うかも知れぬが、事実はその反対であった。初期のローマ人が田園生活を愛したことは人の知るところである。この趣味は、田園の労働と軍隊の作業とを自由と一致せしめ、技芸、陰謀、財産、奴隷などを、言わば都会へ追放した賢明な建国者から彼等に伝えられたものなのである。

そういうわけで、ローマの有名な人物はことごとく田園に住み、土地を耕していたのであるから、共和国の支持者を求めようと思えば田舎を探せばよかったのである。こういう生活は最も高貴の 貴族パトリシアンの生活だったのであるから、万人から尊敬された。村落民の質素な勤労生活はローマの中流階級の遊惰な生活よりも喜ばれた。そして都会においてはあわれむべき無産者に過ぎないものも、田舎の農民としては、尊敬すべき立派な市民となった。ウァロ Varron は「我々の寛宏かんこうなる先生達が、戦時には彼等を防衛し、平時には彼等を養う強壮果敢な人物の養成所を田舎にこしらえたのは至当であった」と言っている。プリニウス Pline の如きは「村落部族は、それを構成している人物が優れていたために尊敬された。これに反して、無価値なろくでもない人間は侮辱を与えるために、不名誉のしるしとして市部部族へ移された」と極言している。サバン人のアッピウス・クラウディウス Appius Claudius は、ローマに居を定めるために移住して来たが、同地で多大の名誉を受けて、村落部族に編入され、後にこの部族は、クラウディウスの家名をとったのである。最後に、奴隷から解放された新市民 affranchis はことごとく市部部族へ編入され、決して村落部族へは入れられなかった。しこうして、この新市民は、市民にはなったけれども共和国の全期間を通じて、一人として公職についたものはなかったのである。

この政策は立派なものであった。けれどもそれが極端に走って、遂にはその結果政治の変革を見たのである。しかもこの変革たるや、確かに悪変であったのである。

先ず第一に、都察官 Censeurs は、市民を一部族から他部族へ移す権利を長い間僭有していたために、遂には大部分の人に、自分の好む部族へ移ることを許可するようになった。この許可は確かに何の利益もなく、その上都察官の権能の一つを奪ったのである。おまけに、大人物や有力者はことごとく村落部族へ移り、市部部族は新市民が平民と共に市民となりて留まり、部族は、一般に、場所や居住地をもたなくなって、まったく混交し、誰がどの部族に属するかということは、族籍簿によらなければわからなくなった。そこで、部族という言葉は土地的の意味を失って人的の意味をもつようになった。否むしろほとんど架空の言葉となったのである。

更にまた、市部部族は、膝下近くに住んでいるものだから、しばしば民会において最も優勢を占めるようになり、市部部族を構成している賤民共の投票を買ってくれる者に国家を売り渡した。

元来ローマの建国者は、各部族に十ずつのキュリイをこしらえたのであるから、当時市の城壁内に住んでいたローマの人民は三十のキュリイをもって構成され、各キュリイはそれぞれ別々の寺院と、神と、役人と、司祭と、祝祭とをもっていたのである。この祝祭はコンピタリアと呼ばれ、後に村落部族で行われたパガナリアという祝祭に似たものであった。

セルウィウスが新たに部族の区分を行った時に、この三十という数は四つの部族に等分することができなかったので、彼は敢えてこれを分割しようとしなかった。そこでキュリイは部族と独立して、ローマの住民の別個の区分となった。けれども部族が純然たる政治機関となってしまったので、キュリイはもはや村落部族においても、その部員においてもどうでもよくなった。そして新しい徴兵制度が施行せられたるために、ロームルスの制定した軍事的区分は無用になった。かくて市民はことごとく部族には編入されたけれども、各市民がキュリイに編入されるというようなことはなくなった。

セルウィウスは更に第三の区分を行った。これは前の二つの区分とは全然関係のないものであったが、その結果から見ると、三つの中で最も重要なものとなった。彼はローマの全国民を六階級に分った。彼はこの六階級を地区によりて区別したのでもなければ、人間によりて区別したのでもなく、財産によりて区別したのである。そして富者を第一の階級に入れ、貧者を第六の階級に入れ、その中間には中位の財産所有者を入れた。この六階級は、更にサンチュリイという百九十三の団体に細分された。しかも、第一の階級は単独で半数以上のサンチュリイを占め、第六の階級はただ一つのサンチュリイしかつくらないように区分した。そこで人数においては最も少ない階級が最も多くのサンチュリイを有することとなり、第六の階級は単独でローマの住民の半ば以上を占めていたにも拘らず、唯一のサンチュリイしかもたないことになった。

セルウィウスは、国民になるべくこの最後の区分法の結果を理解させないために、これを軍事的の区分であるかの如く見せかけた。彼は第二の階級には二組の武具製造人のサンチュリイを加え、第四の階級には二組の軍器製造人のサンチュリイを加えた。そして第六の階級を除く各階級では、老若の区別を設けた。即ち、強制的に軍籍に入るべき人と、法律によりて、年齢のために軍籍を除外されている人との区別を設けた。この区別は、財産上の区別の方よりも頻繁に国勢調査あるいは人口調査の必要を生じた。そこで、遂に、彼は、マルス宮殿の神苑で会議を開き、服役年齢にある国民をことごとく武器を携えてそこへ参集させようと欲するに至った。

彼が第六階級に老若の区別を設けなかった理由は、この階級に属している庶民 populace には祖国のために武器をとる名誉が許されていなかったからである。家 foyer をまもる権利を得るためには家を有っている必要があった。ところが、今日各国の国王の軍隊を飾っている無数の乞食の兵隊の中には、軍人が自由の擁護者であった当時のローマの軍隊に軽蔑して追いはらわれなかった者は恐らく一人もないであろう。

けれども、なお、第六の階級においても、無産者 Prolétaires と賤民 Capite censi との区別があった。前者は全く無視されていたわけではなくて、少なくも国家に市民を供給し、緊急を要する場合には、時としては軍人をさえも出した。全然無一物で、ただ頭数を数えることしかできない後者は、全く無視された。はじめてこれを軍籍に編入したのはマリウス Marius であった。

ここでは、第三にあげた制度が、それ自身において善いか悪いかは決めないとして私は、これを実行することができたのは、ひとえに古代ローマ人の質朴な風習と、彼等の廉直と、彼等の農業に対する趣味と、商業及び営利に対する侮蔑とに外ならぬと断言することができると信ずる。近代の国民の中に、その飽くなき貪婪どんらん貪婪と、精神の不安と、陰謀と、絶えざる住居の移転と、不断の財産の急変とをもってして、国家全体をくつがえすことなしにかくの如き制度を二十年も維持し得る国民が果たしてあるだろうか? しかもなお、この制度よりも一層強力なる道徳と都察官とが、ローマにおいてはその弊害を矯正し、富者にしてあまりに豪奢を発揮する者は、貧民階級におとされたということをも十分注意せねばならぬ。

これ等の事情をことごとく考慮すれば、事実上ローマには六つの階級があったにもかかわらず、従来ほとんど五階級についてしか論ぜられなかったかという理由を容易に理解することができる。第六階級は軍隊に軍人を出すこともなければマルスの社苑に投票者を出すこともなく〔註〕共和国においてほとんど何の役にも立たなかったのであるから、多くの場合に無視されたのである。

〔註〕私がマルスの社苑(Champ de Mars)と言ったわけは、サンチュリイの民会がそこで開かれたからである。他の二つの民会には国民はフォーラムもしくは他の場所に集ったのである。そしてこれ等の会議においては賤民でも第一階級の市民と同じ勢力と権力とをもっていたのである。

ローマの国民は以上の如くに区分されていたのである。これからこれ等の区分の各集会において如何なる結果をつくり出したかを調べてみよう。合法的に召集されたこれ等の会議は民会 Comices と呼ばれた。民会は、普通、ローマの広場あるいはマルスの社苑で開かれた。そして、前記三通りの区分のいずれに従って召集されるかによりて、キュリイ民会、サンチュリイ民会、部族民会の三つに区別された。キュリイ民会はロームルスの制定したものであり、サンチュリイ民会はセルウィウスの制定したものであり、部族民会は、保民官によりて設定されたものである。一切の法律は民会においてのみ批准され、一切の行政官は民会においてのみ選挙された。しかもキュリイか、サンチュリイか、部族かのいずれかへ編入されていない市民は一人もなかったのであるから、従って、投票権をもたない市民は一人もなく、ローマの国民は、名実ともに真の主権者であったということになる。

民会が合法的に召集され、民会において決議された事項が、法律としての効力をもつためには、三つの条件が必要であった。第一に、民会を召集する団体あるいは行政官は、これを召集するに必要な権威を与えられていることであり、第二に会議は法律によりて許された日に召集されることであり、第三に、占卜せんぼくが瑞兆を示していることであった。

第一の規定は言わずして明かである。第二の規定は政策上の問題である。即ち、これによりて、休業日及び市場の開かれる常日は村落の住民はローマへ用達しに来るのであるから、公会場で一日を過す暇がない。それ故にこれ等の日に民会を開くことは許されなかったのである。第三の規定によりて、元老院は傲慢な、暴民を抑圧し、野心に満ちた保民官の野心を程よく鎮めたのである。けれども保民官はこの抑圧から脱する方法を一つならず知っていた。

法律と長官の選挙のみが民会の判断に付議される唯一の事項ではなかった。ローマ国民は、政府の最も重要な機能を自ら行っていたのであるから、ヨーロッパの運命はこれ等の会議によりて決せられたのであるということができる。これ等の会議は、その討議事項が多岐に亘っていたために、如何なる問題を決定しなければならぬかという問題の性質によりて、会議に種々の種類があったのである。

これ等各種の民会の区別を知るためには、これを比較して見れば十分である。ロームルスは、キュリイを制定するにあたって、等しく人民と元老院との上にたって、元老院を人民によりて抑制し人民を元老院によりて抑制しようと考えたのである。そこで、彼は、貴族パトリシアンに勢力と富とを与えると共に、これと均衡を保たせるために、人民に数の上で力を与えた。けれども、彼はやはり君主政治の精神に従って、クリアン(貴族の保護を受けている平民)の勢力によりて貴族が多数の投票を制することができるようにした。この保護者パトロン(貴族)と被保護者クリアン(平民)との嘆賞すべき制度は、政治家の傑作であったと同時に人類の傑作であって、これがなかったならば、あれ程共和国の精神と矛盾した貴族制度は到底存続しなかったであろう。この見事な模範を世界に示すことのできたのはローマだけであって、ローマにおいては、この制度は決して弊害に陥らなかったけれども、この模範に追従した国は他には一国もなかったのである。

このキュリイ民会は、セルウィウスに至るまで、代々の王の治下を通じて存続し、最後のタルクィニウスの治世は、合法的なものと認められなかったから、王の法律は一般に「キュリイ法」leges curiatæ という名称で区別された。

共和国の治下においても、キュリイは依然四つの市部部族に限られ、ローマの平民のみしかこれに属しなかったから、貴族パトリシアンの上にたつ元老院とも折り合いがつかず、平民とは言え、裕福な市民の上にたつ保民官とも折り合いがつかなくなった。そこでキュリイの信用は地に墜ち、その衰微の極、遂にはキュリイ民会のなすべき仕事を、キュリイの三十人の警吏リクトルが集ってやるようにまでなった。

サンチュリイによる区分は、大変貴族に好都合であった。だから、執政官、都察官及びその他の高官を選挙したこのサンチュリイ民会において、元老院が優勢を占めなかったのが、一見したところではどういうわけかわからないくらいである。実際、六階級からなるローマの全国民でつくられている百九十三のサンチュリイの中で、第一階級は九十八のサンチュリイを占めていた。おまけに投票は、専らサンチュリイで行われたのであるから、第一階級だけで、優に爾余じよの階級全体を合したよりも数の優越をしめていたわけである。そこで、この第一階級のサンチュリイが全部一致すれば、もはや他の投票は計算さえもされなかった。最も少数の人の決めたことが、多数者の決めたこととして通ったのである。それ故に、サンチュリイ民会においては、国政を左右するものは投票の多少ではなくて、金銭の多少だったと言うことができる。

けれども、この極端な権威は、二つの手段によりて調節された。即ち、第一に、保民官は通常富者の階級に属していたし、平民プレペイアンの多数もまた富者の階級に属していたものだから、この両者は、第一階級の中にあって、貴族パトリシアンの勢威に対抗した。

第二の手段はこうであった。即ち、サンチュリイの順序によりて投票すれば、いつでも第一階級が真先に投票することになるのであるが、この順序にはよらないで、先ず第一に選挙するサンチュリイを抽選によりて定めてこれに投票させ〔註〕それから他日、爾余じよのサンチュリイを階級順によりて召集し、同じ選挙を繰返させた。これらのサンチュリイは、通常、第一回のサンチュリイの選挙を確認したのであった。かくの如くして、模範を示す権威を上級階級から奪い、民主政治の原則に従って、これを抽選に委ねたのである。

〔註〕かくの如く抽選によりて当選したサンチュリイは、第一番に投票を求められたために、プレロガティヴァ(優先者)と呼ばれた。プレロガティヴ(特権)という言葉はこれから出たのである。

この慣例の結果として、今一つの利益が生じた。即ち、田舎の市民は、二回の選挙の間に、仮に指名された候補者の才幹を知るだけの時間の余裕を得て、理由を知悉ちしつして投票することができたのである。けれども、迅速を尊ぶという口実の下に、この慣例は廃止されて、二回の選挙は同日に行われるようになってしまった。

部族民会は、本来、ローマ国民の評議会であった。この民会は、保民官によりてのみ召集されたもので、保民官は、この民会で選ばれ、決議はここで通過された。元老院は、部族民会に座席をもたなかったのみならず、この民会に列席する権利ももたなかった。そして、彼等が投票することのできなかった法律に服従するように強制されたのである。この点において、元老院議員は、最下級の市民よりも自由でなかったのである。この不公正は、全く間違ったものであった。そして、それだけでも、全員の参加を許されない団体の命令デクレを無効とするに十分であった。貴族パトリシアン全体が、彼等が市民としてもっている権利によりて、この民会に列席したとしても、その時には、彼らは単なる一個人の資格になってしまうのであるから、頭数によりて決せられ、最下層の 無産者プロレテイルも、元老院の大官ブランスも同一視された所のこの投票には、ほとんど影響を及ぼさなかったであろう。

それ故に、かくも多数の人民の投票を集めるために設けられた種々の区分から生じた秩序オルドルを除いては、これらの区分は、それ自身において無私公平な形態とはならず、各形態は、それぞれそれが設けられた趣意に応じた結果をもつに至ったことは明かである。

このことを、これ以上詳しく説明しなくとも、前に述べた説明から、部族民会は、民主政治に最も都合のよいものであり、サンチュリイ民会は、貴族政治に最も都合のよいものであるということになる。ローマの庶民ポピュラースだけが多数を占めていたキュリイ民会に至っては、暴政と、不正な計画とを助長するだけの役にしか立たなかったものであったから、当然不評判に堕せざるを得なかった。扇動家でさえも、彼等の計画をあまりに露骨に表わす手段を控えたのであった。ローマ国民の尊厳は、唯一の完全なサンチュリイ民会にのみ見出されたことは確実である。けだし、キュリイ民会には、村落部族が欠けていたし、部族民会には、元老院と貴族パトリシアンとが除外されていたからである。

投票を集める方法は、初期のローマ人にありては、その風習と同様に単純であった。とは言え、スパルタよりも単純であったとは言えないが。各人は、高声で、その投票を告げた。すると書記が、それを順次に記載していったのである。そして各部族内の投票の多少によりて部族の票決が行われ、各部族間の投票の多少によりて、人民の票決が行われたのである。キュリイにおいても、サンチュリイにおいても、これと同様であった。この慣習は、各市民が正直で、自分の投票を公然と不正な意見や、無価値な問題に与えるのを恥としていた間はよかった。けれども人民が腐敗して、投票が売買されるようになって来ると、無記名投票が適当になって来る。それは、買収者の心中に不信の念を生ぜしめ、ずるい人間(投票を売る人)に、裏切り者でなくなる方法を提供するからである。

私は、キケロが、この変更を批難し、ローマ共和国滅亡の一因はそこにあると言っているのを知っている。けれども、私は、キケロの言が、千鈞の重みをもっているに相違ないとは感ずるが、それでも、ここで彼の意見に同意することはできない。その反対に、私は、かような変更を十分にしなかったために、国家の滅亡を速めた例があると考える。健康者の摂生法は、病人に適しないように、腐敗した国民を、善良な民に適する法律と同じ法律で統治しようと思ってはならぬ。ヴェニス共和国の法律が悪人にのみ適するものであるために、今なお、この国が形骸を留めて、存続している事実ぐらい、この原則マキシムを雄弁に立証するものはない。

それ故に、市民に、紙片を分配して、各人は、誰にも自分の意見を知られることなく、投票できるようにされた。また、この投票紙を集め、投票を計算し、数を比較する等のためにも、新しい方法が設けられた。それでもやはり、これ等の職務を託された役人〔註〕の忠誠は依然としてしばしば疑はれた。そこで、遂には、陰謀と、投票の売買とを防ぐために、沢山の法令が発布された。その法令の数の多かったことは、それが無益であったことを示している。

〔註〕クストデス、デイリビトレス、ロガトレス、スフラギオルム。

ローマ共和国の末期には、法律の不備を補うために、しばしば、非常手段を訴うることを余儀なくされた。即ち、ある時には奇蹟があったと偽られた。けれども、この手段は人民を欺くことはできたけれども、人民の支配者を欺くことはできなかった。またある時は、候補者が陰謀を企てるいとまのないうちに、突然会議が召集された。またある時は、人民が勝ちほこって、不正な決議が行われようとしている時は、会議の全会期を、雑談で費やしてしまったこともあった。けれども遂に野心が最後の勝利を占めた。しかも、信ずべからざることであるが、この大国民は、かくの如き弊政の中にあって、なお、祖先の定めた制度のおかげで、行政官の選挙、法律の通過、訴訟の裁判、公私の事務の処理を、ほとんど元老院がなし得たであろうと同様に敏速に行っていったのである。